生きる目的
2005年 02月 22日
「生きる目的」について真剣に考えた経験は、ぼくにもあります。
ぼくは小さい頃から「自分が死ぬ」ということがものすごく怖くて、ときどきふいに死について考えては「うわぁぁぁぁ~」と叫び出したくなるような恐怖に襲われていました。
ま、いまでもまだ何気に怖いんですけど、あるとき、怖がっていてもしょうがないと腹を括りまして。
こんな恐怖と引き換えに生きているんだから、自分が生まれてきた意味がきっとあるはずで、それを見つければきっと満足して死ねるんじゃないかと。
死の恐怖に打ち勝つにはそれしかないと子供心に考えたわけです。
で、しばらく「自分が生まれてきた意味」とか「人はなんのために生きるのか」とか、そんなことを考えては答えの出ない日々を送っていました。
そんなある日、詳しい状況は忘れてしまったんですがおそらく授業の合間の雑談だったんじゃないかと思います。
中学校のとある先生に、「生きる目的などない」と断言されたんですね。
生き物は「生きる」ことがすべてで、それ以外の「なにか」をするために生きているのではないと。
いや、本当にそういう内容だったのか、実はあんまり良く覚えていないんですが。
とにかく、「生きる目的などない」という断言があまりにもインパクトが大きくて。
なにしろ、ずっと「生きる目的」について考え悩んでいたのに、「そんなものはない」と断言されたんですから。
でも、その瞬間に、「ああ、なんだ。それでいいのか」とストンと腑に落ちた。
ぼくらはよく、なにかしら「神様が用意した正解」があるような気がしてしまいます。
「生きる目的」だとか「人生の岐路」だとか「才能」だとか。
占いもそういう考えの上にあるものでしょう。
だから、なんとかしてその正解を見つけようとして、でも見つからなくて、なまじ正解があるものと思っているから間違いを選択するのが怖くて、身動きが取れなくなってジリジリと焦りだけが募ってしまいます。
でも、「正解」なんてないということになれば、「不正解」もなくなります。
間違うことを怖れて身動きが取れないなんて雁字搦めからも抜け出せます。
少なくとも、自分が生まれてきた意味などないと悟ったことで、ぼくはすごく楽になりました。
「ない」ってことは、つまり、自分の好きなように作ればいいってことなんだと。
ハッピーに生きて、悔いなしと思える人生が送れたなら、それは確かに満足して死ねそうだ。
ぼくが思うに、何のためにと問うなら、人は幸せになるために生きるのではないでしょうか。
そして、「この道を選べば、あとは道なりで幸せに辿り付ける」のではなく、道なき道を幸せに向かって歩くのだと。
いついかなるときも、踏み出す足が常に幸せに向かう方向であれば、たとえ何かの拍子で道を外れたとしても、目指す幸せが変わってしまったとしても、すぐに軌道修正できるでしょ。
とまぁそうはいっても、ついつい神様が用意した正解を探してしまったりもするし、進むべき方向はこれでいいのだろうかと迷いもするし、死ぬのはやっぱり怖いですけど。
でも、幸せになるために生きるというところは揺るがない。
こういうのはシンプルなのが一番ですね。
ぼくは小さい頃から「自分が死ぬ」ということがものすごく怖くて、ときどきふいに死について考えては「うわぁぁぁぁ~」と叫び出したくなるような恐怖に襲われていました。
ま、いまでもまだ何気に怖いんですけど、あるとき、怖がっていてもしょうがないと腹を括りまして。
こんな恐怖と引き換えに生きているんだから、自分が生まれてきた意味がきっとあるはずで、それを見つければきっと満足して死ねるんじゃないかと。
死の恐怖に打ち勝つにはそれしかないと子供心に考えたわけです。
で、しばらく「自分が生まれてきた意味」とか「人はなんのために生きるのか」とか、そんなことを考えては答えの出ない日々を送っていました。
そんなある日、詳しい状況は忘れてしまったんですがおそらく授業の合間の雑談だったんじゃないかと思います。
中学校のとある先生に、「生きる目的などない」と断言されたんですね。
生き物は「生きる」ことがすべてで、それ以外の「なにか」をするために生きているのではないと。
いや、本当にそういう内容だったのか、実はあんまり良く覚えていないんですが。
とにかく、「生きる目的などない」という断言があまりにもインパクトが大きくて。
なにしろ、ずっと「生きる目的」について考え悩んでいたのに、「そんなものはない」と断言されたんですから。
でも、その瞬間に、「ああ、なんだ。それでいいのか」とストンと腑に落ちた。
ぼくらはよく、なにかしら「神様が用意した正解」があるような気がしてしまいます。
「生きる目的」だとか「人生の岐路」だとか「才能」だとか。
占いもそういう考えの上にあるものでしょう。
だから、なんとかしてその正解を見つけようとして、でも見つからなくて、なまじ正解があるものと思っているから間違いを選択するのが怖くて、身動きが取れなくなってジリジリと焦りだけが募ってしまいます。
でも、「正解」なんてないということになれば、「不正解」もなくなります。
間違うことを怖れて身動きが取れないなんて雁字搦めからも抜け出せます。
少なくとも、自分が生まれてきた意味などないと悟ったことで、ぼくはすごく楽になりました。
「ない」ってことは、つまり、自分の好きなように作ればいいってことなんだと。
ハッピーに生きて、悔いなしと思える人生が送れたなら、それは確かに満足して死ねそうだ。
ぼくが思うに、何のためにと問うなら、人は幸せになるために生きるのではないでしょうか。
そして、「この道を選べば、あとは道なりで幸せに辿り付ける」のではなく、道なき道を幸せに向かって歩くのだと。
いついかなるときも、踏み出す足が常に幸せに向かう方向であれば、たとえ何かの拍子で道を外れたとしても、目指す幸せが変わってしまったとしても、すぐに軌道修正できるでしょ。
とまぁそうはいっても、ついつい神様が用意した正解を探してしまったりもするし、進むべき方向はこれでいいのだろうかと迷いもするし、死ぬのはやっぱり怖いですけど。
でも、幸せになるために生きるというところは揺るがない。
こういうのはシンプルなのが一番ですね。
by kude104
| 2005-02-22 16:57