世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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前回の続き

神様から「決して食べてはならない」と言われていた「善悪の知識の実」を、サタンが操る蛇にそそのかされてアダムとイブが食べてしまったがために、人類は永遠の命を失い、楽園を追放された――という失楽園のエピソード。

なぜ、神様は楽園のど真ん中なんて目立つ位置に禁断の実の成る樹を植えたのか。
なぜ、禁断の実は「善悪の知識の実」だったのか。
なぜ、その実を食べると永遠の命を失い、楽園を追われるのか。
なぜ、神様はサタンの存在を許しているのか。

神様を全知全能であるとするならば、サタンが誕生したときに、「うそ? なんでそんなものが誕生するの?」と不思議がるはずがない。
よって、神様にとってサタンの誕生は、“予定通り”の出来事であったろうと考えられます。
当然、サタンがアダムとイブをそそのかすであろうことも、お見通しだったでしょう。

同じように、アダムとイブが約束を破ったときも、「うそ? あいつらがなんで?」と驚いたり、不思議がったりするはずがない。
神様にとって、アダムとイブが禁断の実を食べるであろうことは、おそらく初めからお見通しだったに違いない。
だいたい、鼻先にニンジンぶら下げて「絶対食べちゃダメ」と言うシチュエーションは、ダチョウ倶楽部のネタじゃなくても、「結局食べちゃう」パターン見え見えじゃないですか。

つまり、まとめるとこうなります。
1.神様にとって、サタンの誕生は予定通りの出来事。
2.サタンがアダムとイブをそそのかすことも分かっていた。
3.結果、アダムとイブが禁断の実を食べることも分かっていた。
4.それなのに、楽園の一番目立つところに禁断の実のなる樹を配置した。

これら一連の行動から読み取れる神様の意図は、素直に考えればこうじゃないでしょうか。
すなわち、神様はアダムとイブが約束を破って禁断の実を食べることを望んでいた――と。
上のすべては、そのためのお膳立てと考えると筋が通る。
禁断の実はアダムとイブが誘惑されやすいよう目立つ場所に配置されなければならないし、アダムとイブをそそのかす存在としてサタンがいなければならない。

ではなぜ、神様はそのように手の込んだことをしたのか。
その答えは、禁断の実が「善悪の知識の実」であったことを考えると推測できる。
つまり、この失楽園のエピソードは、人間が善悪という概念を学ぶためのイベントだったのではないか――というのがぼくの考えです。

罪であったり、してはいけないことであったり、そういうものを学習するときというのは、どういうときか。
まだ何も知らない子供がそれを学ぶのはどういうときか。
それは、怒られたときですよね。
そして、罰を受けたときでしょう。

神様は、人間を“善悪”を知るものとしてお造りになろうとしたのではないか。
善と悪とは表裏一体ですから、善という概念を作るには、悪という概念を作る必要がある。

そして、何が善で何が悪かということを単純に考えた場合、「相手の益になることが善、不利益になることが悪」と言えるのではないでしょうか。
「ひとの喜ぶことをしなさい。困ることをしてはいけません」みたいな。
ところが、楽園を追われる前のアダムとイブというのは、永遠の命を持ち、病気も怪我もせず、食べ物は無尽蔵にある――そういう、言わば無限の世界に住んでいました。
そんな無限の世界において、益不利益という概念は存在しないでしょう。
つまり、無限の世界である楽園においては善も悪も存在しえないのです。
だから、善悪を知ったアダムとイブは永遠の命を失い、楽園を追われ、すなわち有限の世界の住人にならざるを得なかったのではないかと考えます。

さらに考えを進めると、この因果関係は逆と考えるのが正しいように思います。
すなわち、善悪の知識を学習させるために仕方なく楽園を追放したのではなく、楽園を追放するにあたって必然として善悪の知識を学習させた――と。

神様は人間を楽園から地上に送ろうと考えていた。
しかし、地上は有限の世界であるから、送り込むにあたって、善悪の知識を学習させておく必要がある。
そこで、人間を楽園から巣立たせ、しかも同時に善悪の知識を学習させるための一石二鳥の策として、神様が一芝居打ったのではないでしょうか。
それは、たとえるなら、父親が息子を独り立ちさせるために、わざと喧嘩して追い出すようなものです。

