世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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戦争を知らないぼくたちに戦後責任は存在するか? - Something Orange

この記事で言及されている山本さんの発言の要旨は「日本とか中国とか在日とかそういったラベリングの集団論で片付けていると、『個人の責任』を見失いますよ」というところにあるのではないかと思います。
ただ、その話の枕に「日本は中国に謝罪すべきか?」というデリケートな話を持ってきてしまったがために、本題よりも枕のほうがメイントピックになっちゃった感がありますね。

少なくとも、「謝罪する必要はない」とする山本さんの発言は、言うならば「戦中責任」について述べたものであり、kaienさんの仰る「戦後責任」とは、また別のお話になるように思います。


それはそれとして。
この記事を読んで、「戦後責任」についてのぼくの考えはというと。

国家として、今の日本に「戦後責任」があるかというと、あるでしょう。
国家にあるということは、その主権者である国民たる我々にも「戦後責任」がある、ということでよいかと思います。

今の日本という国が、大日本帝国、あるいはそれ以前と「同一」であるかというのは、厳密なところはよく分かりませんが、まぁいちおう日本は大和朝廷くらいからずっと天皇家が治める単一王朝ということになっているのかな。
別の王朝が打ち建てられたわけでもないし、異民族の国家に変わったわけでもないし、まぁ諸外国の扱いとして「同じ」と考えるべきだろうと思います。
せいぜい、政権や政治体制の交代レベルの認識でしょう。
われわれの意識としても、「日本」の誕生が戦後からという感じではありませんし。

だとすると、日本という国家には戦争を行った過去がある、ということになります。
ならば当然、今の日本に「戦後責任」はあるだろうと思うのです。

ただ、ぼくの思う「戦後責任」というのは、「過去の戦争で犯した罪に対する直接的な責任」ではなくて(それはまた別の責任のお話)、「かつて戦争をした」ということを踏まえて、今、そしてこれから、日本という国家がどうあるべきかということについての責任、という意味です。
kaienさんの仰る「戦後責任」というのも、たぶん同じ意味だろうと思います。

「戦後責任を持つ」=「謝罪と賠償」ではない。
戦後責任というのは、そんな小さなものではない。

ある人にとっては、「もう二度と戦争を起こさない」ことが戦後責任になるでしょう。
またある人にとっては、「もう二度と負ける戦争はしない」ことが戦後責任であるかもしれません。
言論の自由を守ることが戦後責任である人もいるでしょうし、参政することが戦後責任である人もいるでしょう。
国際貢献であるとか、そうしたことも戦後責任とは無関係ではありません。

要するに、あの戦争を教訓として、これからの日本にどう活かすかということですね。
何も学ばず、同じ失敗を繰り返すなら、それこそが「無責任」な行為じゃないでしょうか。

なので、戦後責任のまず第一歩は、あの戦争について知ること、考えることであろうと思います。
今回のこの記事も、戦後責任のひとつなのだ。
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by kude104 | 2009-04-25 22:23

対テロ戦争の勝利条件

asahi.com(朝日新聞社):社説「対テロ戦争―どこが間違いだったか」

「どこが」というなら、勝利条件が間違いだったのだろうと思う。

戦争というのは、始めるときよりやめるときのほうが難しい。
(戦争に限らないかな)
なので、これから戦争を始めようというときには、あらかじめ「勝利条件」と「敗北条件」を明確に厳密によくよく決めておかなければならない。

たとえば、旧日本の対米戦争とか。
彼らが開戦時にいったいどのような勝利条件を設定していたのか、全然分からない。
まさかワシントンを攻略するつもりだったわけじゃあるまい(そこまでバカじゃないだろう)。
常識的に考えて、「アメリカに一撃を加えて戦意を喪失させ、有利な条件で講和する」以外に勝利条件を設定しようがないと思うわけだが、「講和する」をどれだけきちんと計画できていたか、はなはだ疑問だ。

