世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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そこにはクリエイターもコンテンツも存在せず、ただうp主と神動画が存在するのみ - E.L.H. Electric Lover Hinagiku

個人的には、UGC(ユーザー生成コンテンツ)やCGM(消費者生成メディア)というものは、コンテンツビジネスの延長線上ではなく、サークル活動の延長線上で捉えたほうがしっくりくるような気がする。
かつては半径何メートルかの同好の士によって行われていたそららの活動が、インターネットによって、『メディア』と呼ばれるまでの大規模なものになった、と。

UGCやCGMをサークル活動(の成果物)として捉えれば、それをビジネスに乗っけるのがいかに難しいことか分かる。
サークル活動を事業化しようとしても、「自分はサークル活動という気楽さが好きなんだ」と反対するメンバーが必ず現れ、挫折するに違いない。
文化祭の模擬店のように販売するところまでをサークル活動とすれば(同人誌活動なんかは、こうした感じが強いのかな)、多少はビジネスに乗っけられるだろうけど、これだって基本的には「儲けは二の次」の域を超えないだろう。
なので、コンテンツビジネスとしては、自由にサークル活動をさせておいて、そこから生まれる成果物の中からこれはというものをピックアップして商品として販売するという、つまりは現状のやり方以外に手はないように思う。

ということで、個人的には、UGCやCGMにコンテンツビジネスの未来を期待するのはやめておいたほうがいいだろうと思っている。
「そこ」にクリエイターもコンテンツも存在せず、JASRACモデルも通用しないのは、「そこ」がビジネスの場じゃないからだろう。
どうにかして「そこ」を商業地として開拓したい気持ちはわかるけれど、「開拓したら土地が枯れた」なんてことになったりしてね。

そんなことよりも、「これからの時代、プロの作品をいかに売るか」というところを真正面から考えることでしか、コンテンツビジネスの未来は切り開けないだろうとぼくは思う。
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by kude104 | 2008-12-04 23:59 | PC&ネット

CGMの向き不向き

前回の続きというか。

僕の敵は「オタク」ではなくて「CGM翼賛体制」です - araig:net

CGM(Consumer Generated Media~「消費者発信型メディア」とでも言うのかな)からは、『絶対に、何も、生まれない』という発言について。
端的に思うところを述べれば、『CGM翼賛』も『CGM全否定』も、どちらも極端――という、まこと面白くない話になってしまうわけだけども。

たとえば、現在CGMの輝かしき代表であるニコニコ動画から、これまでに様々なコンテンツが生まれています。
そこに、ソフトウェアのオープンソース開発に通じるものを見る人は多いでしょう。

では、そのオープンソースは万能かというと、決してそんなことはなくて。
どこかで誰かが述べていらしたと記憶していますが、オープンソース開発にも得手不得手というか、向き不向きがあるようです。
簡単に言うと、既存のソフトウェアをオープンソース化するのは得意だけど、オープンソースでまったく斬新なソフトウェアを開発するのは苦手だ、と。

で、CGMですが、CGMにも当然向き不向きがあるでしょう。
CGMといっても、ニコニコ動画もCGMならブログもCGMということで一括りに言うには多種多様ではありますが――。
たとえば、上記エントリーで引き合いに出されているケータイ小説と従来メディアの小説とをお笑い芸人にたとえると、こんな感じじゃないでしょうか。
ケータイ小説はバラエティ番組での当意即妙なアドリブの面白さ、従来メディアの小説はよく練られた漫才の面白さ。
フリートークが面白くても漫才ネタが面白いとは限らないし、逆もまたしかりです。
ごく稀に両方面白い芸人さんがいますが、基本的には、テレビ芸人と舞台芸人とでは、必要とされる才能が違う。

ですから、舞台漫才が好きな人にとっては、テレビの影響でアドリブ芸人が大量発生するのは嘆かわしいということになるだろうし、テレビのバラエティ番組が好きな人にとっては、アドリブ芸人大いに結構ということになるだろうし。

向き不向きで言えば、CGMはアドリブ芸人向きだと思います。
当意即妙でスピーディーなのに向いているように思う。
また、消費者参加型だけに、「あるあるネタ」――上記エントリーでは「約束された感動」と書かれていますが、要するに、みんなで「あるある」と共感しあうものが好まれる傾向もあるでしょう。

いずれにしても、個人個人の趣味嗜好はどうあれ、世の中全体の大きな流れとしては、おそらく、娯楽だけ大量生産大量消費の傾向に抗えるなんてことは、ないと思うのです。
世の中のあらゆるものはファーストフード化する。
それはコンテンツにおいても然りです。
そんな中にあって、回転寿司で食事をするか、回らない寿司屋で食事をするかは、個人の好き好きということで。
ぼくらには、自分の好きな店で食事をして、その店が潰れないことを祈るくらいしかできることはないのではないでしょうか。
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by kude104 | 2007-10-25 23:08 | PC&ネット
今やプロフェッショナルである必要はなくなった | 住 太陽のブログ

言葉に対するイメージの違いだけど、利益目的か否かで「プロ」と「アマ」を分けるのは、少々違和感を覚えます。
「プロ」という言葉には、「プロ意識」「プロ根性」という使い方のように、能力等々が秀でているといったニュアンスも含まれると思うので。
「作り出される作品の価値に違いがなくなってきた」という点を論じるのであれば、「プロ」「アマ」ではなく、「営利活動」「非営利活動」で語ったほうが要点に近い気がするのですがどうでしょうか。

従来であれば、作品を世に送り出す際にものすごいコストが必要だったために、そのコストを賄える「営利活動」上でなければ「プロ」たり得ませんでしたが、今はネットを使えばかなり安価に作品を発表できるようになったので、「非営利活動」上であっても「プロ」たり得るようになったと、そういうことかなと思います。

ただ、そういった話とは別の意味で、「今やプロフェッショナルである必要はなくなった」と感じることが多々あります。

CGMなどその最たるものですが、あれは、かつては「プロ」に作らせていたコンテンツを、「アマ」に作らせるようになったと言えるでしょう。
つまり、運営者側が「プロ」を起用する必要がなくなったということです。
そして、投稿されるひとつひとつのコンテンツのクオリティについても、「プロ」レベルである必要を求められていない。
したがって、投稿者にも「プロ意識」は必要ありません。
コンスタントに一定のクオリティの作品を作り出すのが「プロ」であるとするなら、CGMには、「プロ」は要らないのです。
もちろん、有償で仕事をするという意味での「プロ」も要らない。
一定の割合でクオリティの高い作品を生み出す投稿者集団があればいい。

もしかしたら、今後、プロフェッショナルとして活動したくてもアマチュア枠しかないケースが多々出てくるかもしれませんね。
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by kude104 | 2007-05-04 23:20 | PC&ネット