なぜ、神様は人間を地上に送ったのかというと、それは繁殖のためではないかと考えます。
繁殖、つまり、子作りですね。
禁断の実を食べて、アダムとイブが、自分たちが裸であることに気付いて急に恥ずかしくなるというくだりがあります。
また、禁断の実をたべた罰として、イブは出産の痛みを負わされるというくだりもある。
おそらく、禁断の実を食べると同時に、アダムとイブに生殖機能が備わったのではないでしょうか。

正確に言えば、アダムとイブに生殖機能を持たせるために、彼らを有限の世界の住人にする必要があったのではないか。

なぜなら、子供を産み育てる――成長するというのは、無限の世界ではありえない現象でしょう。
誕生と消滅は、おそらくセットなんだろうと思います。
老化と成長が同義であるように。

その証拠にというと変ですけど、楽園でのアダムとイブに子供を作る気配はない。
二人が子供をもうけるのは、地上に降りてからですよね。

――というのが、冊子を読んで考えたぼくなりの失楽園の解釈です。
とりあえず、現状ではこれが一番筋の通る解釈かなと思うのですが、どうでしょう。
もちろん、「神様は全知全能ではない」とか「聖書なんて全部ファンタジー」とか、そういう解釈のほうが筋が通るとも言えますが、それを言っちゃあ面白くないので。
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by kude104 | 2007-10-17 23:59
前回の続き
なにやら宗教ブログの香りが漂い始めていないかと心配になってくる第3弾。
ただ、今回は直接冊子の内容とは無関係に、ぼくの勝手な思考ゲームです。

冊子を読んでいて、やはりもっとも興味を引かれるエピソードは、アダムとイブが楽園を追放されたというそれです。
聖書における人類の物語――“罪”と“不幸”と“信仰”と“救済”の物語は、すべてここから始まっているという点から見ても、もっとも重要なエピソードであると言えるでしょう。
(キリスト教的には、イエスの贖罪のほうがより重要度が高いのでしょうけど)

神様から「決して食べてはならない」と言われていた「善悪の知識の実」を、サタンが操る蛇にそそのかされてアダムとイブが食べてしまったがために、人類は永遠の命を失い、楽園を追放された――というこの物語。
ここで、この食べてはならない禁断の実が「善悪の知識の実」というのが興味深いですね。

なぜ、アダムとイブは神様との約束を破って禁断の実を食べてしまったのか?
蛇にそそのかされたとはいえ、普通に考えれば、たかが蛇に言われたくらいで神様から「ダメ、絶対!」と言われているものを食べるだろうか?
――という疑問が生じますよね。

この疑問、こう考えると筋が通るのではないか。

アダムとイブがあっけなく禁断の実を食べてしまったのは、彼らが、それを食べることを禁じられていることは分かっていたけど、その禁を破ることが“悪いこと”だと知らなかったからじゃないだろうか。
なぜなら、彼らは「善悪の知識」を持たないのだから。

ロボットが禁止された行動を取らないのは、それが悪いことだと理解しているからではなく、単にプログラムによって禁止されているからに過ぎません。
ですから、他人にクラックされてプログラムを書き換えられると、躊躇なく禁止されていた行動も取るようになる。
「プログラムでは許可されているけど、これは悪いことだから・・・」とロボットに判断させようと思ったら、少なくとも、ロボットに「善悪の知識」を持たせる必要がありますよね。

つまり、アダムとイブは蛇(を操るサタン)にクラックされて、プログラムを書き換えられてしまったんじゃないだろうか。
善悪の知識がない彼らに、サタンは悪い奴だとか、他人のクラックを許すのは悪いことだといった判断は無理でしょう。

そう考えるとアダムとイブの行動は理解できるのですが、このエピソードにはまだ謎が多くあります。

なぜ神様は、そんな楽園のど真ん中なんて目立つ位置に禁断の実の成る樹を植えたのか。
もっと目立たない場所に植えるとか、神様だったら、初めからそんな樹自体存在させなければいいではないか。

