世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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【ウェブ立志篇】米ミューズ・アソシエイツ社長 梅田望夫 進化を遂げる英語圏 - MSN産経ニュース

まぁ、相も変わらず梅田望夫さんネタだけども。
最近つれつれと思うに、人に得手不得手があるように、国にも得手不得手があるんじゃないだろうか。
日本は、もしかしたら、「インターネットビジネス」は不得手なのかもしれないね。

ビジネス的な覇権争いを無視して見れば、べつに「日本発で世界に通用するサービス」に拘らなくても、英語圏で流行ったサービスをせっせと日本に輸入するやり方でいいんじゃねーかと思う。
考えようによっては、英語圏の人々にサービスの開発と運用実験をやってもらって、結果を見て良さそうなものだけを頂けばよい、と。

たとえば、「キンドル」が本当にいいものなら、遅い早いの違いはあれど、やがて日本にも根付くだろう。
理と利があれば、世の中の流れは必ずそちらに流れるのだから。
もし流れないなら、やっぱりなにか欠けているのだ。
その国の個性に、なにかフィットしないのだろう。
世界でキリスト教が主流だからと言って日本もキリスト教化する必要がないように、文化やビジネスにも国の個性によって合う合わないがあっていいと思う。

それによって日本が世界から取り残されると懸念する人もいるだろうけど、もし日本人がその不利益を実感すれば、そこに理と利が発生するからそちらに流れるわけで。
流れないなら、別に大した不利益が発生していないということじゃないだろうか。

個人レベルで言えば、英語を習得すればその素晴らしい英語圏の恩恵とやらを受けられるのだから、それでいいじゃんと思う。
無理に日本で英語圏のサービスをどーのこーのと頑張るよりも、個人個人で英語を習得するほうが早い。
「英語を習得するほどではない」のなら、恩恵と言ってもその人にとってはその程度なわけで。
「英語を習得するほどではない」けど恩恵を受けたい人が一定数を超えれば、そこに理と利が発生するわけで。
無理せず自然に任せればいいんじゃねーかと思います。
「べき論」で切り拓かれる未来は、そう多くはない気がする。

日本は、やっぱりなんだかんだ言って、物作りが得意な印象があるなぁ。
だから、日本でiPhoneやキンドルが作れなくても、iPhoneの端末やキンドルの端末を作ってビジネスする方向性が合っているような気がする。
不得意分野をどうにかしようとするよりも、得意分野を伸ばしましょう、と。
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by kude104 | 2009-10-29 15:00 | PC&ネット
梅田望夫氏をめぐる騒動について - Rails で行こう!
最近、梅田望夫氏がネットで何を言っても叩かれる、という現象が目立っている。いちばん最近は、梅田氏の「オープンソース」という用語の使い方がおかしいんじゃないかという批判。あまりに多くの人が発言しているんで、いちいちソースのリンクは出さないけど・・・。この件について、私なりの感想を書いてみる。

一言で言うと、「なんでみんな騒いでいるのかわからん」という感じかな。
「オープンソース」に関する梅田さんの発言に対して、好意的な人は「言葉の使い方が正しいか間違っているかはともかく、言わんとするところは正しい」と言い、否定的な人は「言わんとするところが正しいか間違っているかはともかく、言葉の使い方は間違っている」と言う。
そういう平行線が引かれているように思います。

ぼくの立場としては、後者でしょうか。
知らずに間違ったというケースであれば「まぁ、しょうがないかな」と思うのですが、梅田さんのオープンソースについての「間違い」は去年の3月ごろから指摘されていることなので、ご本人が知らないはずがありません。
それでもなお改めないということは、梅田さんは意図して「誤用」していらっしゃると考えるべきでしょう。
嫌がる人がいると知って敢えてそうしていらっしゃるのであれば、そうしたやり方は賛同できないなーと思うのです。
言わんとするところが正しいか間違っているかはともかくとしてね。
(「やり方に賛同できないから、言わんとするところにも賛同できない」とは思っていません)

オープンソースに関わる人が言葉の使い方に敏感なのは、前回オープンソースについて調べていて、なんとなく分かる気がします。
ひとつには「ライセンス」であるので、使っているほうとしては、当然あいまいに扱えないということ。