「テロ根絶」を勝利条件に設定することは、ワシントン攻略と同じくらい無茶なことだと思う。
そんなもん、5年10年で根絶できるわけないじゃない。
下手をすると、永久に無理かもしれないくらいだ。
テロ根絶とかイラクの治安回復とかそんなこと考えずに、単に圧倒的軍事力で「敵」を一撃して、「アメリカ超こえー」と思わせる──というのを勝利条件にしていたら、アメリカ大勝利で終戦できていただろうにね。


それはそれとして。
じゃあ、テロとどのように戦っていけばいいかという点についても考えてみよう。

たとえば、資金源を断つとか。
テロ組織を直接叩くのは難しいので、テロ組織を支援している組織を叩くという戦略のほうが良いのではないかと思う。
たとえば、テロ組織を内部分裂させるとか。
組織内部の権力争いを煽るとか、テロ組織同士がいがみ合うよう仕向けるとか。

個人的には、アメとムチで言うところのアメに相当するものが、今のテロとの戦いにおいて欠けているのではないかと思う。
たとえば、一方のテロ組織に対して、他方に平和的なやり方で自分たちの権利を勝ち取っていこうという組織があるとして。
この組織に対して、多少なりともアメ的に譲歩して、彼らの主張を聞き入れてあげる、と。
そうすることで、テロ以外にも要求を実現させうる手段があるんだよと、提示することができる。
しかも、そちらのほうが要求が通る可能性が高いとなれば、「じゃあ、おれはテロじゃなくて平和的手段を選ぼう」という人が増えるのではないだろうか。

テロに走る以外に道がないという状況では、テロに走るしか道がないわけだから、他の道を作ってあげると良いと思う。
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by kude104 | 2009-01-21 17:04 | 時事・社会
日本の議員達に言う 間違った歴史認識(村山談話)で日本の国民や国家を代表して欲しくない|デヴィ夫人オフィシャルブログ「デヴィの独り言 独断と偏見」by Ameba

「俺は悪くない、世間が悪い。世間がよってたかって俺を貧困に追い込んだんだ。
 追い詰められたら、人間生きるために多少無茶なことはしちゃうでしょ。
 無茶って言っても、たかだか隣の家に乗り込んだだけじゃん。
 それだって、ちゃんと当人の同意を得たよ。
 そりゃ、なかなかウンと言わないから2,3発殴ったけど。
 みんなで協力して貧困に立ち向かおうという俺の崇高な理念を、理解しないあいつらが悪い。
 黙って俺の言うこと気いて資源と人員差し出せば、俺が豊かな暮らしを恵んでやろうってのに。
 反抗するから、しつけのつもりで多少殺したり犯したりもしたけれど、そんなことは俺の功績からすれば微々たるもんだろ。
 感謝されこそすれ、責められるのは納得いかん。
 だいたい、そんなことは他の奴らもやってたじゃん。
 なんで俺だけ責められなアカンわけ?」
みたいな。

歴史にはもちろんさまざまな見方や解釈があるのだけれど、基本的に、歴史は勝者が作るものです。
敗者は正義を語れない。
その覚悟がないんだったら、戦争なんかするなって話です。
戦争に負けるというのは、そういうことだろ。

たとえば、「日本」を「北朝鮮」に置き換えてみますか?
もし北朝鮮がこの先戦争をして負ければ、彼らはきっとこういうでしょう。

> 戦争前、北朝鮮は経済制裁を加えられていたのではなかったのですか?
> 資源も原料も無い北朝鮮は外に出て行くしかなかったのではないですか?
> 一か八か、北朝鮮の存続の為の問題ではなかったのですか?
> 自衛自存ではなかったのですか?

