世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

神の善悪、人の善悪

ぼくなりに聖書を眺めていて感じるのは、神様にとっての善悪というのは、とどのつまりは、「自分を信仰するか否か」であるという気がする。

もし神様がいるとして終末の日に人類を救ってくれるなら、救うべき人間と罰するべき人間との選別は、その人が善人であるか悪人であるかによってなされるだろうと考える。
これは多分そうだろう。
で、ならば自分はさほど悪人ではないから、別に神様を信仰していなくったって救われるんじゃねーの?と考えてしまうのだけど、これが大きな勘違いで。
神様にとっての善人悪人の判断基準は、「自分を信仰するか否か」なのだと思う。

ぼくらが一般的に思い描く「善い行い」というものは、神様にしてみれば、神様を信仰し神様の言い付けを守って生活をしていれば、結果的にそうなるだけのものでしかない。
ここのところを、信仰を持たないぼくらは勘違いしてしまう。

通常、「神様の言い付け」はほぼ一般的な道徳基準に重なっているので、神様の善悪観と人間のそれとが同じであるように錯覚してしまう。
だから、たまに神様が異教徒を虐殺したりすると、ハテナ?と思ってしまうのだけど。
神様の善悪観を「自分を信仰するか否か」で理解すると、そうした違和感は解消される。

「異教徒だからといって殺すなんてひどい」と思うのは人間の善悪観。
「異教徒であることが最大の罪」というのが神様の善悪観だ。

そんな絶対君主的な神様、ぼくは好きになれないんだけど、「全力で従えば全力で幸福にしてくれる王様」というものに憧れる気持ちも分からなくはない。
[PR]
by kude104 | 2010-05-23 17:34
【レビュー・書評】現代人はキリスト教を信じられるか―懐疑と信仰のはざまで [著]ピーター・L・バーガー - 書評 - BOOK:asahi.com(朝日新聞社)
とくに著者がこだわるのが、罪のない子供が苦しみ死ぬことである。なぜこのようなことが起こるのか。これは神を信ずるキリスト教徒として、どうしても受け入れることができない現実である。著者は神自身苦しんでいるという学説も紹介しながら、そして「口ごもり」、躊躇(ちゅうちょ)しながらも、信仰を捨てないのであれば最後は神への信頼に賭けるしかない、と述べる。
ぼくは「キリスト教的な神はいない」と思っているのですが、もし仮にキリスト教的な神がいるとして、ではなぜこの世の不幸を放置しているのか?という問いに対する答えは、こうじゃないかと考えます。

人間にとって、自分たちの苦しみや死というものは、ある種絶対的な「不幸」です。
でも、神様にとっての人間の苦しみや死というものは、せいぜい心を痛める程度のものでしかない、と。

これは、神様が薄情だからということではなくて、そもそも神様と人間とでは生きている次元が違うのだから、神様が人間の苦しみを本当の意味で理解できるはずがないと思うのです。

たとえば、人間にとって死が絶対的な恐怖なのは、復活がない(かもしれない)と思っているからじゃないでしょうか。
死んでも必ず復活できると100%信じているなら、死ぬことはそう怖くないと思うんですよね。
セーブしたところからやり直せるなら、人は自分の命をもっと粗末に扱うことができるに違いない。

神様にしてみれば、最終的には、死んだ人間をすべて(と言っても、自分を信仰している者に限るのでしょうけど)復活させるつもりでいるわけです。
自分自身がやることだから、必ずそうするつもりだし、必ずそうなると100%分かっている。

であるならば、神様は人の死というものを「あとで必ず復活できるからね」という視点で観ていることになるし、逆に言うと、そういう視点でしか観られない。
ゆえに、復活できないかもしれないと怯える人の気持ちというものは、頭では分かるかもしれないけれど、心ではきっと分からないに違いないと思うのです。