次に、オープンソース、ひいてはフリーソフトウェアのライセンスというのは、思想を含むということ。
数あるソフトウェアライセンスの中から、「自分はこのライセンスを」と選択するということは、そのライセンスの思想やコミュニティが好きである、賛同するといった感情を伴う意識的な行動であるケースが多いかと思います。
「好きなもの」「支持するもの」に対して間違った発言がなされたり、雑に扱われると心穏やかでいられないのは、心情としては理解できるところです。

そして、オープンソースについて間違ったイメージが広まると迷惑だということ。
オープンソース自体が、もともとフリーソフトウェアに染みついた「無償」のイメージを払しょくするために作られた言葉であるのに、今またオープンソースに「無償」のイメージを植えつけられては迷惑するとか、オープンソースライセンス、あるいはオープンソースソフトウェアを間違って理解し使う人が現れたらどうしてくれるんだとか。
現場の我々には大問題なんだぞ、と。
(かく言うぼくも、オープンソースについて、いろいろ間違ってました)

フリーソフトウェア思想はよく「宗教」にたとえられたりもしますけど、たとえば「キリスト教的なもの」として、キリスト教の教義と違った内容を広められることは、信者にしてみれば迷惑だし、無礼であると。
良識ある大人なら、そうした信者さんたちの神経を敢えて逆なでするような言動は慎みますよね。
べつに宗教にたとえなくても、人が大切に思っているものに対しては、できるかぎりの敬意を払うのが紳士であろうと思います。

「オープンソース的」という言葉の使い方がオープンソースに関わる人たちの反感を招いているようなら、別の言葉を探すか、せめて「ソフトウェアのオープンソースとは異なる意味で使っています」といった断りを付けておくべきだろうと思います。
「そんなの別にいいだろ、たいしたことじゃないし」というのであれば、そこに敬意は感じられませんし、意図してイメージの塗り替えを図っているのであれば、それはオープンソースに対する攻撃ととられても仕方ないんじゃないでしょうか。

ということで、オープンソースに関わる人が怒るのは、それがいいかわるいかは別として、理解はできます。
ぼくが理解できないのは(推測はできるのですが)、それでも「オープンソース」という言葉を使い続ける梅田さんのほうですね。
「揚げ足」を取られると知って、なお敢えて足を揚げて見せるのは何ゆえか、と。
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by kude104 | 2009-06-23 22:22 | PC&ネット

中と外

かみつく相手が違うのでは - Tech Mom from Silicon Valley

そもそも、「オープンソース的」という表現が摩擦の原因のようにも思えるのだけど、とりあえずそのへんは置いておくとして。
その中から誰かがちゃんとリーダーシップをとって組織化して動き出して
この一文を読んで、そうか、日本のウェブが海外から見て残念に映るのは、日本人のリーダーシップで組織化され、海外に知られているケースが少ないからじゃないだろうか・・・という視点が頭に浮かびました。

たとえば、ソフトウェアのオープンソース活動にしても、日本でももちろんけっこう盛んに行われているのですが、ただ、オープンソース活動を組織化して国際社会で存在感を示している日本人、という例で言えば、世間的な印象としては、あまりないように思います。
そもそも、オープンソース自体ほとんど知られていない中で、さらに日本人が・・・ってことですからね。

一方、オープンソース活動を行っているひとから見ると、当然、日本人もたくさんいるよ、と。

ただ、見ているものが違うのですね。
大げさに言うなら、外の人にとっては、日本人がいくらオープンソース活動を行ったところで、海外で評価されなきゃ知らないよ、と。
あるいは、いくら兵卒として活躍したとしても、評価されるのは率いている武将だけですよ、と。
これはまぁ、外からの評価としては、正しくはある。

一方、中の人からしてみれば、べつに外の人に評価されるためにコードを書いているわけじゃないので、「日本人のリーダーシップで組織化され、世界に知られているケースが少ない」と言われても、「だからなに? そんな暇があったらコード書くぜ」といった感じでしょう。
中の世界では十分評価されたり楽しかったり満足しているので、それだけで活動する理由としては十分なわけですから。