ほらね、そんなもんですよ。

たとえどのような事情があろうと、どのような正義があろうと、負け戦をしてしまった時点でダメだとぼくは考えます。
一か八かの戦争をせざるを得ない状況にまで追い込まれた時点で、ダメなんですよ。
それは「しょうがなかった」んじゃない。
もっと前の段階で、来るべき「しょうがない」状況を回避できなかったのが悪い。
だいたい、日本の戦前の政治なり軍事を見りゃ、恥ずかしくて「誇り、誇り」などと言えないって。

過去の敗北を「俺、悪くないもん!」と主張するのが誇れる行為だとは、ぼくは思わない。
むしろ、たとえどのような悪評を投げかけられようとも、ぐっと歯を食いしばって黙って耐えるほうが美しい。
もちろん、何でもかんでも「はいはい、おっしゃる通りです、私めがすべて悪うございます」などとへいこらするのも違うよ。
筋は通しつつも、悪評は甘んじて受ける。言い訳などしない。

そうして、今度こそ、本当に周りの国々を幸せにするように頑張る。
そうすれば、その姿を見た周りの国々から、日本を再評価する声が上がってくるわけですよ。
「先の大戦では、確かに日本は酷いこともしたけれど、良いこともした」と。
評価を変えるというのは、自分から声高に主張するのではなく、周りからそうした声が上がるのを待つのがいい。
そうした声が上がるように、尊敬され愛される日本になれるよう一生懸命努力するのがいいと思います。

国の威信であったり誇りと言うものは、そういうふうに作るもんだと思います。
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by kude104 | 2008-11-20 19:00
いま文春新書の「昭和陸海軍の失敗―彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか」という本を読んでいるんですが、これがなかなか面白い。
「どうして日本は勝ち目のない戦争に突入したのか」というのは、ぼくにとって知りたい謎のひとつなのですが、本書を読んでいると「なるほど、だからか」と大いに頷ける。

答えは、一言で言うならば、「無謀な戦争を回避できるだけの優秀な人材がいなかったから」ということになるのだけど。
なぜ優秀な人材がいなかったのか――それが本書を読めばよく分かる。

能力ではなく、人間関係によってポストが決まる。
失敗しても、責任を取らない、問われない。
うーむ、まるでどこかの企業かお役所のようだ。

また、軍人を育てるためのエリート教育システムというものの弊害も大きくあるようです。
たしかに優秀な人材を集めてエリート教育を施しているわけだけど、サッカーに例えるなら、ドリブルとシュートばかりを徹底的にたたき込んでいるようなもので。
パスであるとかフォーメーションであるとかセットプレーであるとか、要するに、ゲーム全体を見通してチーム全体としてどう戦うべきかというところは、まったく教育されていない。

日清日露のあたりまでは、実戦経験者がいたことと、戦争というものがまだ単純であったおかげで問題が表面化しなかったけれど、昭和になって、実戦経験者はいなくなり、戦争も国家総力戦で複雑になってしまい、対応できなくなったんだなぁ。
近代サッカーが高度なチームプレーになったのに、日本には一度も試合をしたことがないドリブルとシュートだけの選手しか居なくなっちゃったって感じです。
そりゃ負けるよ。

なまじエリートコースを歩いていない軍人のほうが、軍の傍流に追い出されることで逆に外の世界と触れる機会を持つことができ、それで視野が広くなり、有能な人になっている。
でも、エリートコースを外れると中枢には入れないから、国家の大計を担うことができないという皮肉。
前線の指揮官を見ると優秀な人が多くて、なるほど開戦当初の破竹の快進撃も頷けるのだけど、これも逆に言えば、そういう人たちが中枢に行けなかったということでもあるのでしょう。
短期的には現場の能力でどうにかできても、中長期的には経営陣の経営戦略がものを言うのは、ビジネスだけの話じゃない。

また、これは軍人だけの話ではなく、世の中というのは、慎重派と行動派が対立すると、たいてい行動派が勝っちゃうんだなぁ。
行動派のほうが熱量が高いし、毅然として勇ましく映るから。
あと、武力に訴えるという選択肢は、だいたい行動派のお家芸でもありますし。
で、良識派というのはだいたい慎重派になるので、慎重派と行動派が対立すると、結果として良識派が駆逐されていなくなってしまう。
そうなったら、あとは暴走して自滅するのを待つだけです。

