世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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【レビュー・書評】現代人はキリスト教を信じられるか―懐疑と信仰のはざまで [著]ピーター・L・バーガー - 書評 - BOOK:asahi.com(朝日新聞社)
とくに著者がこだわるのが、罪のない子供が苦しみ死ぬことである。なぜこのようなことが起こるのか。これは神を信ずるキリスト教徒として、どうしても受け入れることができない現実である。著者は神自身苦しんでいるという学説も紹介しながら、そして「口ごもり」、躊躇(ちゅうちょ)しながらも、信仰を捨てないのであれば最後は神への信頼に賭けるしかない、と述べる。
ぼくは「キリスト教的な神はいない」と思っているのですが、もし仮にキリスト教的な神がいるとして、ではなぜこの世の不幸を放置しているのか?という問いに対する答えは、こうじゃないかと考えます。

人間にとって、自分たちの苦しみや死というものは、ある種絶対的な「不幸」です。
でも、神様にとっての人間の苦しみや死というものは、せいぜい心を痛める程度のものでしかない、と。

これは、神様が薄情だからということではなくて、そもそも神様と人間とでは生きている次元が違うのだから、神様が人間の苦しみを本当の意味で理解できるはずがないと思うのです。

たとえば、人間にとって死が絶対的な恐怖なのは、復活がない(かもしれない)と思っているからじゃないでしょうか。
死んでも必ず復活できると100%信じているなら、死ぬことはそう怖くないと思うんですよね。
セーブしたところからやり直せるなら、人は自分の命をもっと粗末に扱うことができるに違いない。

神様にしてみれば、最終的には、死んだ人間をすべて(と言っても、自分を信仰している者に限るのでしょうけど)復活させるつもりでいるわけです。
自分自身がやることだから、必ずそうするつもりだし、必ずそうなると100%分かっている。

であるならば、神様は人の死というものを「あとで必ず復活できるからね」という視点で観ていることになるし、逆に言うと、そういう視点でしか観られない。
ゆえに、復活できないかもしれないと怯える人の気持ちというものは、頭では分かるかもしれないけれど、心ではきっと分からないに違いないと思うのです。

人の苦しみというものも、おそらく同じように観ているだろうと思います。
なにしろ、神様は永遠を生きています。
人が苦しんでいる時間など、神様にとっては、瞬きする一瞬にも満たないくらいの感覚でしょう。

「死」の場合と同じように、神様にしてみれば、最終的にはすべての人間に永遠の幸せを与えるつもりでいるわけです。
神様にとって、人が今感じている苦しみというものは、この後に訪れる永遠の幸せの前の、ほんの一瞬の「悪夢」程度にしか映らないでしょう。
夢の中でぎゃ!と殺されて目覚めたら、そこは神の王国で、以後なに不自由なく幸せに暮らしましたとさ・・・みたいな。

そう考えれば、神様がこの世の不幸を何が何でも絶対取り除く!と思わないのも頷けるよな、と。
だから、もしも神様がいるとしても、たとえ一生懸命祈ったところで、神様が「この世で」助けてくれるとは思えないですね。
まぁ、気まぐれで助けてくれることはあるかもしれないですけど。
それを当てにして生きて行くわけにはいかんだろうなぁと思います。

それでもなお信仰を持てるかどうかは、結局のところ、幸せな「来世」を神様が与えてくれると信じることができるかどうかじゃないでしょうかね。


・・・最後にちょっと私信ですが。
J君、結婚おめでとう。
この世に神の祝福があるかどうかは分かりませんが、人の祝福はあると思うので、たくさんの人に祝福されて幸せになって欲しいなぁと思います。
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by kude104 | 2009-09-06 18:53

それぞれにとっての神様

asahi.com(朝日新聞社):神は多分いない…英国で走る「無神論バス」 - 国際

一口に「神」と言っても、ひとそれぞれに思い浮かべる「神」は違うのだろうと思う。

たとえば同じキリスト教でもさまざまな宗派があって、宗派ごとに信仰に大なり小なりの違いがある。
ある宗派では神様はこうだと信じていても、別の宗派では違うと信じているかもしれない。
それは厳密にいえば、同じ神様を信仰しているように見えて、実は完全に一致した神様を信仰しているわけではない。
つまり、異なる「神」を信仰しているのだと言えなくもない。
反対に、ある宗教と別の宗教とは、一見異なる神様を信仰しているように見えて、実は同じ「神」を信仰しているということもあるだろう。