でも、そうすると、外の人には「国際社会で存在感のない日本のオープンソースは残念」と映るわけだけど、中の人にしてみれば、自分たちの活動を外野に残念呼ばわりされて気分悪いということになって、衝突する、と。

こうしたことは、きっと、オープンソースに限ったことではないでしょう。

中の人間がいくらがんばってよい成果を上げていたとしても、それが外の世界に知られていなければ、外の世界では評価されない。
一方、外の世界に伝わっていないからと言って、中の世界に何もないわけではない。

たとえば、テクニックとして、外から見て「残念」に思える時は、「良いものもあるのだろうけど、それが上手く外に伝わっていないのが残念だ」といったニュアンスで語れば、摩擦も少なくて済むのではないかと思います。
中の人も、外の人に正当に評価されていないと感じるときは、「中にある良いものを、上手く外に伝えられていないのではないか」というところに気をつければ、良いのではないでしょうか。

そうしたことを、日本の「オープンソース的なるもの」について考えれば、日本には、中の成果を上手く外に伝える役回りのひとがあまり目立たないのかもしれませんね。
オープンソース的に言えば、コーディネーターですか。

日本人は(と、てきとーな国民性論を語るならば)、なまじ能力がある分、有能な配下タイプに育ってしまって、君主タイプがなかなか育ちにくいところはあるのかもしれませんね。
劉邦がごとく、将に将たる能力に優れた人材は、なかなか現れにくい気がします。
なまじ能力があると、兵に将たる方向に進んじゃうのでね。

なので、マジメにオープンソースやってる人、あるいは社会的な仕組みさえ整えば自分もやってみたいと思っている人は、誰かに対してかみつくよりも、いいコーディネーターを探すと良いと思うな。
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by kude104 | 2009-06-20 13:23 | PC&ネット
梅田氏と「アテネの学堂」 - Tech Mom from Silicon Valley

ぼくは日本のウェブにおいても「アテネの学堂」はいずれ現れると思っています。

ただ、そのままのネット空間をポンと用意して、「はい、ここがアテネの学堂ですよー」といったところで機能しないのは当然で。
「アテネの学堂」を作りたかったら、まず、「学堂」として使える施設(システム)を作らないといけない。
次に、そこに知的エリートを志す人を集めなければならない。
そうして、そこが「アテネの学堂」として機能しはじめたならば、“知的エリートの世界に参加したいと潜在的に思っている人たち”が自然と集まってくるようになるでしょう。

そうではなく。
まず大衆を啓蒙して、それによって大衆の中に「アテネの学堂」を望む機運が高まり、その結果「アテネの学堂」が大衆の中より自然発生的に立ち現れてくる──と、そんなシナリオを期待しているならば、それこそ10年20年のスパンで観ていないと。
たかだか3年や5年で「アテネの学堂は現れなかった・・・」と失望するのは、ちょっと早すぎるんじゃないでしょうかね。

まぁ、ぼくは「大衆を啓蒙して」という方向性は好きじゃないので、「アテネの学堂」が欲しければ、そう思う人たちが作ればいいじゃない、と思います。
初めは小さくていい。
志を同じくする二、三人だけで始めればいいじゃない。
いきなり大学を作ろうとせず、まずは寺小屋からつくりましょうよ、と。

寺子屋作って、そこで楽しそうに学んでいれば。
それを見た別の誰かが「面白そうだな。よし、俺たちもやってみよう!」となる。
そうして小さな「学堂」が次々と生まれ、やがてそれらが結びつきあい、巨大な「アテネの学堂」へと成長していく──と、そういうアプローチでいいじゃない。

もし、そうならなければ──フォロワーが誰も現れないとか、そういう場合は、やはりなにか、どこかに問題があるということでしょう。
たいていは、システムに無理があるとか、そもそも需要がないとか、そんなところです。

サブカルには放っておいても人が集まるのは、楽しいからです。
「知的な議論」に人が集まらないのは、楽しくない(というか、楽しさを知らない)からでしょう。
だったら、「知的な議論」を楽しいものにすればいい。
「才能の無駄遣い」な議論がバンバン行われるようにすればいい。
楽しくないものをイデオロギーでやらせるようなことは、ぼくは好かんですね。


