世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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硫黄島からの手紙

「硫黄島からの手紙」を観てきました。

映画としての感想よりもとにかく、戦場の理不尽さにただただ圧倒されました。
何度頭の中で「無茶苦茶や・・・」と呟いたことか。
多かれ少なかれ脚色はあるのだろうけど、概ねあんな感じだったんでしょうね。
なんかもう信じられんなぁ。
ほんの60年ほどしか違わないのに、当時と今と、なんだこの断絶は・・・という感じです。
「本当にこんなことがあったの? シンジラレナーイ」って感じです。
でも本当にあったんだよね。
「あなたたちが今そこで苦しみ死んでいくことも、60年後にはみんなフィクションみたいになっちゃうんですよ」と言うと、彼らはどう思うかな。
そう考えると、ちょっと切ない。

死ぬか生きるか、弾が当たるか当たらないかは、本当に『運』だ。
そこに人間の尊厳とか、まったくないですね。
サイコロ振って1が出たらセーフ、他はアウト、みたいな感じ。
ぼくは常々「自分ならどうするか」と考えるのが癖で、今回も「自分ならどうやって生き残るか」と考えながら観ていたのですが、結論は「運あるのみ」ですもん。
それ以外の答えを見つけられなかった。
なにかこう、パチンコ玉のような。
兵士はパチンコ玉で、わーっと放たれてバタバタと死んでいって、まぁ運良く当たりに入った玉だけ生き残れます、みたいな。
パチンコ玉のひとつひとつに個性があって家族があってとか、ぜんぜん知ったこっちゃないし、当たり外れとはまったく関係ない、みたいな。

それにしても、これをハリウッド映画として製作したというのは、すごいなぁ。
技術やら予算的なこともさることながら、精神的なものとして。
逆に考えれば、日本の映画界で、アメリカを主人公サイドにおいた太平洋戦争の映画が作られる、みたいなことでしょ。
無理だろ。撮れんだろ。
こんな映画が作られるところに、やはり、アメリカ映画界の懐の広さというものを感じずにはいられません。
『パールハーバー』みたいな映画ばかり作っているわけではないのだな、彼らも。

まぁとにかく、すごい映画でした。
ぼくの中では、これは「観るべき映画」でしたね。観てよかったです。
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by kude104 | 2007-02-01 23:59 | 映画
以前になにかの折に目にした「となり町戦争」というキーワードというか『設定』が頭の隅っこに引っかかっていて、今回本屋で文庫化したそれを見つけて早速購入・読了しました。
というわけで今回は集英社文庫出版、三崎亜記著の「となり町戦争」の読書感想文です。

ある日突然、主人公の住む町と隣町とが戦争を始める──ということで始まるこの物語。
町同士というスケールの小ささと、戦争という重大事とのちぐはぐな感じが面白いですよね。

それでも本を手に取る前のイメージでは、やっぱり戦争ものということで、主人公が否応なく戦争に巻き込まれて、危険な目にあったり、命のやり取りをしたり、大切な人が死んで涙したりといったスリリングでドラマチックで重厚な物語を予想していました。
身近な「わが町」が「戦場」になるというところでの、日常と非日常とのギャップが読みどころかな、と。
でも、ぜんぜん違った。

本書で描かれる戦争は、まるで現実感がないものとして展開します。
まずもって、戦争自体がまるで公共工事のように、役所手続に則って行われます。
戦争をする町同士は、べつに遺恨があるわけではなく、抜き差しならない利害対立があるわけでもなく、「この戦争という事業をともに手と手を携えて推進していきましょう」といった趣です。
戦争をする意義や目的でさえ、まるで「ここに高速道路を作る意義は──」というのと変わりません。
なぜ戦争をしなければならないのかよりも、「戦闘時間は通勤時間と重ならないように九時から五時まで」とか「窓ガラスが割れたときの保証金はいくらか」とか、そっちのほうが重大事である──この物語の中で戦争はそういうものとして描かれています。

そういう”ずれ”がとにかく淡々と描かれます。
この「淡々さ」が、なんともいえずしんみりと切なく、そしてひたひたとした不気味さを感じさせます。

この物語の中の戦争は、銃声を耳にすることもなければ、兵士や死体すら見ることはありません。
ただ、発表される戦死者の数が増えていくだけです。
でも、見えないどこかで確かに誰かと誰かが殺し合っている。