人の苦しみというものも、おそらく同じように観ているだろうと思います。
なにしろ、神様は永遠を生きています。
人が苦しんでいる時間など、神様にとっては、瞬きする一瞬にも満たないくらいの感覚でしょう。

「死」の場合と同じように、神様にしてみれば、最終的にはすべての人間に永遠の幸せを与えるつもりでいるわけです。
神様にとって、人が今感じている苦しみというものは、この後に訪れる永遠の幸せの前の、ほんの一瞬の「悪夢」程度にしか映らないでしょう。
夢の中でぎゃ!と殺されて目覚めたら、そこは神の王国で、以後なに不自由なく幸せに暮らしましたとさ・・・みたいな。

そう考えれば、神様がこの世の不幸を何が何でも絶対取り除く!と思わないのも頷けるよな、と。
だから、もしも神様がいるとしても、たとえ一生懸命祈ったところで、神様が「この世で」助けてくれるとは思えないですね。
まぁ、気まぐれで助けてくれることはあるかもしれないですけど。
それを当てにして生きて行くわけにはいかんだろうなぁと思います。

それでもなお信仰を持てるかどうかは、結局のところ、幸せな「来世」を神様が与えてくれると信じることができるかどうかじゃないでしょうかね。


・・・最後にちょっと私信ですが。
J君、結婚おめでとう。
この世に神の祝福があるかどうかは分かりませんが、人の祝福はあると思うので、たくさんの人に祝福されて幸せになって欲しいなぁと思います。
[PR]
by kude104 | 2009-09-06 18:53

信仰と宗教

「救われない魂」を、信仰を持たずに救うことが、どういうことなのか分からない - どんなジレンマ

信仰を持たない人間の魂も救われることはあるのだろうか。
おそらく、「ない」だろうと思います。
なぜなら、「魂」が「救われる」ことを願う時点で、それはある種の「信仰」だろうと思うからです。

「魂」という漠然としたものを救うためには、「魂」を定義する「世界観」が必要になります。
そして、それを「救済してくれるもの」を求める時点で、これはもう立派な信仰でしょう。
もし、そうした信仰を微塵も持たない人間ならば、「魂」というものを「救済してほしい」などと、そもそも考えもしないのではないでしょうか。

もしそれが信仰であるなら、救われるためには「納得すること」が必要になるかと思います。
どんな無茶苦茶なロジックでもいい、「そういうものか」と納得することでひとは救われるのだと思います。
逆に言えば、なぜ救われないかというと、納得できないからでしょう。
なぜだか分からない、どうしてだか分からないから、心のもやもやが収まらず、救われない。
それを誰かに「それは、こうだ!」とすぱっと快刀乱麻を断ってもらえれば、「なるほど、そうだったのか!」と心が晴れて救われる。

宗教というものは、そうした「もやもやした信仰」をロジカルに体系化し説明したものであると考えます。
なので、納得できさえすれば、信仰の対象は宗教でなくても構わない。
科学に救われる人もいれば、愛に救われる人もいるでしょう。
そうした人たちは、科学を信仰し、愛を信仰するのでしょう。

「1+1=2」というルールを「そういうもの」として飲み込んで、世の中のあらゆる数式を理解することと、「神」というルールを飲み込んで、世の中のあらゆる事象を理解することと、信仰のレベルとしては、それほど大きな違いがあるとは思えない。
魂の救済を求めて苦しむことも、解けない数式を前に悩むことも、どちらも「解き方」としては同じなのではないでしょうか。
片や公理から定理を導き計算して答えを出し、片や神から教義を導き信仰して答えを出す。
数式を解くのには数学が適していて宗教が適さないように、魂を救済するには宗教が適していて数学は適さないでしょう。
そうした違いはあるけれど、どちらも「世界の成り立ちを説明するための体系」であるのは同じじゃないでしょうか。