梅田さんを「残念」に思う人の気持というのは、ひとつには、「誉めよう誉めよう」と言っている人が、日本のウェブにはダメ出しする、みたいなところに、ダブルスタンダードめいたものを感じるからじゃないでしょうか。

そしてもうひとつは、「実行者」じゃないところでしょうか。
これは昨日書いた「コンサルタントだから」しょうがないとは思いますが、もし梅田さんご本人が先陣切って「アテネの学堂」を作らんと活動していらっしゃれば、やはり応援したくなりますよね。

ぼくが原丈人さんを「すげーなー」と思うのは、同じオプティミストでも、彼の楽観主義は「なぜなら、私が実現させるから」というところで発せられているからです。
好き嫌いで言えば、ぼくはそういう人が好きなので。


ところで。
本日、またひとつ歳をとってしまいました。

ぼくは日本のウェブにおいても「アテネの学堂」はいずれ現れると思っています。
なぜなら、ぼくが作るから──と言えるように、まだまだ成長しなければ。
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by kude104 | 2009-06-04 15:05 | PC&ネット
日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く(前編) (1/3) - ITmedia News
Web、はてな、将棋への思い 梅田望夫さんに聞く(後編) (1/3) - ITmedia News

梅田さんにしてみれば、正直もう「『ウェブ進化論』のことはええやろ」という気分じゃないでしょうか。
未だに、なにかにつけて「ウェブ進化論」についての発言を求められる様は、正直気の毒にさえ感じます。
これはもう、呪縛と言っていいかもしれないね。

つくづく思うのは、梅田さんはやっぱりコンサルタントなんだなぁということ。
これがプログラマーであったり、起業家もしくは企業家であれば、「俺が実現させてやる!」ということになるのだろうけど。
コンサルタントだから。
分析して、それに基づいた助言をするところまでがコンサルタントの役割で。
実行するは企業家の仕事だから。
実現しなくてもしょうがないよね、残念だけど──といった感じを受けます。

別に梅田さんのそうした態度というか性質を非難したいのではなく。
本来コンサルタントであるはずの梅田さんに、間違って先導者的なイメージを抱かせてしまったところに『ウェブ進化論』の呪縛があるのではないかと思うのです。

おそらく。
いつも仕事で使っているであろうクライアントを扇動するときに使うコンサルタントのテクニックを、図らずも、不特定多数の大衆に向けて使ってしまったためではないだろうか、と。
クライアントという特定の個人に対してならば、扇動は直接届くので、行動の主体はクライアントとして発動するけれど。
不特定多数の場合はそうはいかなくて。
中に迷える子羊が交じっていたりすると、「この人についていけば自分は救われるに違いない」という具合に、扇動じゃなくて救済の言葉として発動しちゃうケースがある。
行動の主体が、聞き手じゃなく、扇動者自身として発動してしまうケースが。
大衆を扇動して革命を起こさせようと思っていたら、みんな自分の後ろに並んでいた──みたいな。

「はてな」の取締役になられたのも、そうした誤解に拍車をかけているように思います。

梅田さんとしては、あくまでコンサルタントとして「はてな」に身を置いていらっしゃるのでしょう。
もし梅田さんが「はてな」の運営に実効的な影響力を発揮していらっしゃるのであれば、「はてなが日本のウェブを良くします」といった発言になるであろうと思うのです。
「時間はかかるけれど、いずれかならず良くしてみせます」と。
でも、そうじゃない。
梅田さんはたぶんアドバイザー的なポジションで、「はてな」の具体的な舵とりにはかかわっていらっしゃらないのではないかと思います。

でも、外からはそうは見えませんよね。
『ウェブ進化論』を書いて、「はてな」の取締役になったら、そりゃ「梅田さんが導いてくれる」と思う人がいても不思議はない。

そいうひとたちが梅田さんの背中に張り付いている間は、梅田さんは『ウェブ進化論』の呪縛から逃れられないのだろうなぁと思う次第です。
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by kude104 | 2009-06-03 23:30 | PC&ネット
そして「ウェブ時代をゆく」を読了したわけですが、終章に関してはまるっきり100%共感します。