それは、「見えない戦争」という不気味さやミステリーを描くものではなく、いうなれば、僕らにとっての「地球のどこかで起こっている戦争」を描いたものと言っていいんじゃないでしょうか。
わが星で起きている戦争なのに、まるで現実感がない・・・みたいな。
町と地球とのスケールが違うだけです。

でも、だからと言って、この物語が「地球のどこかで起きている戦争に無関心ではいけない!」というメッセージ性を発しているわけではありません。
ただただ「今この瞬間も誰かと誰かが殺し合っているのに、まるで現実感がないよね~」という感覚を描いたものという気がします。
どこか諦観と、それでいて途方に暮れる感覚を持って。

戦争を題材にしていながら、なかなか変わった味わいで面白かったです。
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by kude104 | 2007-01-08 23:59 |
asahi.com:堺の無防備地域条例 署名2万人超 - マイタウン大阪

以前にもこのニュースについてコメントしたような記憶があるけど、まーだやってるのね、この無防備地域条例活動。

いや、ぼくだって戦争になったら早々に白旗上げて降伏したい気持ちは山々だけど、それってやっぱりカッコ悪いよなぁと思うわけで。
他の地域が攻撃されて人が死んでも、私たちは見捨てます宣言ってことでしょ。
要するに。

でもって、日本が敵に占領された後、無防備宣言をした地域と住民の安全が果たしてきちんと守られるのかなんて誰もわからない。
歴史や世界のニュースを見ていると、占領統治ってそりゃあ過酷なもんみたいですよ。

だいたい、ついこの間のイラク戦争にしたって、捕虜虐待とか平気で起こっているわけだし、ジュネーブ条約で守られるから安心とも言えないよね。
「誤射」とか「兵士が勝手に」とか「反撃を受けそうになったから」とかよく聞くし、そういうセリフ。

とまぁ、無防備宣言をしたところで効果のほどが疑わしいと思っているわけですが、仮に効果があったとしても、それを「戦争反対」の行動として行うのはちょっと違う気がする。
無防備宣言って、戦争が起きたときの自分たちの安全を確保する手段でしょ。
要するに、「これで戦争になっても安心だ」ってことじゃないのか?

「戦争になったら、自分も殺し合いをしなきゃならないんでいやだから、戦争反対です」ってのは分かる。
でも、「戦争になったら、とりあえず降伏するんで自分は安全です。だから戦争反対です」ってのは分からん。

それともあれかな。
「無防備宣言をしたからには、戦争になったらやばい。だから戦争反対です」ってことかな。
つまり、戦争になると確実に負けるという状況を作って、だからこそ、命がけで戦争を回避します、外交で勝利しますという心意気だろうか。
背水の陣みたいな。
それならまぁ、分からないではない。

でも、それにしても、「攻められたら負ける」ってことにはなるが、「だったらこちらから攻めて勝つしかない」という発想にもなりかねない。
やっぱり、戦争反対とはちょっと違う気がするなぁ。
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by kude104 | 2006-12-14 01:27
今日のNHKクローズアップ現代は、「戦争を風化させない」というテーマでした。
ぼくはまぁ先の大戦にそれなりに興味を持っている人間ですので、最低限の知識は持っています。
そんなぼくからすると、現代の若者の中に「終戦日を知らない」「アメリカと戦争したことを知らない」人が少なからずいると聞くと、やっぱりちょっと驚いちゃう。
驚いちゃいますが、まぁ、分からなくはないですね。
興味が無いとそんなもんだろうと思います。

たとえば、「文久の役でどことどこが戦ったか知らない」というのと同じです。
つまりは、太平洋戦争も「歴史」になったということでしょう。

知識だけ知っていれば良いのなら、高校入試や大学入試の出題範囲に第二次世界大戦を含めるようにすれば良いと思います。
学校の授業で、明らかに縄文土器より扱い低いくせして、「今の若者は戦争を知らない」と言ってもそりゃ当然です。
日常生活の中で、太平洋戦争に興味を持って自分から調べてみよう・・・なんて人がそうそういるわけないじゃん。