とまぁ、こうして見ると、旧日本軍が特別どうこうという話ではなくて、普遍的な組織論のお話であると思います。
いまの政治の官僚機構とか、大丈夫なんだろうかと思ってしまいますよね。
また、世論がイケイケになると、それは「危険」のシグナルだと思って用心したほうがよさそうです。
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by kude104 | 2008-04-19 23:59 |
昨日深夜に放送された「NNN ドキュメント’08 兵士たちが記録した南京大虐殺」はなかなか興味深い内容でした。

まずは、20年にもわたり南京大虐殺についての調査を独自に行われてきた小野さんに敬意を表さずにはいられません。
テレビで見る限りでは、特に政治的思想的な動機というものは感じられませんでした。
ただ真実が知りたいという気持ちと、知らなければという使命感によって、活動していらっしゃるように見受けられました。
その姿勢には感服するばかりです。
真の学問、ジャーナリズムとは、ああいう姿勢のことを言うのだろうな。

南京大虐殺については、「あった」「なかった」「被害者30万人」「数万人」とさまざまな意見がありますが、昨日のテレビを見た限りでは、小野さんの調査された部隊だけに限って見ても3日間で捕虜約2万人を殺害した、ということになりそうですね。

捕虜殺害があったことは疑いようがないとして、問題は規模ですね。
2万人というのはいくらなんでも多すぎるような気もするし、一方でそのくらいは十分考えられる数であるような気もする。
たとえば、捉えた捕虜の数というのはある意味勲章だったろうから、多少水増しして報告していたのではないかという疑問は、まぁ無くはない。
このへんは、当時の南京の人口であるとか日本軍の兵力であるとか、そのあたりから「2万人は妥当な数である」と言えるなら、間違いないと思えるのですがどうなんだろう。
いずれにしても、サバを読んでいたとしても2倍がせいぜいだろうと思うので、目一杯少なく見積もっても1万人は殺害しているだろうと思うわけですが。

それが一方面の3日間の殺害数なので、いわゆる南京大虐殺として言われるトータルでの殺害数はその4~5倍くらいになるのかな・・・という印象です。

「なぜ虐殺が起きたのか?」という点ですが、一番の原因は日本軍の食糧補給の拙さではないかという印象を受けました。
日本軍の兵站の稚拙っぷりは有名ですが、改めてひどいものだなと。
そりゃ、自分たちの食べるものでさえ現地調達しているような部隊が数万人の捕虜を養えるわけがない。
逃がすこともできないとなれば、殺すしかないという発想になるのも分からないではない。

あとひとつ感心したのは、陣中日記について。
どれもなかなか文章力が高くて驚いた。
言うなれば地方の農村の一兵卒が誰に見せるでもない日記として書いたものなのに、ちょっとした文才を感じさせるものまでありました。
殊更文章力が高いものをピックアップしたのかも知れませんけど、もしあれが当時の日本人の平均だとしたら、日本軍が強かった理由がなんとなく分かる気がするなぁ。
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by kude104 | 2008-04-07 17:05 | テレビ
( ;^ω^)<へいわぼけ: 戦争がない世界にするにはどうしたらいいのか

世界を統一することだろうね。

明治維新前は日本も国内でたびたび戦争が起きていたわけだけど、明治政府によって藩という「国」が解体されて日本国の「県」になったことで、国内での戦争はなくなりました。
もちろん、単純に「ひとつの国」にすれば戦争がなくなるわけではない。
統一後も、たびたび「内戦」が起こっている国もたくさんあるからね。

戦争がなぜ起きるのかというと、利害の対立を軍事力でもって解消しようとするからです。
ここで重要なのは、利害の対立それ自体は、必ず起こりうるということ。
経済活動を行う以上は、遅かれ早かれ、多かれ少なかれ、利害は必ず対立する。
双方譲れない利害の対立が発生したとき、それをどのようにして解決するかという問題が、どうすれば戦争をなくすことができるかという問題です。