そう考えれば、たぶん、信仰を持った人が強いのではなくて、「式の解き方を知っている」ひとが強いのだろうと思います。
信仰だけあってもダメで、それによって問題が解けないと救われない。
その解き方が正しいか間違っているかはどうあれ、本人が「解けた」と思っているならば、心は晴れやかでいられましょう。

解き方は、何度も言うように、宗教である必要はありません。
ですので、冒頭の問いを「宗教を持たない人間の魂も救われることはあるのだろうか」とするならば、それはYESと言えましょう。
YESはキリスト教だけのものではないですよ、と。
[PR]
by kude104 | 2009-05-23 15:54
【家裁GJ】息子への輸血を「宗教上の理由」から拒んだ両親に対し、即日審判で親権を停止:アルファルファモザイク

ぼくも教義を重んじ輸血を拒否して死ぬのはバカらしいと思うくちですが、ここに寄せられているコメントの多くは「偏見」であるように思います。
ぼくもそうですが、コメントを寄せている多くの人も、おそらくその宗教に対してきちんとした知識を持っての発言ではなかろうと思います。
無知な批判は無知な信仰と五十歩百歩ではないかな。

ということで、無知なぼくの素朴な疑問を少々。
だれか答えご存知の方はいらっしゃいませんか?


エホバの人たちが輸血を拒否する理由というのは、たしか、神様が「動物の肉を食べてもいいけど、でも、血の付いた肉は食べちゃダメよ」と仰ったと聖書に書かれているから、だったと思う。
いちおう科学的な理由づけとして、輸血の危険性を挙げたりもしているようだけど、本命は「聖書に書かれているから」だろう。

ま、ぼくが思うに、「血のついた肉を食べちゃダメ」ってのは、たぶん、「肉は生で食べると腹下すぞ」的な生活の知恵じゃないかな。
昔の宗教って、たぶん、そうした生活の知恵や共同体のルールを「神の教え」ということで皆に守らせる役目を持っていたんじゃなかろうかというのがぼくの考え。

それはさておき。
そうは言っても、「血が付いた肉は食べちゃダメ」から「輸血ダメ」までには、えらく飛躍があるように思う。
「血が付いた肉は食べちゃダメ」→「血を食べちゃダメ」→「他人の血を体内に摂取してはダメ」→「輸血ダメ」になるのだろうけどね。
でも、聖書で神が禁止しているのは「血のついた肉を食べちゃダメ」である。
ダメなのは「血のついた肉」であって「血」じゃないし、「輸血」じゃなくて「食べること」だ。

「聖書のどこに神様が輸血を禁じるくだりがありますか? 神様は一切輸血を禁じてなどいないですよね」と問えば、彼らはどうこたえるのだろう。
おそらく、「血が付いた肉は食べちゃダメ」のくだりを持ち出してくるだろうけど、じゃあ、「肉」はなぜ良いのだろうか。
「血のついた肉」というものの主体はどう考えても「肉」にある。
肉は良いとする根拠はなんだろう。
肉を良いとするロジックで、血も良しとできる気がするのだけど。
知識がないので、良く分からん。

もし神様が明確に「輸血ダメ」と言っているなら、分かる。
そんな神様を好きになれるかどうかは別として、神様がそう言っているから従うというのは信仰として分かる。
でも、神様が言ってもいないことを、「血が付いた肉は食べちゃダメ」→「輸血ダメ」と勝手に解釈するのは、神に対する不遜であると考えたりしないのだろうか。

仮に、なるほど聖書に輸血を禁止する記述があるとしよう。
でも、たしかイエスも言われているではないですか。
「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」と。
──などと、ぼくの半端な知識で論じても隙だらけかもしれないけれど。

戒律というのは人のためにあるのであって、人が戒律のためにあるのではない。
「神は愛です」と彼らは言うくらいだから、もし仮に神が輸血を禁じているとしても、生き死にの場面で戒律と人の命のどちらを神様が大切に思われるかといえば、「それはもちろん人の命です」と答えないと嘘でしょ。
たぶん、イエスさんなら「そりゃ人だろ常識で考えてw」って答えるだろう。
人の命より戒律を重んじる神様連れてきて「愛」を語らせるなと言いたい。

