世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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ニュー速で暇潰しブログ 朝日 「朝鮮学校が北朝鮮と繋がってることは事実だ。が、除外はやはりおかしい。差別する理由はない」

高校無償化法案の目的が、「高等学校等における教育に係る経済的負担の軽減を図り、もって教育の機会均等に寄与する」ことにあるのなら、「北朝鮮とつながりがあるから」といって除外するのはおかしかろうと思う。

とはいえ、予算の都合上、地球上のすべての子どもの教育の機会均等に寄与することはできない。
なので、どうしても、どこかに「適用する」「除外する」の線引きをしなければならない。
問題は、その線引きをどのように行うかだ。
線引きをすることが差別なのではなく、差別的な線引きをしてはいけないと言うことだ。
それで言えば、「朝鮮学校だから」という線引きは、ぼくの印象としては少々差別的に思える。

高校無償化法案の目的には、「誰の」という部分が明示的に書かれていないが、これはおそらく、暗黙的に、「日本国民の」と考えて良いだろう。
であれば、公立だ私立だ朝鮮学校だということではなく、「日本国籍を有する子どもの学費を無償化する」という方向でまとめればよいのではないかと思う。
これだと、議論の焦点が「北朝鮮人差別」ではなく「外国人差別」になる懸念はあるけど、大きな枠として、日本政府(そして日本国民)が費用負担して支援しましょうという対象が日本国民に限られることは、別段おかしなことではない。
日本国憲法の対象が日本国民であるのだから、日本国憲法に基づく「教育の機会均等」が日本国民に対して成されるのは理にかなっているように思う。

心情として朝鮮学校を除外したい気持ちはわかるが、それを行うのに、まんま「朝鮮学校だから」というのでは、あまりに幼稚すぎるだろう。
たとえば、対象を「学校教育法で定める1条校」とするだけで朝鮮学校は外れるんだから。
「それだと中華学校も外れるから」みたいなことは、知らん。
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by kude104 | 2010-03-08 18:36 | 時事・社会

無意識の差別者

今日は映画サービスデーなのに、映画を観に行けなかったなりよキテレツ。

http://anond.hatelabo.jp/20090927053232
『私は、なにも知らないままで人を傷つけるような人間になりたくない。もし差別者の立場を脱する方法があるなら、私はそうしたいし、もし無かったとしても、せめてその差別について理解して、なるべく他人を傷つけないように生きたい』
誰も傷つけずに生きて行くことなどできはしないだろうと思う。
どうしても他人を傷つけたくないなら、人とのかかわりを断って、山中で世捨て人として暮らすほかないだろう。

ぼくも無意識に誰かを傷つけているのだろうけど、正直、気にしてなんていられない。
だって、「無意識」なんだもん。
無意識だから傷つけて良いということではなく、無意識に傷つけることを意識して生活することは無理だということ。
「無意識に傷つけるかもしれない」と意識して生活したとしても、無意識に傷つけることを避けられるわけじゃないから(だって、「無意識」に傷つけるんだから)、結局、「無意識に傷つけたくない」と心がけたところで、それは「心がけ」以上のものにはなりえない。
その心がけでもってより良く生きていけるならいいけど、つらい気持になるだけなら、本末転倒というかむしろ害になってんじゃん、と。

「無意識の差別」は、基本的に、差別される側の問題であるとぼくは考える。
(「差別される側に問題がある」じゃないよ)
差別された人が「それ差別です」と訴えて初めて、「無意識の差別」が意識されるわけで。
意識されてようやく、その「差別」が、差別した側とされた側両方の問題になる。
ぼくが、誰かが、無意識の差別者であるとして、それが意識された時点で誠実な対応ができれば良しと、ぼくは割り切っている。
無意識のうちの差別は、もうしょうがないとして割り切る。

「無意識に差別していることを察しろよ」というのは、まぁ理想なんだけど、現実的じゃないよね。
何度も言うように、無意識なんだから。
「無意識の差別」を訴えることができずに苦しんでいる人がいるというのは、想像するとモヤモヤするけど、やっぱりどうしようもないよなぁ。
意識できたものについては、どうにかしようもあるけど。

誰でも簡単に無意識の差別者になってしまうというということは、きっと、差別というものが特別なものではなく、世の中にごく当たり前にあるものだってことだろう。
このひとはきっと、「当たり前にある」ということがいやで、根絶したいと願い、挫折したのかもしれない。
でも、そんなふうに当たり前にあるものならば、大切なのは「いかにして差別と付き合うか」ということだろうと思う。

それは病気に対するのと似ているかもしれない。
病気を根絶できればいいのだけれど、そうも行かないから、そのつど対処療法を行うしかない。
大きな病気はきちんと手術して治療し、小さな病気は暖かくして栄養取って寝て治すような、そういう付き合い方しかないんじゃなかろうか。