冒頭に出てきた「もうひとつの地球」という表現が、ぼくには少々違和感あったのですが、終章に出てきた「アメリカという人工国家がもたらす希望」の話を読んで、ああそういうことかと腑に落ちました。
あの時代、閉塞感を抱えていた人々の目の前に突然開けた「新大陸」という名の希望。
それを今の時代に再現しようということなのですね。
ならばさしずめ、「ウェブ時代をゆく」はメイフラワー号への乗船券でしょうか。

読んでいると、梅田望夫さんがまるで迷える人々を救わんとする宗教者のように思えてきました。
ウェブの中にある「約束の地」に至るための「戒律」を説く指導者であり、同時に、ただひたすら人々を救う道を探し求める求道者であるかのような。
宗教に例えると日本ではなにやらアヤシイものという意味合いになっちゃいますが、もちろんそういう意味合いではなく、いい意味で。
言うなれば、「純真」なものに対する感動・・・でしょうかね。

全体を通して、ぼくは自分自身が「実例」により強く反応する傾向にあるらしいと気付きました。
だから、本で言えば、前半より後半のほうが面白かったです。
やっぱり、「理論は実践されてなんぼ」ってところはあると思うので、「ウェブ時代をゆく」を読んで勇気づけられた人々が何を成すか・・・そこに興味がわきますね。
もちろん、ぼくもその候補の一人として何かを成したいところです。
ただ、「何かを成すとしても、とりあえず来年だな」と思っている時点で、お前ホントに「ウェブ時代をゆく」を理解してんのか?と自分で自分につっこみたい。
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by kude104 | 2007-11-29 22:14 |
「ウェブ時代をゆく」の第七章は、「ウェブ時代」の明るい可能性を感じさせる内容で、素直にちょっと感動した。

「若い友人Sを題材にした思考実験」とやらは、ちょっと思惑が透けて見えていやらしい――多くの人が一瞬くらいは「新しい職業」を選ぶ人生に興味や共感を持つことを見越しながら、『彼が「新しい職業」を選んだと仮定したときの人生に、一瞬も興味を持たず共感することもなかった人は、ルールががっちりと決まっている「古い職業」に進むことをお勧めする』みたいな書き方をするテクニックがいやらしい――けど、そのあとに続く実例の紹介は興味深いものでした。

たとえば、オープンソースが生んだ新しい「雇用のかたち」として紹介されているまつもとゆきひろさんの例。
まつもとさんを雇用しているネットワーク応用通信研究所とやらは、まつもとさんに給料を支払いながら、でも、時間の使い方はまつもとさんの好きにしていいですよと、つまり、好きなようにオープンソース活動をして下さいと、それが「仕事」ですよというカタチをとっているらしい。
このネットワーク応用通信研究所というのが企業なのか学術機関なのか分かりませんが、仮に企業だとすると、企業がそんな言うなれば“働かない”社員を雇ってどうするのと普通思いますよね。
でも、要するに、「うちにはあのまつもとゆきひろが居ます」ということが、それだけで十分価値を持つとしたら、そうした雇用形態は“あり”なわけです。
言わば、オープンソースで名を挙げたプログラマーがいるということが企業のブランドになるということ。
たとえば、なにかのソフトウェアの開発を発注しようという企業があるとして、数ある開発企業の中から一社を選ぶ際に、あそこの企業にはあの有名な○○氏がいるというのは、その企業を選ぶ大きな理由になりうるでしょう。
あるいは、○○氏の人脈を活用できたり、○○氏と同じ職場で働きたいというプログラマーが集まってきたり・・・などなど、直接的な仕事はしていなくても波及効果が大いに期待できれば、○○氏を雇うメリットは大いにあるというわけです。
そう考えると、オープンソースプログラマーには、こうした雇用の形はたしかに今後ますます現実的にありうる話だという気がしてきます。