それでも、輸血禁止を貫くというのなら。
たとえばどうだろうね、もしものときのために、普段から自分の血をストックしておくというのは。
輸血に使用する血液の保存期間がどれくらいあるのか知らないけど、保存期間と献血(というか自分の血を抜く)量と周期とが釣り合うのならば。
教義的にも「自分の血なら輸血OK」くらいの譲歩はできるんじゃなかろうか。
自分の命をいたわることは、神の愛にもかなうんじゃないかな。

しょせん宗教だって解釈次第で白にも黒にもなるんだから(というと怒られるけど)、できる最大限で信者さんたちがハッピーになれるような解釈をしてあげてほしいものだと思う。
あの時代にそれをしたからこそ、イエスはメシアになれたんだろうと思う。
[PR]
by kude104 | 2009-03-15 23:59 | 時事・社会

それぞれにとっての神様

asahi.com(朝日新聞社):神は多分いない…英国で走る「無神論バス」 - 国際

一口に「神」と言っても、ひとそれぞれに思い浮かべる「神」は違うのだろうと思う。

たとえば同じキリスト教でもさまざまな宗派があって、宗派ごとに信仰に大なり小なりの違いがある。
ある宗派では神様はこうだと信じていても、別の宗派では違うと信じているかもしれない。
それは厳密にいえば、同じ神様を信仰しているように見えて、実は完全に一致した神様を信仰しているわけではない。
つまり、異なる「神」を信仰しているのだと言えなくもない。
反対に、ある宗教と別の宗教とは、一見異なる神様を信仰しているように見えて、実は同じ「神」を信仰しているということもあるだろう。

あるひとは「神などいない」と言いつつも、「運」を信じているかもしれない。
別の人は「運」のことを「神」として信仰しているかもしれない。
あるひとは、それを「偶然」と呼ぶかもしれない。
あるひとは、それを「宇宙人の仕業」と呼ぶかもしれない。

聖書に書かれた神は、かつて実際にいたかもしれないが、今はもういなくなっちゃったかもしれない。
いや、じつは今もいるけれど、人類を救うつもりは失せたのかもしれない。
いやいや、じつは聖書に書かれた神はいるのだけど、聖書自体が神の嘘で、実際は全知全能などではないのかもしれない。
本当は、神がサタンで、サタンが神なのかもしれない。

ぼくにとっては、神様がいようがいまいが、あまり関係ない。
たとえ神様がいるとしても、明示的にぼくの人生に介入してきていない(介入してきたとしても、それが神の仕業であると分からない)以上、いないのと同じです。
とはいえ、いないと証明できるわけではないので、いるかもしれない。

神様がいるからよい行いをしようとも思わないし、いないから悪い行いをしてもよいとも思わない。
神様に祈らないと救われないというなら、別に救われなくてもいいし。
死後の復活は魅力的だけど、復活の条件として信仰を強要されるんだったら、べつに復活できなくてもいいやと思うし。
もし神様が愛に満ちた存在なら、信じていなくても救うだろう。
救う救わないの基準が「自分を信仰すること」なんて神様は、そもそも信仰する気にならないし。

その一方で、神様を信仰することでよりよく生きられるのであれば、信仰すればいいと思う。
ぼくには今のところ神様は必要ないけど、心の支えや生活の糧として必要な人もいるだろう。
そういうひとから神様を奪うこともなかろうと思う。
[PR]
by kude104 | 2009-01-25 18:44
エホバの証人と、いわゆる二世と、背教者と。