だって、正直、世間に溢れる太平洋戦争の話なんて、辛気臭くて面白くないもん。
誰々さんが兵隊に取られて戦地へ行って帰ってきませんでしたとか、誰々さんはどこどこで死にましたとか、不幸になりましたとか悲惨でしたとか、そんな話ばっかりだし。
太平洋戦争の話って、実際は戦争物語として非常に面白いとぼくなんかは思うんだけど、でも、太平洋戦争を戦争物語として面白がっちゃイカン!といった空気があるように思います。
それはそれで当然なんですけど。
歴史になったとはいえ、まだまだ生々しい歴史なので、戦国時代の国盗り合戦のようには扱えないですよね。

でも、あの戦争を悲惨だった、不幸だったというお話として語るだけでは不充分だとぼくは思う。
戦争経験者の体験談として語る場合は、それでいいのですが。
つまり、得られる情報が体験談「しか」ないってところが不満です。

「なぜ戦争になってしまったのか」「どうすれば回避できたのか」
それを学ぶこと・考えることが本当は一番重要で、戦争の悲惨さや平和の尊さは、そのための動機でしかない。
動機はとても大切ですが、動機だけで満足してしまっては意味がない。

平和が尊いことはみんな知っている。
誰だって戦争は嫌だ。
なのに、どうして戦争になってしまうのか。

その理由のひとつが、「感情だけで平和は守れない」ってことだろうと思います。
「平和は尊い」という感情だけでは、往々にして、「平和を守るためには戦わなければならない」という感情に摩り替えられてしまうのだと思う。
そのときにブレーキとなるのが、ロジックだとぼくは考えます。
「戦争を回避するテクニック」と言ってもいい。
それは、過去の戦争から学ぶのが一番です。

だから、太平洋戦争は、もっとロジカルに学術的に振り返り分析されるべきものだと思います。

当時の国際状況や社会状況、そして軍事的な戦略・戦術、将兵の能力や人となり、そして兵器の優劣・・・。
そういったものをがっつり分析してくれる戦争特集があれば、ぼくはもうかじりついて見ちゃうけどな。
絶対面白いですし、ためにもなるでしょう。

そういうところから入って、その先に戦争の悲惨さを知るという順番でもいいと思うし、たぶん、そっちのほうが間口は広いんじゃないでしょうか。
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by kude104 | 2006-08-02 23:59 | テレビ
asahi.com:子どもら57人死亡 レバノン空爆で最悪の被害 - 国際

国連って、ぼくらが思っている以上に存在感ないのかもしれないなぁ。
昔はもう少し国連に対して絶対感を抱いていたのだけれど。
あれですね、騒音おばさんにどうすることも出来ない町内会みたいなものですかね。

イスラエルにも言い分はあるし、正義もあるんでしょうけど、このやり方はアカンわ。
これでまたひとつ、憎しみが憎しみを呼び、報復が報復を産む憎悪の連鎖が始まったことが、記事越しにも分かります。
たとえヒズボラを殲滅できても、ちっとも「めでたし、めでたし」で終われないじゃないですか。
将来に禍根を残しまくりです。

人の恨みを買うということを甘く見ては行けないと思う。

イスラエル人とレバノン人との間にできた憎悪の連鎖は、容易には経ち切れませんよ。
下手したら、永久に断ち切れないかもしれない。
だとすると、この先も延々いがみ合って殺し合うのか・・・と思うと暗澹たる気分になるので、なんとかして、憎しみ合う民族を融和させる方法は何かないものか考えてみよう。

ひとつあるとすれば、遠回りのようだけど、個人と個人が交流して相互理解を深めて行くほかはないと考えます。

「ナニナニ人」といった捕らえ方では対象が漠然としすぎていて、親近感を持ちづらいですよね。
「ナニナニ人」が好きになる前には、まず、個人を好きになることだと思います。
民族関係なく個人と個人の付き合いの中で、「あの人はイスラエル人だけど好きだ」となれば、憎悪と民族との結び付けが揺らぎます。
民族単位で憎悪の対象としていたものが、「イスラエル人が悪いのではなく、悪いのは○○だ」というふうに、個人単位、個別単位に詳細化すればしめたものです。

問題は、どうやって個人と個人の交流を深めるかです。
いま、イスラエル人とレバノン人が交流を深めることなど、それすら夢物語です。
そこで、国連の登場ですよ。

まず、どこかに国連の管理・保護のもとに、居住区を作ります。
たぶん、どちらの民族の中にも、「憎しみより友愛を」と考える人が少しは居るのではないかと思いますので、彼らにこの居住区に移住してもらいます。
そこで民族関係なく、お互い融和して生活してもらうわけです。

