世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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【家裁GJ】息子への輸血を「宗教上の理由」から拒んだ両親に対し、即日審判で親権を停止:アルファルファモザイク

ぼくも教義を重んじ輸血を拒否して死ぬのはバカらしいと思うくちですが、ここに寄せられているコメントの多くは「偏見」であるように思います。
ぼくもそうですが、コメントを寄せている多くの人も、おそらくその宗教に対してきちんとした知識を持っての発言ではなかろうと思います。
無知な批判は無知な信仰と五十歩百歩ではないかな。

ということで、無知なぼくの素朴な疑問を少々。
だれか答えご存知の方はいらっしゃいませんか?


エホバの人たちが輸血を拒否する理由というのは、たしか、神様が「動物の肉を食べてもいいけど、でも、血の付いた肉は食べちゃダメよ」と仰ったと聖書に書かれているから、だったと思う。
いちおう科学的な理由づけとして、輸血の危険性を挙げたりもしているようだけど、本命は「聖書に書かれているから」だろう。

ま、ぼくが思うに、「血のついた肉を食べちゃダメ」ってのは、たぶん、「肉は生で食べると腹下すぞ」的な生活の知恵じゃないかな。
昔の宗教って、たぶん、そうした生活の知恵や共同体のルールを「神の教え」ということで皆に守らせる役目を持っていたんじゃなかろうかというのがぼくの考え。

それはさておき。
そうは言っても、「血が付いた肉は食べちゃダメ」から「輸血ダメ」までには、えらく飛躍があるように思う。
「血が付いた肉は食べちゃダメ」→「血を食べちゃダメ」→「他人の血を体内に摂取してはダメ」→「輸血ダメ」になるのだろうけどね。
でも、聖書で神が禁止しているのは「血のついた肉を食べちゃダメ」である。
ダメなのは「血のついた肉」であって「血」じゃないし、「輸血」じゃなくて「食べること」だ。

「聖書のどこに神様が輸血を禁じるくだりがありますか? 神様は一切輸血を禁じてなどいないですよね」と問えば、彼らはどうこたえるのだろう。
おそらく、「血が付いた肉は食べちゃダメ」のくだりを持ち出してくるだろうけど、じゃあ、「肉」はなぜ良いのだろうか。
「血のついた肉」というものの主体はどう考えても「肉」にある。
肉は良いとする根拠はなんだろう。
肉を良いとするロジックで、血も良しとできる気がするのだけど。
知識がないので、良く分からん。

もし神様が明確に「輸血ダメ」と言っているなら、分かる。
そんな神様を好きになれるかどうかは別として、神様がそう言っているから従うというのは信仰として分かる。
でも、神様が言ってもいないことを、「血が付いた肉は食べちゃダメ」→「輸血ダメ」と勝手に解釈するのは、神に対する不遜であると考えたりしないのだろうか。

仮に、なるほど聖書に輸血を禁止する記述があるとしよう。
でも、たしかイエスも言われているではないですか。
「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」と。
──などと、ぼくの半端な知識で論じても隙だらけかもしれないけれど。

戒律というのは人のためにあるのであって、人が戒律のためにあるのではない。
「神は愛です」と彼らは言うくらいだから、もし仮に神が輸血を禁じているとしても、生き死にの場面で戒律と人の命のどちらを神様が大切に思われるかといえば、「それはもちろん人の命です」と答えないと嘘でしょ。
たぶん、イエスさんなら「そりゃ人だろ常識で考えてw」って答えるだろう。
人の命より戒律を重んじる神様連れてきて「愛」を語らせるなと言いたい。

それでも、輸血禁止を貫くというのなら。
たとえばどうだろうね、もしものときのために、普段から自分の血をストックしておくというのは。
輸血に使用する血液の保存期間がどれくらいあるのか知らないけど、保存期間と献血(というか自分の血を抜く)量と周期とが釣り合うのならば。
教義的にも「自分の血なら輸血OK」くらいの譲歩はできるんじゃなかろうか。
自分の命をいたわることは、神の愛にもかなうんじゃないかな。

しょせん宗教だって解釈次第で白にも黒にもなるんだから(というと怒られるけど)、できる最大限で信者さんたちがハッピーになれるような解釈をしてあげてほしいものだと思う。
あの時代にそれをしたからこそ、イエスはメシアになれたんだろうと思う。
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by kude104 | 2009-03-15 23:59 | 時事・社会
だいたい、聖書なんて長い年月にわたって人間が書いて人間が取捨選択してきた文章の集合体なんだから、そりゃあ矛盾や破綻があって当然なわけで。
それを、「聖書には一字一句の間違いもない」とするから無理が生じる。