また、その次に紹介されていたコールトンさんの実例も興味深かった。
「毎日ブログを書き、少しずつ増えていくファンからの反応を眺めながらコールトンは、ファンはアーティストと友達になりたいのだという重要な発見をしたのである」という部分には、なるほど!と感じ入りました。
これは、ビジネスにおけるひとつの大きなヒントである気がしますね。
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by kude104 | 2007-11-25 22:40 |
「ウェブ時代をゆく」、第四章からは素直に「なるほどなぁ」と思いつつ読んでいます。
第四章は特に、著者の梅田望夫さんご自身がどのような人生戦略で生きてこられたかを具体的に書いていらっしゃって面白かったです。
どうすれば「好き」なことを仕事にできるのか、どうすれば自分の仕事を戦略的に高めていけるのかという問いに対する、ひとつの実例として参考になります。

一言で言えば、「自覚的に生きよ」ということになるでしょうか。
常にアンテナを張り巡らし、自分の興味を引いたものに対して、どこになぜ興味を持ったのかを分析し整理して積み重ねることで、自分の志向性を把握すること。
そして行動すること。

たしかに、24時間365日そのように自覚的に生きていれば、どんな時代にもサバイバルできるだろうと思います。
分かっちゃいるけど、正直「めんどくせっ」と思ってしまったぼくは、だから勝てないんだなぁ。

それはさておき。
第四章を読んで思ったのは、ある人々にとっては、この第四章から先に読んだほうが理解が早いかも知れないってことです。
この第四章というのは、取り立ててインターネットがどうこうという話は出てきません。
インターネットの「あちら側」と「こちら側」という言葉で言うなら、「こちら側」の話として読める。

ウェブ時代のなんたるかがよく分かっていない人々にとって、ネットのあちら側のことっていまいちピンと来ないと思うのです。
彼らが知りたいのは、いま自分のいる世界で、どうすれば上手くサバイバルしていけるのかということでしょう。
世間一般でよく売れている「できるビジネスマンのなんたら」とかいう類のビジネス書なんかも、読んだことないですけど、たぶん「転職のススメ」とかじゃなくて、今いる職場でどうすれば上を目指せるかみたいな話なんじゃないでしょうか。

で、第四章というのはまさに、今いる世界でどうすれば上を目指せるかという話として読めます。
なので、読み手の「今いる世界」に軸足を置きつつ、「なるほど、インターネットというのは、それを実践するにあたって強力なツールとして使えるのだな」とか、「なるほど、ウェブ時代というのは大きな変革期なのかもしれないな」といった具合に理解していけるのではないかと思います。

ネットのあちら側に抵抗感のある人々を啓蒙するにあたっては、ネットのあちら側の世界観をこちら側に紹介するというアプローチだけではなく、ネットのこちら側の世界観であちら側を使うための手引きが有効なのではないかと思います。
多くの人にとってのアプローチというのは、理解してから使うのではなく、使っているうちに理解が進むというものじゃないでしょうか。
インターネットにしても、それは同じでしょう。
難しいのは、まず最初、手に取らせることだと思います。
それには、その人の今の価値観でその有用性を語ってあげるのが一番てっとり早い。
これだと、「まず新しい価値観を理解して・・・」というフェーズをすっ飛ばせるので。
人間、自分にとって益になると思えば使うわけで、使っているうちに理解が進むわけで。

そういうアプローチとして、第四章から理解する「ウェブ時代をゆく」もありかと思います。
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by kude104 | 2007-11-24 19:39 |

好きじゃなきゃ貫けない

梅田望夫さんは一貫して「好きを貫け」と主張されているわけですが、この「好きを貫け」という言葉、一見すると「好きなことだけして生きていけばいいじゃん」的な甘い言葉かと思いきや――。
「ウェブ時代をゆく」を読んでいるうちに、どうもそうではないらしいと、ようやく分かり初めてきました。

これ、実は「好きじゃなきゃ貫けない」って意味ですね。
きっと。

インターネットによって、競争条件がフラットになる――たとえば、今までは一部の人間しか知り得なかったことがネットを介して誰でも知り得るようになり、今までは地理的な制約で奪われていた機会がネットによって誰にでも与えられるようになる。
誰かにとってのハンデがなくなるということは、誰かにとってのアドバンテージもなくなるということです。
そうして、すべての人が同じ条件で競争するようになったときに、勝敗を決するのは何かというと――。