なぜ、禁断の実は「善悪の知識の実」だったのか。

なぜ、その実を食べると永遠の命を失い、楽園を追われるのか。

そもそもなぜ、神様はサタンの存在を許しているのか。
万物が神の創造であり、神が全知全能であるなら、サタンの誕生も、その放置も、神の意思を組んでいると考えるべきではないか。

これらの疑問に対する答えは、次回に。
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by kude104 | 2007-10-15 18:42
前回の続き
めげずに冊子を読み進めているわけですが、遅々として進まん。

読んでいて「話が通じない」感覚を覚える理由がなんとなく分かった気がする。
神の偉大さは聖書によって証明されていると冊子は言う。
で、その聖書に嘘偽りのないことは、神によって保証されているという。
・・・えーと、それって“堂々巡り”じゃないですかね?

「Aさんは嘘ついてないよ。だって、Bさんが証言してるもん」
「じゃ、そのBさんが嘘ついてたらどーすんの?」
「Bさんは嘘つかないよ。だって、Aさんが一番信頼している人だもん」
みたいな。

数学で言えば、あらゆる定理や法則がすべて「神は全知全能として存在する」という公理によって導かれ、証明されている感じ。
彼らにとっては、その公理は真理で疑いを挟む余地はない。
そして、この公理が成り立つと仮定すれば、たしかにすべての数式が矛盾なく成り立つ。
(なにしろ、この公理ってば0の掛け算みたいで、どんな値であっても掛けると0にする強力なパワーを有しているんだもの)

つまり、「神の存在」の公理のもとでは、彼らの論理に破綻はない。
「なにか綻び見つけて論破しちゃおっかなー」と思っていくら読んでも、「神の存在」の公理で説明できてしまう。

でも、この公理を疑うぼくにしてみると、それはなんの説明にもなっていないのと同じです。
では、公理が間違っていることを証明しようと思ってみても、これも難しい。
正しいと証明することもできなければ間違っていると証明することもできないし、そもそも彼らにしてみたら証明する必要すら感じないくらい、それは絶対の真理です。

公理を共有しない者同士がいくら理路整然とお互いの考えを述べたところで、「なに言ってんだ、こいつ」となるのは当然ですよね。
でも、逆に言えば、相手が前提としている公理が分かれば、共感できるかどうかは別にして、思考は理解できる。
自分と違う思考回路の働きを見るのは、それはそれでなかなか面白いです。

ところで、冊子などで引用される聖書にある一節――神の偉大さを証明する記述というのは、「神の偉大さを説いたAさんの言葉を聞いたBさんの言葉」をCさんが編集したもの、じゃないかと思います。
良く知らないけど。
公理を持たないぼくには、そこに伝言ゲームのような不確かさの可能性を感じなくもない。

誰かが嘘をついたり、間違えたり、改竄したり、取捨選択したり、そうする余地は十二分にあり得ましょう。
もしこれが聖書でなければ、たとえば裁判での証拠だとしたら、甚だ心もとないと言わざるを得ないのではないか。
Dさんが無罪である根拠として、Dさんは無罪だというAさんの話を聞いたというBさんの話をまとめたCさんの報告書を採用するようなもので、しかも、AさんもBさんもCさんもDさんの友人であるようなものでしょう。

そして、やたらと「神の偉大さは聖書のこれこれの記述によって証明されているのです」というくだりが出てくるのは、翻って考えると、それだけ証明されなければ疑わしいということでもあるのかな、と思ったりもします。
繰り返し証拠をあげて説明される真理って、なんかスケール小さく感じる。
まぁ、これに関しては、あるいは「すげぇ! ここにも、ここにも、ここにも神の偉大さの証明がある!」ってな感じでテンション上がってしまって、思わずあちこちに書いてしまったということかもしれない。
そういうのは微笑ましくて嫌いじゃない。
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by kude104 | 2007-10-13 14:38
うちにも時々宗教の勧誘の方がいらっしゃるのですが、いつもインターフォン越しとはいえ、一通り話を聞いて冊子をポストに入れておくことを許可しているものですから、「このひと脈ありかも?」と思われたのでしょうか。
今日はいつもより親しげに話をし、そしてポストされた冊子には「関心をお持ちいただければ嬉しいです」的な手書きの一言メッセージが添えてありました。
まぁ、この程度の“接近”はぜんぜん気にしませんが、信仰する気もさらさらないので、無駄足を踏ませて悪いなぁ・・・と思わないでもありません。

