競争社会は降りられるのか?
2005年 05月 11日
『祭りの戦士』というブログで、内田樹さんの『希望格差社会』にまつわる一連の反論(というか否定的?)エントリーを目にしました。
ぼく自身は内田さんの『希望格差社会』に「なるほどなぁ」と共感したくちなので、そうではないひとの意見というものが純粋に刺激的で面白かったです。
こういうのがブログの醍醐味ですね。
『祭りの戦士』でaraikenさんが仰っている、競争社会を「降りる」と「諦める」との違いを実感として理解するのは、競争社会にいる人間にはなかなか難しい。
前者が「競争社会から離脱する」のに対して、後者が「競争社会の中で競争から離脱する」ことなんだろうと、ぼくなりに解釈。
で、両者の違いが分かり難い理由として。
競争社会を離脱した人間──つまり「降りた」人間──を競争社会から見ると、観測者自身は競争社会の中にいるので、観測者には単に競争から離脱したようにしか見えないというのが、まずひとつあるだろうと思います。
このエントリーも、たぶんそうなっているでしょう。
そしてもうひとつ、こちらのほうがぼくの中では大きなウエイトを占めているのですが。
いくら競争社会を「降りた」と言っても、そのひとが貨幣経済の一員である以上は、やはり競争社会の一員なんじゃないの?という思いがある。
貨幣が有限だから、それを奪い合う社会はまぎれもなく競争社会でしょう。
となると、この日本に普通に生きていて、競争社会を「降りた」状態というものがどういうものか、うまくイメージ出来ないのです。
競争社会が「他者を蹴落とす社会」であるなら、そこから「降りる」というのは、他者を蹴落とさずに生きていくということ。
しかし、今生きている社会がまぎれもなく競争社会であるなら、その中で他者を蹴落とさずに生きようと思ったら、他者とブッキングしたときにことごとく自分が「降りる」しかない。
しかもそのとき、降りることに躊躇や未練があってはならない。
「諦める」ことは、競争社会の価値観の上なのだから。
また。
いい暮らしがしたい、美味しいものが食べたい、遊びたい、あれが欲しいこれが欲しい・・・。
そういった「今以上の幸せ」を望んだら最後、ひとは競争社会に取り込まれる。
「もっとお金があればなぁ」と思ったなら、そのあとには、「競争する」か「諦める」かのいずれかを選択せざるをえないのだから。
たしかに、ここまで徹底して降りてくれるのなら、問題はなにもない。
が、しかし。
人間、ここまで徹底して降りられるものだろうか?
ぼくの認識では、今という時代に、競争社会で生きてきた人間が、そこまですっぱり降りられるとは思えない。
降りられない人間のほうが圧倒的に多いと思う。
じゃあ、できることはといえば、せいぜい上手く諦めさせることですねと、そういうところに話が向かってしまうのが競争社会の中に生きる人間の発想ですよね。
これに対して、競争社会のほうをどうにかすべきであるというのが、『祭りの戦士』でのaraikenさんのお考えのようですが。
それがどういった社会であるのかがまだ提示されていないので、なんとも言えません。
おそらくは、競争を弱めた競争社会といった方向性になるんじゃないかとは思いますが。
たしかにまぁ議論としては、現状での最善を論じるより、最善の現状を論じるほうが夢があって面白いです。
ぼく自身は内田さんの『希望格差社会』に「なるほどなぁ」と共感したくちなので、そうではないひとの意見というものが純粋に刺激的で面白かったです。
こういうのがブログの醍醐味ですね。
『祭りの戦士』でaraikenさんが仰っている、競争社会を「降りる」と「諦める」との違いを実感として理解するのは、競争社会にいる人間にはなかなか難しい。
前者が「競争社会から離脱する」のに対して、後者が「競争社会の中で競争から離脱する」ことなんだろうと、ぼくなりに解釈。
で、両者の違いが分かり難い理由として。
競争社会を離脱した人間──つまり「降りた」人間──を競争社会から見ると、観測者自身は競争社会の中にいるので、観測者には単に競争から離脱したようにしか見えないというのが、まずひとつあるだろうと思います。
このエントリーも、たぶんそうなっているでしょう。
そしてもうひとつ、こちらのほうがぼくの中では大きなウエイトを占めているのですが。
いくら競争社会を「降りた」と言っても、そのひとが貨幣経済の一員である以上は、やはり競争社会の一員なんじゃないの?という思いがある。
貨幣が有限だから、それを奪い合う社会はまぎれもなく競争社会でしょう。
となると、この日本に普通に生きていて、競争社会を「降りた」状態というものがどういうものか、うまくイメージ出来ないのです。
競争社会が「他者を蹴落とす社会」であるなら、そこから「降りる」というのは、他者を蹴落とさずに生きていくということ。
しかし、今生きている社会がまぎれもなく競争社会であるなら、その中で他者を蹴落とさずに生きようと思ったら、他者とブッキングしたときにことごとく自分が「降りる」しかない。
しかもそのとき、降りることに躊躇や未練があってはならない。
「諦める」ことは、競争社会の価値観の上なのだから。
また。
いい暮らしがしたい、美味しいものが食べたい、遊びたい、あれが欲しいこれが欲しい・・・。
そういった「今以上の幸せ」を望んだら最後、ひとは競争社会に取り込まれる。
「もっとお金があればなぁ」と思ったなら、そのあとには、「競争する」か「諦める」かのいずれかを選択せざるをえないのだから。
たしかに、ここまで徹底して降りてくれるのなら、問題はなにもない。
が、しかし。
人間、ここまで徹底して降りられるものだろうか?
ぼくの認識では、今という時代に、競争社会で生きてきた人間が、そこまですっぱり降りられるとは思えない。
降りられない人間のほうが圧倒的に多いと思う。
じゃあ、できることはといえば、せいぜい上手く諦めさせることですねと、そういうところに話が向かってしまうのが競争社会の中に生きる人間の発想ですよね。
これに対して、競争社会のほうをどうにかすべきであるというのが、『祭りの戦士』でのaraikenさんのお考えのようですが。
それがどういった社会であるのかがまだ提示されていないので、なんとも言えません。
おそらくは、競争を弱めた競争社会といった方向性になるんじゃないかとは思いますが。
たしかにまぁ議論としては、現状での最善を論じるより、最善の現状を論じるほうが夢があって面白いです。
by kude104
| 2005-05-11 22:46