あるひとは「神などいない」と言いつつも、「運」を信じているかもしれない。
別の人は「運」のことを「神」として信仰しているかもしれない。
あるひとは、それを「偶然」と呼ぶかもしれない。
あるひとは、それを「宇宙人の仕業」と呼ぶかもしれない。

聖書に書かれた神は、かつて実際にいたかもしれないが、今はもういなくなっちゃったかもしれない。
いや、じつは今もいるけれど、人類を救うつもりは失せたのかもしれない。
いやいや、じつは聖書に書かれた神はいるのだけど、聖書自体が神の嘘で、実際は全知全能などではないのかもしれない。
本当は、神がサタンで、サタンが神なのかもしれない。

ぼくにとっては、神様がいようがいまいが、あまり関係ない。
たとえ神様がいるとしても、明示的にぼくの人生に介入してきていない(介入してきたとしても、それが神の仕業であると分からない)以上、いないのと同じです。
とはいえ、いないと証明できるわけではないので、いるかもしれない。

神様がいるからよい行いをしようとも思わないし、いないから悪い行いをしてもよいとも思わない。
神様に祈らないと救われないというなら、別に救われなくてもいいし。
死後の復活は魅力的だけど、復活の条件として信仰を強要されるんだったら、べつに復活できなくてもいいやと思うし。
もし神様が愛に満ちた存在なら、信じていなくても救うだろう。
救う救わないの基準が「自分を信仰すること」なんて神様は、そもそも信仰する気にならないし。

その一方で、神様を信仰することでよりよく生きられるのであれば、信仰すればいいと思う。
ぼくには今のところ神様は必要ないけど、心の支えや生活の糧として必要な人もいるだろう。
そういうひとから神様を奪うこともなかろうと思う。
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by kude104 | 2009-01-25 18:44
エホバの証人と、いわゆる二世と、背教者と。

『人間が人間を支配してもうまくいかんから
 人間の支配権は神に戻し、神が支配する世界で人類繁栄しよーぜっていうことになっている』

ということは、「神の支配なしでも、人間は幸せに暮らしていける」と証明されればサタンの勝ちなのだから、ぼくがサタンなら、せっせと人間を助ける。
もし、この世の災いや悪や不幸がサタンの仕業だとしたら、サタンって馬鹿なのね。
神の正しさの証明に自ら協力してどうする。

人間が神の支配からの独立を宣言して数千年かな。
ぼくの目には、まだ完全からは程遠いけれど、でも少しずつ世の中はより良いものになっているように映ります。
だって、数百年~数千年前と今の時代を比べたら、だんぜん今の時代のほうがましでしょ。
「人間は神の支配なしでは幸せになれない」と決めつけるのは、まだ早いのではないか。
聖書は失敗すること前提だからね、そこは気に入らないな。
だって、失敗することが前提なら、この世の中を少しでもより良いものにしようとすることが、無意味になってしまうじゃないか。
無駄な努力をせず、とっとと諦めて神にすがったほうが賢いということになる。

もし仮に力及ばず人類が滅んでしまったとしても、やっぱり人間は神の支配なしには幸せになれないのだとしても、それでもいい。
神の支配を拒否して挑んだ人間の精神や好し、と僕なんかは思ってしまいます。
「我がしもべになれば、永遠の命と幸福を与えよう」と言われたとき、Yesと答えるか、Noと答えるか。
ぼくは、Noと答えるやつを応援する。

神様だってさ、べつに自分の支配のもとじゃなくたって、人類が幸福であればそれで嬉しく思ってくれるんじゃないかなぁ。
「俺の支配下じゃないなら、失敗しろ」なんてセコイこと思わんでしょ。
ぼくなら、むしろ、「よくやった。さすが我が創造物」と誉めてあげるけどね。
聖書にも、「神様は人間を信頼して自治を任せてくださったのです。だから頑張ってより良い世の中を作りましょう」って書くけどね。

いずれにしても、信者さんもそうでない人も背教者も、みんな幸せになれるといいね。
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by kude104 | 2008-07-24 22:28
前回からだいぶ日が空いてしまいました。
冊子のほうはしばらく前に読み終わっていて、それで一段落して興味が失せたというか飽きたというか・・・。