お互いに理解し合いましょうという人たちが集まるわけですから、お互いに安心です。
そして、お互いに相手のことを理解しようと努めるので、融和もスムーズに進むのではないでしょうか。

彼らには、融和イベントや融和キャンペーンといったプロモーション活動を積極的に展開してもらいます。
それは、自分たちが仲良くなるためでもあり、対外的なアピールのためでもあります。
そうした活動がコミュニティに住む条件であり、それに対して「お給料」を支払ってもいい。
彼らの仕事は「融和すること」と言い切っても良いくらいですから。

完全に融和できた人は自分の国に戻って、そこで種になってもらいたい。
そうして新しい人をどんどん入れては融和させて本国に返すということを50年も続ければ、かなりの成果になるのではないかと思うのですがどうでしょう。
まぁ、融和した人、しようとした人が迫害される危険性がありますから、そのへんは何か対策を講じなければならないでしょうけど。

自分でも、「何とも夢物語な・・・」と思いますが、武力で殲滅する案よりは「まし」だと思います。
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by kude104 | 2006-07-31 23:59 | 時事・社会
季節柄、靖国問題についての言説をよく目に耳にするようになってきました。
せっかくなので、ぼくも便乗してつらつらと思うところを書いてみよう。

「靖国問題を解決しようと思ったら、どうすればいいか?」というのは、思考ゲームとして面白い。
今回は象徴的な例として、首相の靖国参拝について考えてみます。

解決策として、ひとつには「参拝を禁止する」という解がありますが、これはまぁ下作というか、あまりエレガントじゃない気がします。
解決と言うのは、問題が問題でなくなることですから。
禁止するというのは、単に「臭いものに蓋をする」ようなものですよね。
「首相が参拝しても、誰も気にも留めない」という状況こそが、「解決」と言えるのではないでしょうか。

「参拝したけりゃ勝手に参拝すりゃいいし、参拝したくなきゃ参拝しなきゃいいし、好きにすれば?」って言える状況。
首相が参拝しようがしまいが、政治にも外交にもお茶の間にもなんの影響も話題も及ぼさない状況。
そうなれば、これは完璧に「解決」です。

それには、反対の理由をひとつひとつ潰して行くのがいいでしょう。
賛成の理由を潰すのは難しいというか、賛成の理由ってほぼ精神的満足感なので。
理屈で潰しやすいのは反対の理由のほうかと思います。

まず、政教分離の問題。
首相が特定の宗教施設を参拝するのは問題だという意見。
これは基本的に、公人としての参拝はアウト、私人としてならオッケーというところでラインを引くのが現実的な落とし所かと思います。
「首相となった人間に公私の区別は無い、すべてアウトだ」というと、「あれもダメ、これもダメ」で身動き取れなくなりそうですし。
葬式とか初詣とかクリスマスとか。
まぁ、なんなら、同日にお寺や教会も訪れて、「特定の」という部分を薄めてやればいいんじゃないでしょうか。

次に、A級戦犯が祭られているから駄目だという意見。
これに対しては、「人間、死ねば皆ホトケ」ということで理解して頂きましょう。
反対派の感情がそれで収まるかどうかは分かりませんが、理屈としては、それほど強引な主張でもないはず。
「人間、死ねば皆ホトケ。生前の罪を問うことと、死者の魂を弔うことは別」という主張に対して、「いーや! 罪人は死んでも罪人、弔う必要などなし!」と反論してくる人はそうそう居ないでしょう。
もし居たとしても、日本人の生死観からして、たいていの人は「死ねば皆ホトケ」のほうがしっくり来るのではないかと思います。

また、靖国神社に参拝することが軍国主義を賛美することにつながるという意見に対しては、「死者の魂を弔い、死者の魂に不戦の誓いを立てる」という名目でクリアできるでしょう。
「我が国が過去に悲惨な戦争を引き起こしたことを忘れないため、そして、二度と同じ過ちを繰り返さないために、こうして参拝しています」とはっきり言えば、それに対して「軍国主義を賛美している」と非難するのは難しくなるのではないでしょうか。