『人間が人間を支配してもうまくいかんから
 人間の支配権は神に戻し、神が支配する世界で人類繁栄しよーぜっていうことになっている』

ということは、「神の支配なしでも、人間は幸せに暮らしていける」と証明されればサタンの勝ちなのだから、ぼくがサタンなら、せっせと人間を助ける。
もし、この世の災いや悪や不幸がサタンの仕業だとしたら、サタンって馬鹿なのね。
神の正しさの証明に自ら協力してどうする。

人間が神の支配からの独立を宣言して数千年かな。
ぼくの目には、まだ完全からは程遠いけれど、でも少しずつ世の中はより良いものになっているように映ります。
だって、数百年~数千年前と今の時代を比べたら、だんぜん今の時代のほうがましでしょ。
「人間は神の支配なしでは幸せになれない」と決めつけるのは、まだ早いのではないか。
聖書は失敗すること前提だからね、そこは気に入らないな。
だって、失敗することが前提なら、この世の中を少しでもより良いものにしようとすることが、無意味になってしまうじゃないか。
無駄な努力をせず、とっとと諦めて神にすがったほうが賢いということになる。

もし仮に力及ばず人類が滅んでしまったとしても、やっぱり人間は神の支配なしには幸せになれないのだとしても、それでもいい。
神の支配を拒否して挑んだ人間の精神や好し、と僕なんかは思ってしまいます。
「我がしもべになれば、永遠の命と幸福を与えよう」と言われたとき、Yesと答えるか、Noと答えるか。
ぼくは、Noと答えるやつを応援する。

神様だってさ、べつに自分の支配のもとじゃなくたって、人類が幸福であればそれで嬉しく思ってくれるんじゃないかなぁ。
「俺の支配下じゃないなら、失敗しろ」なんてセコイこと思わんでしょ。
ぼくなら、むしろ、「よくやった。さすが我が創造物」と誉めてあげるけどね。
聖書にも、「神様は人間を信頼して自治を任せてくださったのです。だから頑張ってより良い世の中を作りましょう」って書くけどね。

いずれにしても、信者さんもそうでない人も背教者も、みんな幸せになれるといいね。
[PR]
by kude104 | 2008-07-24 22:28
だいたい、聖書なんて長い年月にわたって人間が書いて人間が取捨選択してきた文章の集合体なんだから、そりゃあ矛盾や破綻があって当然なわけで。
それを、「聖書には一字一句の間違いもない」とするから無理が生じる。

キリスト教が誕生したときに、旧約聖書をリファインしておけばよかったのにと思う。
そうすれば、もうちょっと無理なく神を語れただろうに。
まぁ、誕生時のキリスト教はユダヤ教の一派という位置づけなので、現実問題リファインなんて無理なんだけど、せっかくのチャンスだったのに惜しいことをした。

イスラム教については詳しく知らないのだけど、もしかしたら、ある程度のリファインに成功しているのかもしれない。
よく知らないけど、旧約聖書や福音書なんかを継承しつつも、「それらには間違いも含まれているので、正しくはコーランを参照のこと」という位置づけじゃなかったかしら。

いずれにしても、時代が変わり生活様式が変わり社会の常識や道徳基準が変わることで、教義も時代に即さなくなってくる。
そうなると、生活を教義に合わせるか、教義を生活に合わせるか、あるいは教義を捨てるか、いずれかを選択しなければならない。

多くは解釈を変えることでどうにか教義を生活に合わせているようだけど、いずれ限界が来るか、継ぎ接ぎだらけで見られたものじゃなくなるだろう。
「いっそ新たに一から作り直そう」という機運は、いずれ出てくると思うけどなぁ。
イスラム教が誕生してからだって、もう1400年にもなる。
そろそろ、次の世界宗教が出てきてもおかしくないと思うんだけど。
ある種、近代社会の政治・経済・科学の思想が、「新たな宗教」の位置づけを占めていたのかな。
[PR]
by kude104 | 2008-05-19 21:36
F速VIP(・ω・)y-~ たまに来るエホバの女勧誘員を家に連れ込んでヤっちゃ駄目?