冊子に書かれている内容について総じての感想を述べるなら、ひとつ。
よく、「信じる者は救われる」と言いますが、宗教と言うのは、初めは「信じる者は救われる」から始まるのですが、それがやがて「信じない者は救われない」に変質していくのではないか――というのが、ぼくの印象です。
このふたつは一見表裏一体に見えて、実はそうではない。
両者は、目的とするところが違う。

「信じる者は救われる」という言葉が目的とするのは、人を「救う」ことです。
一方、「信じない者は救われない」という言葉は、つまり何を言いたいのかと言うと、「だから神様を信じろ」ということですよね。
つまり、前者は救済が主で信仰が従なのに対して、後者は信仰が主で救済が従になっています。

どんな宗教も、初めは苦しんでいる人々を救いたいというところからスタートする。
でも、現実的な解決方法で苦しみを救えればいいのだけど、多くの場合それは無理で、結果的に物理的な救済ではなく精神的な救済という手を採らざるを得ない。
それには、神様を語るのが一番です。
そうして始まった信仰が宗教になって組織を持つようになると、教団の維持みたいなものが目的化してくる。
そうすると、救うことよりも勧誘が教団にとってはより重要な目的になるので、「信じる者は救われる」が「信じない者は救われない」になっていくわけだ。

「信じても信じなくてもいずれにしても救われる宗教」なんてものがもしあれば、たいていの人は「じゃあ、信じなくてもいいや」となる。
当然、信者は増えない。
信者が増えないと教団として影響力を発揮できず、教えを広めることもできなければ、やがて消滅するだけとなるでしょう。
それじゃ困るから、「信じるとこんないいことがありますよ」「信じないと不幸になりますよ」と言って信者を集めざるを得なくなる。

だから、宗教には、すべての人は救えない。
宗教が救えるのは信者だけ、ということになる。
それが宗教というものの限界だと思う次第です。
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by kude104 | 2007-11-18 15:45
前回の続き

神様から「決して食べてはならない」と言われていた「善悪の知識の実」を、サタンが操る蛇にそそのかされてアダムとイブが食べてしまったがために、人類は永遠の命を失い、楽園を追放された――という失楽園のエピソード。

なぜ、神様は楽園のど真ん中なんて目立つ位置に禁断の実の成る樹を植えたのか。
なぜ、禁断の実は「善悪の知識の実」だったのか。
なぜ、その実を食べると永遠の命を失い、楽園を追われるのか。
なぜ、神様はサタンの存在を許しているのか。

神様を全知全能であるとするならば、サタンが誕生したときに、「うそ? なんでそんなものが誕生するの?」と不思議がるはずがない。
よって、神様にとってサタンの誕生は、“予定通り”の出来事であったろうと考えられます。
当然、サタンがアダムとイブをそそのかすであろうことも、お見通しだったでしょう。

同じように、アダムとイブが約束を破ったときも、「うそ? あいつらがなんで?」と驚いたり、不思議がったりするはずがない。
神様にとって、アダムとイブが禁断の実を食べるであろうことは、おそらく初めからお見通しだったに違いない。
だいたい、鼻先にニンジンぶら下げて「絶対食べちゃダメ」と言うシチュエーションは、ダチョウ倶楽部のネタじゃなくても、「結局食べちゃう」パターン見え見えじゃないですか。

つまり、まとめるとこうなります。
1.神様にとって、サタンの誕生は予定通りの出来事。
2.サタンがアダムとイブをそそのかすことも分かっていた。
3.結果、アダムとイブが禁断の実を食べることも分かっていた。
4.それなのに、楽園の一番目立つところに禁断の実のなる樹を配置した。

これら一連の行動から読み取れる神様の意図は、素直に考えればこうじゃないでしょうか。
すなわち、神様はアダムとイブが約束を破って禁断の実を食べることを望んでいた――と。
上のすべては、そのためのお膳立てと考えると筋が通る。
禁断の実はアダムとイブが誘惑されやすいよう目立つ場所に配置されなければならないし、アダムとイブをそそのかす存在としてサタンがいなければならない。

ではなぜ、神様はそのように手の込んだことをしたのか。
その答えは、禁断の実が「善悪の知識の実」であったことを考えると推測できる。
つまり、この失楽園のエピソードは、人間が善悪という概念を学ぶためのイベントだったのではないか――というのがぼくの考えです。