双方譲らないAとBの対立を解決する方法は2つしかない。
AとBが暴力で勝ち負けを付けるか、第三者であるCが調停するか。
「話し合って解決する」のが理想ですが、それができれば「双方譲らない」とは言わないわけで。

で、この「第三者であるCが調停する」ということが、すなわち、「統一する」ということです。
AとBの暴力を封じ、両者の利害を調停し、その調停に不満があろうと従わせる。
このとき、Cに従わせるだけの力がなければ、いずれAかBかがCの調停を暴力で拒否するようになるかもしれない。
また、Cの調停が公平でなければ、やがてAかBかが不満を募らせ、Cからの独立を求めるようになるでしょう。
統一後も内戦の収まらない国というのは、国家に力がないか公平でないか、そんなところではないでしょうか。
逆に言えば、国家が調停者として立派に機能していれば、国内での戦争はなくせます。

同じことを地球規模に拡大すれば、戦争のない世界を実現させることができる。
ただ、世界を統一するのは、国を統一するのとは規模も複雑さもまるで違うから。
並大抵のことでは不可能だろうけどね。
でも、絶対に無理だとは思わない。
「有史以来、人類は常に戦争してきたのだから、これからもずっと戦争し続けるだろう」とは思わない。
だって、インターネットひとつ取ったって、有史以来、人類がインターネットを持った時代なんてなかったんだから。
つまり、環境が変われば、過去の常識なんていくらでも変わると思うのです。

ただ、戦争をなくすために戦争の悲惨さを訴えることは、有意義ではあるけどそれだけでは良くておそらく50%だろうと思う。
どれだけ戦争が悲惨なものだと知っていても、戦争をするときはする。
悲惨であると知るが故に、少しでも有利に事を運ぶために戦争することだってあるでしょう。
なので、なぜ、どういう理由で、どういう経緯で、過去戦争が行われたのか。
それを回避する道はなかったのか。
「戦争は悲惨だ」というのが感情面からのアプローチなら、そういったロジカルに戦争のことを考えるアプローチも必要だと思います。
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by kude104 | 2007-08-06 23:59

「誇り」で亡国

侵略正当化へ“洗脳”/文科省採用の“靖国DVD” - しんぶん赤旗

実物を見たわけじゃないのであれですけど、この記事の通りの内容だとしたら、キモチワルイの一言だなぁ。

ロシアは、中国大陸における覇権争いをしていた国民党や共産党をたくみに操り、さまざまな謀略を日本にしかけはじめた。そうとは知らない日本は中国大陸で抜けるに抜け出せない、泥沼のような戦いを繰り広げていくことになっていく
いやいやいや、抜けるに抜け出せない泥沼のような戦いを繰り広げていくことになったのは、ひとえに軍部の独走ゆえでしょうに。
軍部の独走さえなければ、おそらく外交で解決できていたに違いない。
「そうとは知らない」という言い様も、まるで被害者面ですが、国家の命運が懸かる大一番に「そうとは知りませんでした」などという言い草が通るはずがない。
知る努力もせずに「そうと知らなかった」なんて、どの面下げて言いますかって感じです。

日本は亡国の道を歩むか、戦争に突入するか―二つに一つの決断を迫られ、アメリカをはじめとする連合国軍との戦争という苦渋の決断を強いられた
チャンチャラおかしい。
「亡国の道を歩むか、戦争に突入するか―二つに一つの決断を迫られ」たのはなぜかと言えば、これまた結局のところは、軍を御し得なかったからでしょう。
乱暴に言えば、中国から”撤退”さえすれば、戦争に至らずに済んだはず。
「撤兵すれば、これまでの犠牲が無駄になる」「負けたわけではないのに、撤兵などできるか」という軍や世間の声を押し切って撤兵することができなかったために、二つに一つの決断を迫られることとなったのだ。
中国から撤退すれば、日本は滅びたか――滅びないでしょう。
まぁ、少なからぬ利権を失うことにはなったでしょうが、国が滅びるわけじゃなかった。
なのに、連合国相手に国の存亡を懸けて戦争する道を選んだんだから、これをはまったく誉められた話じゃないですよね。
撤退するより連合国相手に戦争するほうが楽な決断だったというだけのことです。