とまぁ、せっかく何やら気合いの入った冊子(いつものペラペラのやつより分厚くて200ページ以上もある)をもらったことだし、ちょっくら興味がてら目を通してみるかと思ったのですが、いやはやなかなか一癖ある読み物ですね。

何と言ったらいいのだろう。
読んでいると、微妙に話が通じない感覚を覚えるのですよ。
「この人はいったい何を言っているのだろう?」的な。
微妙に論理的じゃない。
まったくの支離滅裂じゃなくて微妙に歪んでいる感覚が、ずっと読んでいると読み手の平衡感覚を狂わせるような。
そこに繰り返し、「神は絶対です、聖書は絶対です」的な文言が繰り返されるので、なにやら呪術的というか暗示に掛けられているかのような気がしてきます。
これ、心が弱ったときに読むと効くのかも知れないな。
まぁ、初めから斜に構えて読んでいる身には、突っ込みどころ多いなぁといった感じになっちゃうわけだけど。

冊子の冒頭で、「どうして神様は世の悪を取り除いてくれないのだろう?」という疑問を提示し、それに対する答えを述べようとしているのはいいね。
それって、まず誰もが思う疑問だもんね。

冊子答えて曰く――
「それは神の試練です」という人もいるけれどそれは違う。
それが神の試練なら、世の悪が神から出ていることになるから、それはおかしい。
神は試練を与えたりなどしないのです。

この回答はなかなか良い。
たしかに、阿鼻叫喚の地獄絵図のような不幸を“試練”で与える神様ってどうよ?って思ってしまうものね。
だから、試練じゃなくて、もっと別の理由があるのです、と。
その理由とは何かと言うと、冊子答えて曰く――

世の不幸は、人間がサタンにそそのかされて神の支配を拒否したために起こっている。
もちろん、神様は人間の間違いをただちに力でもって正すことはできるけれど、人間が自分でその間違いに気づくように、あえて人間の好きにさせていらっしゃるのです。

・・・そういう解釈は好きよ。
でも、「人間が自分でその間違いに気づくように、あえて」という、それを人は“試練”と呼ぶのではないでしょうか。

神はあえて、人を“自由意思”を持つものとして創造されたのだと冊子は言います。
冊子を読んでいて、ぼくが一番心が奮えたのは、アダムとエバの反逆のくだりです。
「自分たちには支配者としての神は必要ない。何が正しく何が間違っているかを自分たちで決定できる」としてアダムとエバは反逆したという。
なんという愚かで気高い宣言!
「何が正しく何が間違っているかは自分たちで決める」という、言うなれば魂の独立宣言ですよ。
それはたしかにこの世の不幸のすべてを秤にかけるに足る崇高なものかもしれないと思えるじゃないですか。
そのことを尊重するからこそ、神はあえて人間のなすがままに見守り、世の不幸に心を痛めつつもをそのままにしていらっしゃるのではないでしょうか。
喩えるならば、自立すると言って家を出た子供と、それを見守る父親の関係ですね。

そういう解釈であるなら、“試練”も仕方がないと思えます。
その場合、神は未来永劫救ってくれないことになりますが、しょうがない。
人間が自ら自治すると言い出したんですから、神に頼ることなく自治能力を獲得できるように頑張る他ない。
まぁ、ときどき実家からお米が送られてきたりするくらいの援助はあっていいと思いますけど、お父さん・・・みたいな。