罪であったり、してはいけないことであったり、そういうものを学習するときというのは、どういうときか。
まだ何も知らない子供がそれを学ぶのはどういうときか。
それは、怒られたときですよね。
そして、罰を受けたときでしょう。

神様は、人間を“善悪”を知るものとしてお造りになろうとしたのではないか。
善と悪とは表裏一体ですから、善という概念を作るには、悪という概念を作る必要がある。

そして、何が善で何が悪かということを単純に考えた場合、「相手の益になることが善、不利益になることが悪」と言えるのではないでしょうか。
「ひとの喜ぶことをしなさい。困ることをしてはいけません」みたいな。
ところが、楽園を追われる前のアダムとイブというのは、永遠の命を持ち、病気も怪我もせず、食べ物は無尽蔵にある――そういう、言わば無限の世界に住んでいました。
そんな無限の世界において、益不利益という概念は存在しないでしょう。
つまり、無限の世界である楽園においては善も悪も存在しえないのです。
だから、善悪を知ったアダムとイブは永遠の命を失い、楽園を追われ、すなわち有限の世界の住人にならざるを得なかったのではないかと考えます。

さらに考えを進めると、この因果関係は逆と考えるのが正しいように思います。
すなわち、善悪の知識を学習させるために仕方なく楽園を追放したのではなく、楽園を追放するにあたって必然として善悪の知識を学習させた――と。

神様は人間を楽園から地上に送ろうと考えていた。
しかし、地上は有限の世界であるから、送り込むにあたって、善悪の知識を学習させておく必要がある。
そこで、人間を楽園から巣立たせ、しかも同時に善悪の知識を学習させるための一石二鳥の策として、神様が一芝居打ったのではないでしょうか。
それは、たとえるなら、父親が息子を独り立ちさせるために、わざと喧嘩して追い出すようなものです。

なぜ、神様は人間を地上に送ったのかというと、それは繁殖のためではないかと考えます。
繁殖、つまり、子作りですね。
禁断の実を食べて、アダムとイブが、自分たちが裸であることに気付いて急に恥ずかしくなるというくだりがあります。
また、禁断の実をたべた罰として、イブは出産の痛みを負わされるというくだりもある。
おそらく、禁断の実を食べると同時に、アダムとイブに生殖機能が備わったのではないでしょうか。

正確に言えば、アダムとイブに生殖機能を持たせるために、彼らを有限の世界の住人にする必要があったのではないか。

なぜなら、子供を産み育てる――成長するというのは、無限の世界ではありえない現象でしょう。
誕生と消滅は、おそらくセットなんだろうと思います。
老化と成長が同義であるように。

その証拠にというと変ですけど、楽園でのアダムとイブに子供を作る気配はない。
二人が子供をもうけるのは、地上に降りてからですよね。

――というのが、冊子を読んで考えたぼくなりの失楽園の解釈です。
とりあえず、現状ではこれが一番筋の通る解釈かなと思うのですが、どうでしょう。
もちろん、「神様は全知全能ではない」とか「聖書なんて全部ファンタジー」とか、そういう解釈のほうが筋が通るとも言えますが、それを言っちゃあ面白くないので。
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by kude104 | 2007-10-17 23:59
前回の続き
なにやら宗教ブログの香りが漂い始めていないかと心配になってくる第3弾。
ただ、今回は直接冊子の内容とは無関係に、ぼくの勝手な思考ゲームです。

冊子を読んでいて、やはりもっとも興味を引かれるエピソードは、アダムとイブが楽園を追放されたというそれです。
聖書における人類の物語――“罪”と“不幸”と“信仰”と“救済”の物語は、すべてここから始まっているという点から見ても、もっとも重要なエピソードであると言えるでしょう。
(キリスト教的には、イエスの贖罪のほうがより重要度が高いのでしょうけど)

神様から「決して食べてはならない」と言われていた「善悪の知識の実」を、サタンが操る蛇にそそのかされてアダムとイブが食べてしまったがために、人類は永遠の命を失い、楽園を追放された――というこの物語。
ここで、この食べてはならない禁断の実が「善悪の知識の実」というのが興味深いですね。