宗教を信じる「無知」と、宗教を信じない「下衆」と、どっちがましかと言えば、前者だな。

うちにも宗教の勧誘の人が来るけど、話をしてると結構面白いよ。
べつに「特定の宗教を信仰している」というだけで、いたって普通の人だけどなぁ。
宗教を信仰している人と、信仰していない人とが、お互いにお互いを尊重すればいいだけのことじゃないかと思うのだけど。
無理に信仰を押し付けようとする人と、無理に信仰を否定しようとする人と、どっちも同じ穴の狢だろうに。

たしかに、聖書には論理的に見れば様々な矛盾や破綻があって、聖書に立脚する教えも当然そうした矛盾を引きずっているのだけど、そのことを指摘されて泣いたり動揺したり怒ったりするような信者なんて、たいしたことはない。
そういう指摘して相手が答えられないのを見て楽しむのは、まぁ、趣味が悪いねとしか言いようがない。
本物の信者は、たぶん、世界中のすべての人が神を否定し、神の不在が科学的に証明されたとしても、それでも神を信じるだろう。

なぜなら、信じることに、本来、論理性は不要だから。
彼ら信者にとって、教えを論理的に説明することは手段であって目的ではない。

たとえば、親しい人を亡くして悲嘆に暮れている人に、人間の感情はただの電気信号で、死ねば肉体はただの物質となって朽ち果て消滅するだけだと論理的に説明してなんになる。
それよりは、「あなたの親しい人は天国で幸せに暮らしています」という非論理的な説明のほうが、宗教としては正しい。

そして「科学」にしたところで、たとえば、宇宙はビックバンによって無から生まれたという。
これを論理的に説明できる人って、いったいどれくらいいるのだろう。
ぼくは正直よく分からない。
だけど、「宇宙はビックバンによって無から生まれた」という話を信じているわけで、これってつまり、「宇宙は神様が作った」という話を信じているのといったい何が違うのか。

あるいは、公理とは 「証明する必要のない、明らかに自明な法則」だという。
信者の人たちにとって、「神」とは言わば公理なのではないだろうか。
ならば、科学の公理に疑問を抱いたことのない人が、宗教の公理に疑問を抱いたことのない人を笑うのは滑稽じゃないだろうか。

ぼくは宗教よりも科学を信じているわけだけど、科学にしたところで突き詰めれば「信じる」というレベルの話だと思うわけで。
理想的には、物質的なところでは科学を信じて、精神的なところでは宗教を信じる、そうしたハイブリッドな人というのが一番安定していそうな気がする。
[PR]
by kude104 | 2008-05-16 23:21

宗教の勧誘の人

久々に「ポストされた宗教冊子を読んでみた」の続きでも書いてみようか。
実は、年を越えても、勧誘の人との交流はまだ続いています。
ついには聖書そのものをもらうまでに至りました。
タダであんなのくれちゃうんだから、気前いいよね。
・・・これってやっぱり、順調に捕り込まれているのかなぁ。

とはいえ、話し相手は、初めに勧誘に来た人から別の人に代わっています。
言わば、2代目。
最初の人は女性で、今の人は男性なので、こっちとしてはちょっとがっかりというか。
やっぱ、どうせ会話するなら男よりも女のほうが多少なりとも気分的に楽しいじゃない。

交代の理由として、「男性のお宅に、たびたび女性が訪問して誤解されて、ご迷惑をおかけしてもいけませんから」などと言われましたが、本当かなぁ。
いつもインターフォン越しで会話していたので、顔も知らないくらいでしたから、「変なことに気を使うなぁ」と思ったものです。
でもまぁ、悪い宗教なら、そこは敢えて男性には女性の勧誘員を充てて、いわゆるハニートラップを仕掛けてくることも考えられるので、それをしなかったという点は評価してもよいかと。