しかしながら、冊子のほうでは、人は神の代わりにサタンの支配下に入ったことになっていますから、独立宣言と言うよりは主君換え宣言になっちゃってますね。
で、神様のほうも、いずれ最終的には悪を力で殲滅して、自らの支配を受け入れる人間集めて神の王国を築くおつもりだという話のようで。
このへんがよく分からないんだよなぁ。
それだったら、とっとと悪を殲滅して平和な世界を作ったらいいのに。
でないと、神に反逆するとひどい目に遭うことを知らしめるために今の“試練”があるということになって、初めの言葉と矛盾するんじゃないのかなぁ。

だいたい、諸悪の根源とも言えるサタンですが、これは“神の霊の子”のひとりが自ら悪魔になったという。
サタン誕生の前には悪は存在しなかったわけですから、言うなれば、完全なる善の世界においてすら悪は生まれるということです。
それは、神の全知全能性の矛盾にならないのだろうか。
だとすれば、善良なる人の子を集めて神の王国を築いたとて、そこにも悪は生まれるんじゃないのかなぁ。

――とまぁ、そんなことを思ってしまうわけですが、ただこれは冊子をすべて読んでの感想ではありませんので悪しからず。
適当なところをつまみ読みしただけです。
いちおうまぁ、礼儀として全部きちんと読むつもりですので、これはいわゆるファーストインプレッションとしての感想です。
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by kude104 | 2007-10-11 23:59

被告人は神様です

WIRED VISION / ネブラスカ州議会議員が神を提訴

なかなか面白いジョークですね。
神が有罪となるなら、それはまさに人間を作ってしまったからでしょう。
人間さえ作らなければ、神を訴えるものなどいなかったのに。
人間さえ作らなければ、“殺人”という罪状などなかったのに。

ぼくが思うに、神様の全能性って、せいぜい蟻に対する人間くらいのものだろうと思うよ。
ぼくら人間だって、飼育ケースで飼っている蟻に対しては、まさに神のごとくにふるまうことができる。
生殺与奪は自由自在、大雨洪水日照りに嵐、なんでもござれだ。
でも、その力でもってすべての蟻を幸福にしてやりたいと思ったところで、ちょっと目を離したすきに蟻同士が喧嘩して殺しあうのを止めることはできない。
蟻の一匹が病気にかかって死にそうだとしても、気づくことはできない。

一方、もし仮に、本当にすべての人間を幸福にできる全能の力が神様にあるとすると、紀元後の二千年に限って見ても、神様にその力を使う気がぜんぜんないことは明らかでしょう。
いぢわるなのかどうなのか、もしかすると、幸福の価値観が神様と人間とで大きく違うのかも知れませんね。

いずれにしても、前者だと神様の能力的に、後者だと神様の価値観的に、いくら人間が「救ってくれ」とお願いしたところで、神様が応じてくれるとは思えないわけで。
ですから、世の中の不幸に対して神の責任を問うたところで、意味ないことなんじゃないかなーと思います。

でもでも、神様だってたまーに気まぐれに、一個人の願い事を聴いてくれることがあるかもしれないから、神様にお願いするのを無駄だとは言い切れない。
その場合は、文字通り「人知を尽くして天命を待つ」程度に。
やっぱり、どうせ助けるならがんばってるやつを助けたいじゃない。
神様だって同じだと思うんですよね。
なーんもせずに助けて助けて言ってるだけのやつは、ぼくが神なら、まず助けないし。
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by kude104 | 2007-09-21 22:09
不倒城: 匿名ダイアリーの宗教議論が面白い

ぼくも、宗教は自分だけが信じている分には害はないけど、他人にも広めようとするところが煩わしいなと思う。
ま、それはなにも宗教に限ったことではないのだけど。
自分の価値観を他人に押し付けないというのは、コミュニケーションの基本じゃないでしょうか。

それで言えば、無宗教の人が、宗教を信じている人に対して、宗教を否定する考えを押し付けるのも表裏一体だと思う。
それは、「無宗教」教という宗教を広めようとする布教活動と同じだと思うんですよね。
良い悪いは別にして。

ところで、宗教にも、他人に広めようという気があまりなさそうなものもありますよね。
ぼくが知らないだけかもしれないけど、たとえば「禅宗」とかは、布教活動しているのをあまり見聞きしないです。