なぜ、アダムとイブは神様との約束を破って禁断の実を食べてしまったのか?
蛇にそそのかされたとはいえ、普通に考えれば、たかが蛇に言われたくらいで神様から「ダメ、絶対!」と言われているものを食べるだろうか?
――という疑問が生じますよね。

この疑問、こう考えると筋が通るのではないか。

アダムとイブがあっけなく禁断の実を食べてしまったのは、彼らが、それを食べることを禁じられていることは分かっていたけど、その禁を破ることが“悪いこと”だと知らなかったからじゃないだろうか。
なぜなら、彼らは「善悪の知識」を持たないのだから。

ロボットが禁止された行動を取らないのは、それが悪いことだと理解しているからではなく、単にプログラムによって禁止されているからに過ぎません。
ですから、他人にクラックされてプログラムを書き換えられると、躊躇なく禁止されていた行動も取るようになる。
「プログラムでは許可されているけど、これは悪いことだから・・・」とロボットに判断させようと思ったら、少なくとも、ロボットに「善悪の知識」を持たせる必要がありますよね。

つまり、アダムとイブは蛇(を操るサタン)にクラックされて、プログラムを書き換えられてしまったんじゃないだろうか。
善悪の知識がない彼らに、サタンは悪い奴だとか、他人のクラックを許すのは悪いことだといった判断は無理でしょう。

そう考えるとアダムとイブの行動は理解できるのですが、このエピソードにはまだ謎が多くあります。

なぜ神様は、そんな楽園のど真ん中なんて目立つ位置に禁断の実の成る樹を植えたのか。
もっと目立たない場所に植えるとか、神様だったら、初めからそんな樹自体存在させなければいいではないか。

なぜ、禁断の実は「善悪の知識の実」だったのか。

なぜ、その実を食べると永遠の命を失い、楽園を追われるのか。

そもそもなぜ、神様はサタンの存在を許しているのか。
万物が神の創造であり、神が全知全能であるなら、サタンの誕生も、その放置も、神の意思を組んでいると考えるべきではないか。

これらの疑問に対する答えは、次回に。
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by kude104 | 2007-10-15 18:42
前回の続き
めげずに冊子を読み進めているわけですが、遅々として進まん。

読んでいて「話が通じない」感覚を覚える理由がなんとなく分かった気がする。
神の偉大さは聖書によって証明されていると冊子は言う。
で、その聖書に嘘偽りのないことは、神によって保証されているという。
・・・えーと、それって“堂々巡り”じゃないですかね?

「Aさんは嘘ついてないよ。だって、Bさんが証言してるもん」
「じゃ、そのBさんが嘘ついてたらどーすんの?」
「Bさんは嘘つかないよ。だって、Aさんが一番信頼している人だもん」
みたいな。

数学で言えば、あらゆる定理や法則がすべて「神は全知全能として存在する」という公理によって導かれ、証明されている感じ。
彼らにとっては、その公理は真理で疑いを挟む余地はない。
そして、この公理が成り立つと仮定すれば、たしかにすべての数式が矛盾なく成り立つ。
(なにしろ、この公理ってば0の掛け算みたいで、どんな値であっても掛けると0にする強力なパワーを有しているんだもの)

つまり、「神の存在」の公理のもとでは、彼らの論理に破綻はない。
「なにか綻び見つけて論破しちゃおっかなー」と思っていくら読んでも、「神の存在」の公理で説明できてしまう。

でも、この公理を疑うぼくにしてみると、それはなんの説明にもなっていないのと同じです。
では、公理が間違っていることを証明しようと思ってみても、これも難しい。
正しいと証明することもできなければ間違っていると証明することもできないし、そもそも彼らにしてみたら証明する必要すら感じないくらい、それは絶対の真理です。

公理を共有しない者同士がいくら理路整然とお互いの考えを述べたところで、「なに言ってんだ、こいつ」となるのは当然ですよね。
でも、逆に言えば、相手が前提としている公理が分かれば、共感できるかどうかは別にして、思考は理解できる。
自分と違う思考回路の働きを見るのは、それはそれでなかなか面白いです。

ところで、冊子などで引用される聖書にある一節――神の偉大さを証明する記述というのは、「神の偉大さを説いたAさんの言葉を聞いたBさんの言葉」をCさんが編集したもの、じゃないかと思います。
良く知らないけど。
公理を持たないぼくには、そこに伝言ゲームのような不確かさの可能性を感じなくもない。