たとえばいま北朝鮮が戦争に打って出たとしたら、彼らの言い分としては、「自国を守るための戦争」ということになるでしょうね。
大義名分として民族統一を掲げたりするでしょうか。
北朝鮮にとって状況を打開する道が戦争にしかなくて、民族統一に大義名分があるとして、でもおそらく我々は北朝鮮の主張や行動を認めはしないでしょう。
「それは、そういう状況を作ったお前が悪い」と言うのではないでしょうか。
70年前に翻れば、それは大日本帝国に当てはまるとぼくは思う。

道徳的な「善い悪い」は時代とともに、状況とともに、立場とともに変わるのだから、そこははっきり言って重要じゃないでしょう。
いちおう、戦争は避けるべきものというコンセンサスがあるので、今の平和な世の中からすれば「悪い」ということになるでしょう。
それはそれとして、先の戦争(と、戦争に至る一連の行動)は国策として正しかったか?という問いを立てるなら、これは100%「正しくない」ということになりましょう。
なぜなら、負けたから。
負ける戦争をした時点で、理由や状況など問答無用で、国策として正しくないのです。
ですから、振り返るべきはここです。

先の戦争を、善悪論や感情論ではなく「国策の失敗」として、理知的・論理的に反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないようにすること。
それこそが、「自虐史観」から脱して向かうべき、新たなる「自省史観」だと思います。

簡単に言うとね、経営陣が無能で倒産した会社を、「夢を売る会社でした」「平社員は頑張りました」というお涙ちょうだいのドラマにして振り返ったところで、カタルシスはあっても何の役にも立ちゃしないってことですよ。
そんなお涙ちょうだいドラマで良しとしていたら、無能な経営陣は無能なままで、無知な平社員は無知なままで、新しい会社もすぐにまた同じように倒産しますって。
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by kude104 | 2007-05-19 23:59 | 時事・社会
今日は憲法記念日ということで、昨日の「その時歴史が動いた」でもその特集だったし、憲法9条について考えてみよう。

昨今、憲法改正の動きが高まっているようだけど、ぼくは、憲法改正それ自体はあっていいと思っています。
一度作ったらもう二度と変更は利きませんというのでは、さすがにちょっと柔軟性に欠ける。
システムというのは、間違うことを前提として、あとから修正が利くように設計するのが正しいと思うのです。
その時は正しくても、時代の変化とともに合わなくなることだってざらにあるわけだし。
だから、何が何でも憲法を改正しないという考え方には、与しないです。

その上で考えるのは、現状、憲法改正=9条改正ということで語られているので、「憲法改正はいいとして、9条を改正する必要はあるのか」というところです。
これについて、ぼくは、改正する必要はないのではと思っています。

自衛のための戦力というのは、とうぜん持ってしかるべきだと思う。
また、国際貢献として自衛隊の海外派遣も行うべきでしょう。
それらを、現在の9条の枠内で上手く位置づけられればいいわけですよね。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
「国際紛争を解決する手段としては」という一文があるので、まず国際貢献については、なんら問題ないと考えます。
たとえばイラクの復興支援などは、国際紛争を解決するための活動じゃないですからね。
紛争地帯に自衛隊を送りこんで、その武力でもって戦闘行為を停止させるとか、そういった活動は抵触すると考えていいと思いますが、復興支援はセーフでしょう。