まず、生まれ持った才能。
でも、これは論じてもしょうがないので無視するとして。
それ以外の人為的なもので何が勝敗を決するかと言うと、結局のところ、「どれだけの時間と情熱をそれに費やしたか」ということだろうと思います。
で、その結果、寝食を忘れるほどにそれに没頭する人が勝つという、そういうことですね。
24時間365日それのことだけを考えるなんてことは、好きじゃなきゃできないことです。
好きの度合いによって、このひとは20時間300日、このひとは10時間150日とグレードが下がっていく。
つまり、インターネットによってフラット化された競争世界の実力のピラミッド構造というのは、おおむね、好きの度合いで序列化したピラミッド構造と同じになるんじゃないでしょうか。

ぼくもまぁ素人に毛の生えたようなレベルですがプログラミングとかしますけど、「あるプログラムを書きつつ、息抜きに別のプログラムを書く。そして家に帰れば趣味でプログラムを書く」みたいな人には絶対に敵わない。
ぼくは、そこまでプログラムのこと好きじゃないもん。

なので、たしかに、没頭できるくらい好きなものがあるなら、それを貫かない手はないと思います。
「好き」ということが、才能と同等か、あるいはそれ以上の資質になるのがウェブ世界なんでしょう。
それが好きで好きでしょうがないという、そういうものがある人にとって、ウェブ世界に生きることはまさに水を得た魚に違いない。
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by kude104 | 2007-11-22 19:07 |

もうひとつの地球

梅田望夫さんの「ウェブ時代をゆく――いかに働き、いかに学ぶか」を購入してただいま読んでいます。
で、どうせなら、読み終わった後に全体としての感想を書くのではなく、読み進めながら、そのときそのときに感じたこと思ったことをメモしていこうかなーと思い立ちました。
そうすることで、ぼくのものの見方考え方が変わるのか、あるいは変わらないのかがログされて面白いんじゃないかな、と。
ブログ更新のネタにもなるしね。

で、さっそくなんだけど、本書冒頭に登場する、ネット空間をリアル空間に対して「もうひとつの地球」とする捉え方について、ぼくには少々しっくりこないものがあります。
もちろん、見方や表現の仕方によって、「もうひとつの地球」と呼べるものがネット空間にあることは、ぼくにだって実感として感じるところです。

でも、結局のところ、ネットってツールだと思うんですよね。

リアル世界、ネット世界と切り分けて別々に考えるのはなんだかオールドタイプな気がしていて、ネットが当たり前にある世代の人間にとっては、ネットもリアルの一部分なんじゃないかと思います。
「本の中の世界」とか「テレビの中の世界」といった表現と同じで、「ネットの中の世界」というだけのことなんじゃないかなぁ。

それでも、その影響力の大きさを表現すべく「もうひとつの地球」と呼ぶのは悪くないけど、文字通り、リアルから独立した別の世界がネットにあると捉えてしまっては、ことの本質を見誤るような気がするのです。
ネットは非常に強力であるけれど、でも単なるツールであると捉えておいたほうが、変に気負わなくていいんじゃないかなぁ。

少なくとも、人間は今のところ、リアル世界でしか飯を食えない。
リアル世界でしか飯が食えない以上、活動の基盤はリアル世界が中心となる。
それゆえたぶん、経済の中心は、この先もずっとリアル世界に有り続けるでしょう。
たとえば今ネットビジネスを支えている広告だって、その大部分はリアル世界でモノが売れることで発生するお金です。
経済の中心がリアルにあるということは、活動の中心もリアルにあるということです。

それゆえぼくは、ネットを「もうひとつの地球」と捉えるよりも、ネットはリアルを補完したり増幅したりする位置づけにあるとするのが正しいように考えています。
ネットを使って、いかにリアルを豊かにするかという発想が、たぶん正しいように思う。
ネットのあちら側が豊かになることは、それをこちら側で使っている人間が豊かになることだから。
だから、ネットは単なるツールとして捉えたほうが良いように思うのだけど、でも、「単なるツール」より「もうひとつの地球」のほうがバズワードとしては優れているね。
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by kude104 | 2007-11-20 14:15 |