誰かが嘘をついたり、間違えたり、改竄したり、取捨選択したり、そうする余地は十二分にあり得ましょう。
もしこれが聖書でなければ、たとえば裁判での証拠だとしたら、甚だ心もとないと言わざるを得ないのではないか。
Dさんが無罪である根拠として、Dさんは無罪だというAさんの話を聞いたというBさんの話をまとめたCさんの報告書を採用するようなもので、しかも、AさんもBさんもCさんもDさんの友人であるようなものでしょう。

そして、やたらと「神の偉大さは聖書のこれこれの記述によって証明されているのです」というくだりが出てくるのは、翻って考えると、それだけ証明されなければ疑わしいということでもあるのかな、と思ったりもします。
繰り返し証拠をあげて説明される真理って、なんかスケール小さく感じる。
まぁ、これに関しては、あるいは「すげぇ! ここにも、ここにも、ここにも神の偉大さの証明がある!」ってな感じでテンション上がってしまって、思わずあちこちに書いてしまったということかもしれない。
そういうのは微笑ましくて嫌いじゃない。
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by kude104 | 2007-10-13 14:38
うちにも時々宗教の勧誘の方がいらっしゃるのですが、いつもインターフォン越しとはいえ、一通り話を聞いて冊子をポストに入れておくことを許可しているものですから、「このひと脈ありかも?」と思われたのでしょうか。
今日はいつもより親しげに話をし、そしてポストされた冊子には「関心をお持ちいただければ嬉しいです」的な手書きの一言メッセージが添えてありました。
まぁ、この程度の“接近”はぜんぜん気にしませんが、信仰する気もさらさらないので、無駄足を踏ませて悪いなぁ・・・と思わないでもありません。

とまぁ、せっかく何やら気合いの入った冊子(いつものペラペラのやつより分厚くて200ページ以上もある)をもらったことだし、ちょっくら興味がてら目を通してみるかと思ったのですが、いやはやなかなか一癖ある読み物ですね。

何と言ったらいいのだろう。
読んでいると、微妙に話が通じない感覚を覚えるのですよ。
「この人はいったい何を言っているのだろう?」的な。
微妙に論理的じゃない。
まったくの支離滅裂じゃなくて微妙に歪んでいる感覚が、ずっと読んでいると読み手の平衡感覚を狂わせるような。
そこに繰り返し、「神は絶対です、聖書は絶対です」的な文言が繰り返されるので、なにやら呪術的というか暗示に掛けられているかのような気がしてきます。
これ、心が弱ったときに読むと効くのかも知れないな。
まぁ、初めから斜に構えて読んでいる身には、突っ込みどころ多いなぁといった感じになっちゃうわけだけど。

冊子の冒頭で、「どうして神様は世の悪を取り除いてくれないのだろう?」という疑問を提示し、それに対する答えを述べようとしているのはいいね。
それって、まず誰もが思う疑問だもんね。

冊子答えて曰く――
「それは神の試練です」という人もいるけれどそれは違う。
それが神の試練なら、世の悪が神から出ていることになるから、それはおかしい。
神は試練を与えたりなどしないのです。

この回答はなかなか良い。
たしかに、阿鼻叫喚の地獄絵図のような不幸を“試練”で与える神様ってどうよ?って思ってしまうものね。
だから、試練じゃなくて、もっと別の理由があるのです、と。
その理由とは何かと言うと、冊子答えて曰く――

世の不幸は、人間がサタンにそそのかされて神の支配を拒否したために起こっている。
もちろん、神様は人間の間違いをただちに力でもって正すことはできるけれど、人間が自分でその間違いに気づくように、あえて人間の好きにさせていらっしゃるのです。

・・・そういう解釈は好きよ。
でも、「人間が自分でその間違いに気づくように、あえて」という、それを人は“試練”と呼ぶのではないでしょうか。

神はあえて、人を“自由意思”を持つものとして創造されたのだと冊子は言います。
冊子を読んでいて、ぼくが一番心が奮えたのは、アダムとエバの反逆のくだりです。
「自分たちには支配者としての神は必要ない。何が正しく何が間違っているかを自分たちで決定できる」としてアダムとエバは反逆したという。
なんという愚かで気高い宣言!
「何が正しく何が間違っているかは自分たちで決める」という、言うなれば魂の独立宣言ですよ。
それはたしかにこの世の不幸のすべてを秤にかけるに足る崇高なものかもしれないと思えるじゃないですか。
そのことを尊重するからこそ、神はあえて人間のなすがままに見守り、世の不幸に心を痛めつつもをそのままにしていらっしゃるのではないでしょうか。
喩えるならば、自立すると言って家を出た子供と、それを見守る父親の関係ですね。