自衛のための戦闘については正直ちょっと厳しいけど、これも「国際紛争を解決する手段としては」というところでなんとか成り立たないものかと思います。
何か利権の対立なりトラブルなりが発生して、その解決のために「自衛する」というのは、行為としておかしいというかありえないというか。
自衛と称して攻めていくのはもちろんアウトですよ。
でも、攻めてくるのをただ防ぐだけの行為は、紛争解決のための行為ではないと言っていいんじゃないでしょうか。

第2項については、「前項の目的を達するため」をどう解釈するかですよねぇ。
素直に読めばすべての戦力を放棄すると見て取れますが、たとえば、「その他の戦力」という表現にはあらゆる戦力が含まれるので、竹やりですらアウトだという主張だって、しようと思えばできるんじゃないでしょうか。
さすがにそれは極端だという話で、じゃあ、どこを「戦力」として線引きするかです。
「自衛隊は軍隊じゃない」という主張でもって、とりあえず「陸海空軍」という主張をかわし、「その他の戦力」に自衛のための戦力は含まれないとする――のがベターかなぁと思いますが、多分に詭弁が入ってますね。

いっそ憲法改正しちゃって、自衛のための戦力は保持すると明確にしてもいいと思います。
でも、その場合はそれと同時に、他国を侵略しないということも明示して欲しいですね。
「国際紛争を解決する手段としては自衛のためにのみ用い、日本の領土領空領海を超えて行使しない」みたいな感じで。
そのほうが平和の意志が明確になって、むしろいいかも知れませんね。
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by kude104 | 2007-05-03 23:44
今日は昭和の日の振り替え休日と言うことで。
ちょうどいま、東京裁判でA級戦犯として処刑されたただ一人の文官広田弘毅を主人公にした城山三郎著の「落日燃ゆ」という小説を読んでいるところでして、読みながら当時の日本について感じたことなどを昭和の日にちなんで書いてみようと思います。

日本が戦争に突入してしまった一番の要因はなんだろうと考えると、象徴的に言えば、関東軍の暴走だろうと思います。
政府はおろか、軍上層部のコントロールすら利かなくなっちゃってるもん。
指揮系統の乱れた軍隊ほどろくなものはないですね。
あれはどこかのタイミングで、独断専行した指揮官を毅然と処罰して、中央によるコントロールを回復させておくべきだったと思えてなりません。
たらればですが、もし当時、軍のコントロールがきちんと利いていたなら、もしかしたら太平洋戦争は回避できたかもしれないですよね。

ではなぜ軍の暴走を看過したのか?ですが、これはやはり結局のところ、世間の空気がそれを許したと言わざるを得ない気がします。
もちろん、テロリズムを背景に軍部の力が強くなっていた時代だったというのもありますが、そういう状況を作り出した一因として「世間の空気」というものがあろうと思いますし、また、そのテロリズム自体をどこか容認するような「世間の空気」もあったのではないかと思います。
「日本は武力でガンガン進出するぜ!」みたいな暴走軍人の主張を、行け行けで支持した国民が少なからずいたのではないかと思うのですよ。
その指示があったからこそ、軍も暴走できたのではないかと。

では、そういう世間の空気がなぜ作られたのか?と考えていくと、結局は国民がバカだったからというところに行きついてしまいます。
正確に言えば、「無知だったから」でしょうか。
正しい知識と情報がなければ、正しい判断はできません。
当時の国際状況などを正しく理解できていた人間が、いったいどれだけいたでしょうか。
無知なれば、人間、威勢のいいほうに心惹かれるもんです。

では、世論を形成する一般大衆が、その知識と情報をどこから手に入れるかと言うと、マスコミからですよね。
つまり、最終的には、すべての問題はマスコミに行きつくのではないかと思う次第です。

このことは、なにも昭和の時代に限ったことではありません。
今だって同じです。
いかにして国民に正しい知識と情報を持たせるかが、国家が道を誤らないための最重要課題となるでしょう。
この場合、一般大衆に向かって、「お前ら、自ら努力して正しい知識と情報を手に入れろよ」と要求するのは現実的ではありません。
それを期待して、その期待の上に社会システムを構築するのは、かなりリスキーだと思います。
Push型、すなわち、向こうから送られてくる情報で、なんとか正しい知識と情報を一般大衆に与えてやるほかない。
となると、その役割を担うのはマスコミですよね。