で、そのへん、外に広がろうとする宗教とそうでない宗教との違いはなんだろうと考えてみるわけですが、ひとつには、「世界を救う」ことを目的に掲げる宗教は外に広がろうとすると見て良いでしょう。
「自分たちを救うためには世界を変えるしかない」という思想の宗教も同じです。
要するに、世界を変えようとする宗教ですね。
これは当然で、広がらなければ世界を変えられませんから。

次に、ある程度以上の規模で組織的な宗教は、外に広がろうとすると見て良いでしょう。
絶対とは言えませんが、基本的にはそういう傾向になるはず。
なぜなら、組織というものは拡大せずにはいられないからです。
俗っぽい話ですが、組織を運営しようと思ったら金が要ります。
金を集めるには会員(信者)を増やす必要があります。
また、組織というのは、たいていピラミッド構造の階級制になります。
このピラミッドの頭の部分というのは、時間とともに、まず間違いなく肥大化します。
それは人数の増加であったり、権力の強化であったりするわけですが、いずれにしても、それを支えるために裾野を広げる必要が出てくるわけです。

そして最後に、信仰によって得られる快感なり救いなりが、他者との共感や共同作業によってもたらされる構造の宗教というのは、外に広がろうとする。
これは、そういう体験をした信者が、その体験をより多くの人と共感したくなって自分の知り合いなどを誘おうとするからです。

逆に言えば、上記条件を持たない宗教は広まらないでしょう。
広まらないということは、ほぼいずれ消滅するということですから、現存する宗教は多かれ少なかれ外に広がろうとする――すなわち、他人に広めようとすると言えるでしょうね。
それが宗教の性質だと言っても良いんじゃないでしょうか。

組織論で観た場合、宗教活動も企業活動と同じ――と言い切っちゃうと、さすがに語弊があるかな。
でも、単なる企業活動であれば、セガかソニーかニンテンドーかで殺し合いまでしなくて済むけど、敬虔な信者さんからしたら、信仰というのは自分の価値観でありアイデンティティーであり家族であり愛であり幸福であり世界の秩序であるわけで、それを否定されて冷静さを失う気持ちは分からないではない。

だからこそ、禅宗の、自分の内へ内へと潜っていくような信仰(?)の有り方は面白いなぁと思うのです。
他人がどう思おうが全否定されようが、「悟り」が自分の中にある以上、関係ないもんね。
禅宗はたぶん、宗教じゃねぇんだろうなぁ、きっと。
あれはたぶん、哲学でしょうね。
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by kude104 | 2007-06-23 23:59
昨日放送のNHK「その時歴史が動いた」のテーマは島原の乱。
なかなかに切ないお話やったね。

感じたのは、ひとつには、排他的であるというのは回り回って自らに害をなすということ。
番組中に、当時のキリシタンが仏教などの異教徒に攻撃的であったエピソードが紹介されていましたが、当時のキリスト教が融和的であったなら、多少は違ったのかもしれない。

信仰と一揆が結びつくのはなにもキリスト教に限ったことじゃなくて、仏教にだって一向一揆とかありますよね。
それでもキリシタンが根絶やしにされたのは、やはり、その背後にある西欧カトリック教国の脅威というものがあったからでしょう。
たしかに、あのタイミングで幕府がキリスト教を遮断したのはファインプレーだったのではないかという気がします。
でなければ、もしかしたら、日本もキリスト教文化圏になっていたかもしれませんよね。

でも、どうせ強制的なる改宗・弾圧を実行できるだけの力があったのなら、その力をもう少し寛容的な方向に向けて、なんというか「人畜無害なキリスト教なら信仰してもいいよ」という落とし所にはできなかったのだろうかと思わないではありません。
カトリック教国の影響力の極めて弱い、排他攻撃性のない、静かで平和的な日本式キリスト教というものを用意して、あとは力づくでも理屈づくでもいいのでそっちにシフトさせれば良かったんじゃないかなぁ。