そして、対中韓関係を悪化させるという意見に対しては──。

中韓だけに限らず、とどのつまりは、日本は(日本人は)プロモーションが下手なんだと思います。
たとえば、首相が靖国神社を参拝するなら、それとセットにして、先の戦争の反省と不戦の誓いをもっともっとアピールするべきだと思います。
せっかくマスコミが大勢押し寄せて、首相のあるいは政府の話を聞きたがっているんですから、ここぞとばかりに「日本は反省している。もう二度と戦争はしない」って言えばいい。
「平和を愛する日本」を知ってもらう、絶好の機会じゃないですか。

マスコミを避けるように参拝するんじゃなくて、堂々と参拝して、堂々と平和の誓いを述べればいいと思うんですよ。
上に挙げたように、いかようにも大義名分は立つんですから。

もちろん、靖国だけじゃなく、いろんな平和式典に積極的に参加することが大切ですよ。
また、折々に触れて、アジアの諸外国に謝罪と平和のメッセージを発信することも大切です。
他にも、国際的な紛争や対立に、日本が積極的に平和への活動を行ったり。
そういった積み重ねがあれば、中韓だって下手に非難できなくなるでしょう。

これまで日本がどのくらいの謝罪をした、賠償をしたと主張しても、回数や金額じゃないんですよね。
プロモーション効果がどうだったかが重要です。
未だに中韓に「謝罪と賠償を要求する!」とか言われちゃうのは、日本のプロモーションが下手だからですよ。

靖国に参拝するかしないかは問題の本質じゃなくて、いかにして日本が世界に向けて平和へのメッセージを発信するか、それこそが問題だと思います。
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by kude104 | 2006-07-30 21:52 | 時事・社会
Yahoo!ニュース - 中東情勢

極東では北朝鮮のミサイル実験が危機感を煽っておりますが、中東では実験どころか、すでに実戦ですよ。
実質的に戦争勃発と言っていい状況ではないかと思うのですが、そのわりには、日本ではあまりそんな空気で報じられていないように思います。
遠くの火事より近くの小火──みたいな感じでしょうか。

まぁ、おそらくは、レバノン対イスラエルといった国と国との戦いではなく、ヒズボラという“テロ組織”対イスラエル軍の戦いなので、「戦争じゃないっすよ」ってことなんでしょう。
それと、中東だけに「またか」という感じもなきにしも有らずで、そのせいであまり「とんでもない事態が発生した!」という危機感を感じさせませんよね。

でもこれ、ちょっと「終わり方」が見えない戦いなのではないかという気がして心配です。

戦争というのは、始め方より終わり方のほうが何千倍も重要で難しいものです。
ですから、戦争を始めるときには、何が勝利条件でどうすればそれを満たすことができ、どのタイミングでどのように戦争を終えるかを、十分考えなければなりません。
それが見えない戦いは、決して始めてはダメです。

そう考えると、今回の戦争の「終わり方」がまるで見えません。

イスラエル軍は、今回の勝利条件を「拉致された兵士の開放」としています。
では、この軍事攻撃を受けて、ヒズボラが兵士を解放する可能性がどれくらいあるだろうと考えると、残念ながらゼロでしょう。
「イスラエルの攻撃に屈して人質を解放した」なんてことは、ヒズボラには絶対にできない。
じゃあイスラエルはどうやって戦争に“勝利”し、終わらせるつもりなのか。

やはり、ヒズボラを壊滅させるところまで突き進むつもりでしょうか。
ただ、それをするには、まず国際的な支持を集めてから軍事行動を起こすという手順を踏まなければ、なかなか難しいのではないかと思います。
それでも電撃的に壊滅させられたらまだいいですが、泥沼化すると収拾は絶望的になりそうです。

ぼくがイスラエルなら、ちょっとこの賭けには乗れないですね。
おそらく、かなりの長期戦、消耗戦を覚悟しなければならないでしょう。
そして、たくさんの市民が犠牲になるんだね。
なんというか、しみじみ業が深いなぁと思います。

中東問題でいつも思うのは、日本は島国で良かったなぁってことです。
たとえば、竹島を巡る問題にしても、竹島を挟んでお互いが陸続きだったら、かなり厄介なことになるだろうなぁと思うわけで。
あるいは北朝鮮が陸続きの隣国だったら、とかね。
極東が中東のようにならないためにも、外交はきちんとやらなアカンなぁと思います。
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by kude104 | 2006-07-16 23:59 | 時事・社会