そういった使命を持った、公器としてのマスコミというものは、どうあればいいのか。
どうすれば、実現できるか。
それがこれからの時代、重要なカギになる気がするなぁ。
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by kude104 | 2007-04-30 22:33
OhmyNews:日本中が戦争へと向かっている……

まぁたしかに、最近テレビやラジオのCMで、「俺は、君のためにこそ死ににいく」とか「私は、あなたの息子として死ねるでしょうか」とか、やたらと「死ぬ死ぬ」うっとおしいってのは共感するところです。
とりあえず死にゃ客は感動するだろうって思ってんのかね、みたいな。

ただ、”「硫黄島」という映画”とやらが「硫黄島からの手紙」のことなら、あれを観て「戦争の時代の日本を、残酷だが美しく描く映画だ」という感想を持つ人がいるのに驚いた。
あれほど、戦争は美しくもドラマチックでもないと描く映画もめずらしかろうと思うのですが。
うん、きっとこの記者さんは観てないんだろうな。

そもそも、上記エントリーは何が言いたいのかよく分からない内容ですが、要するに、”あらゆるこの国を取り巻く指標や、政策、そして、エンターテインメントも、「戦争」を指しているように、私には見える。戦争の時代が始まる――そういうように私には読める”ということなのでしょう。
個人のブログならともかく、いちおうメディアを標榜する場でフィーリングを語られても・・・みたいな思いは受けつつ。

この手の「警鐘を鳴らす」人々に何が足りないのかというと、やはり、「ただ警鐘を鳴らすだけ」というか「嘆くだけ」「懸念するだけ」なところでしょう。
「なにが始まるのか?なにが終わるのか?参加し、見ておこう」って、何に参加して何を見ておくおつもりなのか。
そこが本題だろうに、そこを書かないと意味ないじゃないですか。ねぇ?

ということで、もし仮に時代が戦争へと向かおうとしているなら、その時われわれはどうあるべきかについて考えてみよう。

戦争を防ぐには、国策レベルで言えば、戦わずして勝つことでしょう。
戦争は外交の一手段であり、外交とは国益を守りあるいは拡大するために行われるものであるとすれば、戦争以外の方法でそれが満たされればいいわけです。

となると、まずは外交力を高めること。
戦争という事態に至る前に外交で問題の解決を図る、その力があれば戦争は避けられる。
また、戦争は外交の一手段であるという役割り認識に乏しい軍隊は、どうしたって肥大化・暴走しちゃうので、そのへんは徹底的に教育するべしと思う。

次に、経済力で圧倒することでしょう。
金は剣よりも強し。
お金で解決できれば、武力を用いる必要はない。

そして最後に、ビジョン。
力ばかりが巨大になると、やっぱりどうしても、「もっともっと」と自国の国益ばかりを追い求めて敵を作りがちになってしまいます。
短期的近視眼的に国益を考えるのではなく、長期的遠視眼的に国益を考える、そういうビジョンが求めらます。
周辺国が平和で豊かになることによって自国も豊かになるような、そういう戦略が描けるといいですね。

というわけで、戦争をしないためには、軍事力を強化するために費やすパワーをそういう方向に注ぐべし、という主張をするのがいいのではないでしょうか。
「戦争はよくない。平和がいい」というだけでは、やっぱり一時的に気持ち良くなって終わりだと思うんですよね。
平和を守るというのは、もっと戦略的に取り組まなければいけないような気がします。

「イマジン歌って平和を守ろう」みたいな話より、外交官になって平和を守ろうとか経済人になって平和を守ろうとか、そういうほうが守れそうな気がするんですけどどうでしょうか。
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by kude104 | 2007-04-09 23:12