たぶん、ぼくがいつもあれこれ疑問を投げかけるので、あの女性では手に負えなくて交代したんじゃないかと思うのだけど、それは考え過ぎかな。
交代したとき、「よし、1面のボスを倒して、次、2面のボスが出てきた」などと思ってしまったのは秘密です。

ただ、交代してやってきたこの男性も、今のところ、さほど強くないんだよなぁ。
前の女性とあまりレベルが違わないように感じるので、やっぱり「1面のボスを倒して、2面のボスが出てきた」わけではないのだろうか。

ぼくは別に宗教信じている人をバカにするつもりは全然なくて、「強い弱い」「レベルが高い低い」というのは、単純に論理的な説明能力が高いか低いかということです。
ぼくの疑問に対して、その宗教内のロジックでいいので論理的に答えを返してくれると「なるほど!」と思えるのだけど。
信仰なんてものは最終的には信じるか信じないかに行きつくので、そこは別に構わない。
ただ、せめてぼくみたいな素人が思いつく程度の疑問くらいは、理論武装していろよと思う次第です。

どうも、物心ついたときから信仰しているので、そういう疑問があるということを考えたことすらない、ということみたいだけど。
うーん、勧誘員として派遣するにあたって、教団としてそのあたりの勉強会とかしないのだろうか。
まぁ、そもそもぼくみたいに、きちんと冊子やら聖書やらを読んで、その上で質問する人など滅多にいないんだろうけどさ。

あるいは、敢えてレベルの低い様を装い、ぼくをいい気にさせて油断させておいて捕り込む作戦だとしたら、見事だけど。
気が付いたらやばい状況に陥っていた、なんてことになりはしないかと、ちょっとだけ不安もあるけど、この先どういう展開になるのか楽しみです。
[PR]
by kude104 | 2008-02-17 23:38
前回からだいぶ日が空いてしまいました。
冊子のほうはしばらく前に読み終わっていて、それで一段落して興味が失せたというか飽きたというか・・・。

冊子に書かれている内容について総じての感想を述べるなら、ひとつ。
よく、「信じる者は救われる」と言いますが、宗教と言うのは、初めは「信じる者は救われる」から始まるのですが、それがやがて「信じない者は救われない」に変質していくのではないか――というのが、ぼくの印象です。
このふたつは一見表裏一体に見えて、実はそうではない。
両者は、目的とするところが違う。

「信じる者は救われる」という言葉が目的とするのは、人を「救う」ことです。
一方、「信じない者は救われない」という言葉は、つまり何を言いたいのかと言うと、「だから神様を信じろ」ということですよね。
つまり、前者は救済が主で信仰が従なのに対して、後者は信仰が主で救済が従になっています。

どんな宗教も、初めは苦しんでいる人々を救いたいというところからスタートする。
でも、現実的な解決方法で苦しみを救えればいいのだけど、多くの場合それは無理で、結果的に物理的な救済ではなく精神的な救済という手を採らざるを得ない。
それには、神様を語るのが一番です。
そうして始まった信仰が宗教になって組織を持つようになると、教団の維持みたいなものが目的化してくる。
そうすると、救うことよりも勧誘が教団にとってはより重要な目的になるので、「信じる者は救われる」が「信じない者は救われない」になっていくわけだ。

「信じても信じなくてもいずれにしても救われる宗教」なんてものがもしあれば、たいていの人は「じゃあ、信じなくてもいいや」となる。
当然、信者は増えない。
信者が増えないと教団として影響力を発揮できず、教えを広めることもできなければ、やがて消滅するだけとなるでしょう。
それじゃ困るから、「信じるとこんないいことがありますよ」「信じないと不幸になりますよ」と言って信者を集めざるを得なくなる。

だから、宗教には、すべての人は救えない。
宗教が救えるのは信者だけ、ということになる。
それが宗教というものの限界だと思う次第です。
[PR]
by kude104 | 2007-11-18 15:45