そういう解釈であるなら、“試練”も仕方がないと思えます。
その場合、神は未来永劫救ってくれないことになりますが、しょうがない。
人間が自ら自治すると言い出したんですから、神に頼ることなく自治能力を獲得できるように頑張る他ない。
まぁ、ときどき実家からお米が送られてきたりするくらいの援助はあっていいと思いますけど、お父さん・・・みたいな。

しかしながら、冊子のほうでは、人は神の代わりにサタンの支配下に入ったことになっていますから、独立宣言と言うよりは主君換え宣言になっちゃってますね。
で、神様のほうも、いずれ最終的には悪を力で殲滅して、自らの支配を受け入れる人間集めて神の王国を築くおつもりだという話のようで。
このへんがよく分からないんだよなぁ。
それだったら、とっとと悪を殲滅して平和な世界を作ったらいいのに。
でないと、神に反逆するとひどい目に遭うことを知らしめるために今の“試練”があるということになって、初めの言葉と矛盾するんじゃないのかなぁ。

だいたい、諸悪の根源とも言えるサタンですが、これは“神の霊の子”のひとりが自ら悪魔になったという。
サタン誕生の前には悪は存在しなかったわけですから、言うなれば、完全なる善の世界においてすら悪は生まれるということです。
それは、神の全知全能性の矛盾にならないのだろうか。
だとすれば、善良なる人の子を集めて神の王国を築いたとて、そこにも悪は生まれるんじゃないのかなぁ。

――とまぁ、そんなことを思ってしまうわけですが、ただこれは冊子をすべて読んでの感想ではありませんので悪しからず。
適当なところをつまみ読みしただけです。
いちおうまぁ、礼儀として全部きちんと読むつもりですので、これはいわゆるファーストインプレッションとしての感想です。
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by kude104 | 2007-10-11 23:59

被告人は神様です

WIRED VISION / ネブラスカ州議会議員が神を提訴

なかなか面白いジョークですね。
神が有罪となるなら、それはまさに人間を作ってしまったからでしょう。
人間さえ作らなければ、神を訴えるものなどいなかったのに。
人間さえ作らなければ、“殺人”という罪状などなかったのに。

ぼくが思うに、神様の全能性って、せいぜい蟻に対する人間くらいのものだろうと思うよ。
ぼくら人間だって、飼育ケースで飼っている蟻に対しては、まさに神のごとくにふるまうことができる。
生殺与奪は自由自在、大雨洪水日照りに嵐、なんでもござれだ。
でも、その力でもってすべての蟻を幸福にしてやりたいと思ったところで、ちょっと目を離したすきに蟻同士が喧嘩して殺しあうのを止めることはできない。
蟻の一匹が病気にかかって死にそうだとしても、気づくことはできない。

一方、もし仮に、本当にすべての人間を幸福にできる全能の力が神様にあるとすると、紀元後の二千年に限って見ても、神様にその力を使う気がぜんぜんないことは明らかでしょう。
いぢわるなのかどうなのか、もしかすると、幸福の価値観が神様と人間とで大きく違うのかも知れませんね。

いずれにしても、前者だと神様の能力的に、後者だと神様の価値観的に、いくら人間が「救ってくれ」とお願いしたところで、神様が応じてくれるとは思えないわけで。
ですから、世の中の不幸に対して神の責任を問うたところで、意味ないことなんじゃないかなーと思います。

でもでも、神様だってたまーに気まぐれに、一個人の願い事を聴いてくれることがあるかもしれないから、神様にお願いするのを無駄だとは言い切れない。
その場合は、文字通り「人知を尽くして天命を待つ」程度に。
やっぱり、どうせ助けるならがんばってるやつを助けたいじゃない。
神様だって同じだと思うんですよね。
なーんもせずに助けて助けて言ってるだけのやつは、ぼくが神なら、まず助けないし。
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by kude104 | 2007-09-21 22:09