そして、無意識に人を傷つけることを覚悟して、堂々と生きて行くしかないんじゃないだろうか。
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by kude104 | 2009-10-01 23:59
ささやかな楽しみ:美人とブスの周りの対応、反応の違い - livedoor Blog(ブログ)

ほんとにこんな露骨に差別されるものなの?
ぼくのこれまで人生では、あまり見聞きしたことないけどなぁ。

個人的には、そりゃ「恋人候補を探す」場合などでは相手の見た目も大きな要素となるけど、日常生活の一期一会やクラスメイトや仕事仲間などに対しては、べつに見た目などどーでもいいと思うのだけど。
よしんば気にするとしても、それを口や態度に出したりしないでしょ。
どんだけ民度低いねんと。

友だちに見た目の良さなど求めないように、普通、人付き合いに見た目の良さなど求めないでしょと思うのだけど、そうした人たちは

1)友だちであろうと見た目の良し悪しで選ぶ。
2)異性との人付き合いに、常にラブハンティング的な意識がある。

のいずれかなのだろうか。
ちょっと想像できない。

想像できないので、すべてとは言わないけれどいくつかは「単なる被害妄想なのでは?」という気もする。
たとえば、拒否される理由が、見た目ではなく態度であるとか他の何がしかにあるというケースも、あるのではないかな。
なのに、「私は見た目が悪いからだ」と、言うなればそこで思考停止をしてしまって本当の理由に気付こうとしないケースもありそうな気がする。

なんというか、現実をどのように解釈するかに、その人の心が現れるというか。
容姿に対するコンプレックスが彼/彼女の中に「見た目至上主義」的な価値観を作り上げ、それを通して世の中を見るから、多くの事柄が「世間は見た目で差別する」というふうに見えてしまうのではないかな。

もちろん、世間には見た目で差別する人もいるだろう。
見た目のいい人が得をするのも事実だろう。
でも、それはもうしょうがないじゃない。
自分の見た目が残念なことも、しょうがないじゃない。
「しょうがない」って割り切ってしまえば、世界はもっと違ったふうに見えるような気がする。

たとえば、もし見た目で差別されたところで、「こいつ人間としてダメだ」と思えばいいじゃない。
考えようによっては、残念な見た目も、他人の人間性を図るリトマス試験紙として使えるじゃない。
そうして他人を観察していけば、きっと、見た目でどうのこうの判断しない人もけっこうたくさんいるじゃないかと分かるんじゃないかな。

ぼくは世界をそのように見ているのだけど、甘いのかな。
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by kude104 | 2008-11-15 18:34
学校の名簿 男女別は差別? : 岩手 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

「それは差別ではなくて区別だろう」とぼくなんかは思ってしまうけれど、区別を差別と感ずるほどに今まで差別されてきたのかもしれないと思えば、多少同情したくもある。
ま、下手に同情すると、それすら差別と受け取られかねないけどね。

で、いま改めて「男女混合名簿」にすると何か困ったことになるだろうかと考えてみたけれど、うむ、特に何もないような気もする。
一番影響が出そうなのは男女別々に行動するときだろうけど、「男子はこっち。女子はこっち。はい、分れてー」でOKな気がする。
思い返してみれば、うちの高校は「男女混合名簿」だった。
それで特に面倒なことになっていたという記憶はない。

それよりも、「男女混合名簿」のいいところとしては、名簿順に整列するとか席を並べるといったときに、男女入り混じるので、あわよくば自分の前や後ろに女の子が並んで、それでお近づきになれるかも知れない、というのがあるよね!
・・・と、書こうとして気がついた。
待て、あわてるな。これは孔明の罠だ。

下手をすれば、前後左右男ばかりになる可能性もあるのではないか?

「男女別名簿」の場合、名簿順に並ぶ際は、男子の列と女子の列が隣り同士に並ぶというのが基本陣形ではないだろうか。
この場合、少なくとも横にはぼぼ必ず女子がいることになる。
考えてみれば、これって、前後が同性、左右が異性という、最強の布陣ではないか。

このことを発展的に考えると、男女をバランス良く配置するためには、男子と女子を区別して管理したほうが配置がしやすいということが言えるのではないだろうか。
つまり、男女共同参画を推進するためには、男子が男子だけで、女子が女子だけで固まってしまうようなことがあってはならない。
まず第一に、男女の数を均等させること、次に、男子と女子とをバランスよく配置することが大切で、そのためには「男女別名簿」のほうが都合がいい。
──という主張ができるのではないだろうか。

ま、個人的には、「男女混合名簿」だろうが「男女別名簿」だろうが、男女平等にたいして違いはないと思うけどね。
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by kude104 | 2008-10-10 22:51