いずれにしても、けっきょく民衆はただただその信仰心をいいように利用されただけという図式が見えてきて、切ない。
そして、民衆自身も自分たちの正当化にキリスト教を利用しているように思えて、切ない。
『乱』なので当たり前だけど、信仰があってなお、ものすごい人のエゴとエゴの衝突がそこに見えて切ないですね。
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by kude104 | 2007-01-25 23:59 | テレビ
クリスマスイブだというのに、いつものように惰眠を貪っていたら、突然ピンポーンと訪問者を告げる呼び鈴の音で起こされる。
「こんな朝早くに誰だコンチクショウ(実際にはお昼前でしたが)」と寝起きの不機嫌さで、しぶしぶインターフォンに出ると、聞こえてきたのはなにやら若い女性の声。
「こんにちは、今日はクリスマスイブですね」と、インターフォン越しの女性はさわやかに言う。

「はあ」と答えたものの、寝起きの頭は上手く働かない。
そうか、今日はクリスマスイブだった。
とはいえ、訪ねてくる女性の心当たりもないし、まさかサンタでもあるまい。
などと、短編小説のひとこまのようなことを考えたかどうかは覚えていないけれど、クリスマス、若い女性、というキーワードがぼくの中の何かを刺激したことは確かでした。

そんなぼくの戸惑いにはお構いなしに、女性はさらに続けます。
「クリスマスということで、この機会にぜひイエスのことを知っていただきたいと思いまして──」
ああ、なんだ宗教の勧誘か。
この時点で、ぼくの関心は急速に薄れまして、その後女性が何を言い、ぼくがどう対応したかは覚えていません。
なるほど、クリスマスに勧誘とは筋がとおっていると感心したのは覚えています。

やがて女性は冊子をドアポストに入れて帰って行きました。
ああ、せっかくのクリスマス。
しかも、声は美人声。
どうせなら、ドアを開けて会話でもすればよかった。
もしかしたら、なにかクリスマスっぽいイベントの発生フラグでも立ったかもしれないのにと、ちょっともったいないことをしたような気分になりましたが、何しろこちらは寝起きそのままでしたから、まぁいいやと。
間違って、宗教フラグが立っちゃっても面倒だし。

一瞬ふくらみ掛けたテンションがぺしゃんとしぼんで、しょうがない、もうひと眠りするかと思いつつ、女性が置いて行った冊子を手に取りふと目をやると、そこには力強く「目さめよ!」と書かれてありました。

しょうがないので、二度目はあきらめて、目覚めることにしましたとさ。

そのあとはいつも通りの普通の一日を過ごして、クリスマスイブは終わりました。
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by kude104 | 2006-12-25 22:36
Yahoo!ニュース - 共同通信 - スンニ派標的、40人殺害 イラクで宗派対立激化

シーア派だスンニ派だと言われても、ぼくにはさっぱりピンと来ませんので、ちょっと調べてみました。
──が、なんだか非常にややこしい。

要するに、もともとは派閥争い・跡目争いだったものに、教義の解釈の仕方や血の神聖なんかを自身の正当性の根拠として持ち出したもんだから、今なお続く宗派対立になっちゃった・・・みたいな?
一見しただけでも、ちょっとやそっとじゃ解決しそうにないですね。
相手を否定することが自身の正当性に繋がるんですから。

それにしても、同じ神を信じる者同士でもシーア派だスンニ派だと分かれるんですから、宗教が世界をひとつにすることは無いんじゃないかって思いますねぇ。
どうやら、何事にしても、世界は多様性を認めたほうが安定するようです。

それはそうと。
こういった「武装集団」とやらについて思うのですが、彼らは宗教的な使命感に駆られて行動しているというよりは、むしろ、「敵が居ないと生きられない」ってことなんじゃないだろうか。
「狡兎死して走狗煮らる」じゃないですけど、自分たちが猟犬であるためにウサギを狩っているのではないかと、そんなふうに思えてなりません。
食べるためにウサギを狩るのではなく、ウサギを狩るから猟犬なのでもなく、猟犬であるためにウサギを狩っているのではないか。

たぶん彼ら自身はそんなふうに思ってはいないでしょうけど、「武装集団」という存在の本質が彼らをそうさせるのではないかと思います。
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by kude104 | 2006-07-09 23:59 | 時事・社会