キリスト教が誕生したときに、旧約聖書をリファインしておけばよかったのにと思う。
そうすれば、もうちょっと無理なく神を語れただろうに。
まぁ、誕生時のキリスト教はユダヤ教の一派という位置づけなので、現実問題リファインなんて無理なんだけど、せっかくのチャンスだったのに惜しいことをした。

イスラム教については詳しく知らないのだけど、もしかしたら、ある程度のリファインに成功しているのかもしれない。
よく知らないけど、旧約聖書や福音書なんかを継承しつつも、「それらには間違いも含まれているので、正しくはコーランを参照のこと」という位置づけじゃなかったかしら。

いずれにしても、時代が変わり生活様式が変わり社会の常識や道徳基準が変わることで、教義も時代に即さなくなってくる。
そうなると、生活を教義に合わせるか、教義を生活に合わせるか、あるいは教義を捨てるか、いずれかを選択しなければならない。

多くは解釈を変えることでどうにか教義を生活に合わせているようだけど、いずれ限界が来るか、継ぎ接ぎだらけで見られたものじゃなくなるだろう。
「いっそ新たに一から作り直そう」という機運は、いずれ出てくると思うけどなぁ。
イスラム教が誕生してからだって、もう1400年にもなる。
そろそろ、次の世界宗教が出てきてもおかしくないと思うんだけど。
ある種、近代社会の政治・経済・科学の思想が、「新たな宗教」の位置づけを占めていたのかな。
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by kude104 | 2008-05-19 21:36
前回の続き
めげずに冊子を読み進めているわけですが、遅々として進まん。

読んでいて「話が通じない」感覚を覚える理由がなんとなく分かった気がする。
神の偉大さは聖書によって証明されていると冊子は言う。
で、その聖書に嘘偽りのないことは、神によって保証されているという。
・・・えーと、それって“堂々巡り”じゃないですかね?

「Aさんは嘘ついてないよ。だって、Bさんが証言してるもん」
「じゃ、そのBさんが嘘ついてたらどーすんの?」
「Bさんは嘘つかないよ。だって、Aさんが一番信頼している人だもん」
みたいな。

数学で言えば、あらゆる定理や法則がすべて「神は全知全能として存在する」という公理によって導かれ、証明されている感じ。
彼らにとっては、その公理は真理で疑いを挟む余地はない。
そして、この公理が成り立つと仮定すれば、たしかにすべての数式が矛盾なく成り立つ。
(なにしろ、この公理ってば0の掛け算みたいで、どんな値であっても掛けると0にする強力なパワーを有しているんだもの)

つまり、「神の存在」の公理のもとでは、彼らの論理に破綻はない。
「なにか綻び見つけて論破しちゃおっかなー」と思っていくら読んでも、「神の存在」の公理で説明できてしまう。

でも、この公理を疑うぼくにしてみると、それはなんの説明にもなっていないのと同じです。
では、公理が間違っていることを証明しようと思ってみても、これも難しい。
正しいと証明することもできなければ間違っていると証明することもできないし、そもそも彼らにしてみたら証明する必要すら感じないくらい、それは絶対の真理です。

公理を共有しない者同士がいくら理路整然とお互いの考えを述べたところで、「なに言ってんだ、こいつ」となるのは当然ですよね。
でも、逆に言えば、相手が前提としている公理が分かれば、共感できるかどうかは別にして、思考は理解できる。
自分と違う思考回路の働きを見るのは、それはそれでなかなか面白いです。

ところで、冊子などで引用される聖書にある一節――神の偉大さを証明する記述というのは、「神の偉大さを説いたAさんの言葉を聞いたBさんの言葉」をCさんが編集したもの、じゃないかと思います。
良く知らないけど。
公理を持たないぼくには、そこに伝言ゲームのような不確かさの可能性を感じなくもない。

誰かが嘘をついたり、間違えたり、改竄したり、取捨選択したり、そうする余地は十二分にあり得ましょう。
もしこれが聖書でなければ、たとえば裁判での証拠だとしたら、甚だ心もとないと言わざるを得ないのではないか。
Dさんが無罪である根拠として、Dさんは無罪だというAさんの話を聞いたというBさんの話をまとめたCさんの報告書を採用するようなもので、しかも、AさんもBさんもCさんもDさんの友人であるようなものでしょう。

そして、やたらと「神の偉大さは聖書のこれこれの記述によって証明されているのです」というくだりが出てくるのは、翻って考えると、それだけ証明されなければ疑わしいということでもあるのかな、と思ったりもします。
繰り返し証拠をあげて説明される真理って、なんかスケール小さく感じる。
まぁ、これに関しては、あるいは「すげぇ! ここにも、ここにも、ここにも神の偉大さの証明がある!」ってな感じでテンション上がってしまって、思わずあちこちに書いてしまったということかもしれない。
そういうのは微笑ましくて嫌いじゃない。
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by kude104 | 2007-10-13 14:38