世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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asahi.com(朝日新聞社):小学校に「学級委員長」不在の鳥取県、20年ぶり復活へ - 教育

ん?
一読して「平等の意味をはき違えているんじゃなかろうか」と思ったのだけど、よく読んでみると、ここで言っている「学級委員長」は、ぼくの思っている「学級委員長」とは違う存在なのだろうか。

昭和40年代ごろまでは勉強ができる子などを先生が指名して決める形が全国的に多かった。それが、「民主的な教育」が唱えられた昭和50年代以降、クラスのみんなに役割を経験させようという考え方が広まったという。

立候補を募ったり、輪番制で回したりといったやり方が進む中で「学級内のヒエラルキーが薄まり、新聞係、生き物係といったその他の担当と『同格』になる学校が増えた」
という記述を逆算すると、ここで言う「学級委員長」とは、立候補を募ったり、輪番制で回したりといったやりをせず、勉強ができる子などを先生が指名して決める、他の担当とは別格の役職ということになるね。
・・・うん、そりゃ問題あるかもしれんね。

『運動会の徒競走で、児童の能力にあわせてコース内に「近道」を作ってゴール付近で接戦になるように調整する』というのも、一読すると、なにやらエセ平等主義のように読めるけど、もしかしたらパラリンピックで障害の程度に合わせてハンデを付けるがごとく、個々の生徒の能力に合わせたハンデを設定しているということなのかもしれない。

たしかに、重要なのは足の速さを競うことではなく、子どもたちが自分の持てる力の精一杯で頑張ることにあるのだから、運動能力の優れた子供は優れた子供なりに、運動能力の優れない子供は優れない子供なりに、全力を競い合うルール設定は教育的に悪くないように思う。

実際のところがどうなのか分からないですけど。
一読して「平等の意味をはき違えているんじゃなかろうか」と思ったけれど、よくよく考えてみれば、実際のところはどうなのか分からないよなぁと思った、というお話です。
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by kude104 | 2009-02-10 17:59
asahi.com:「生きていくのが嫌に」 愛媛・自殺生徒の遺書全容判明 - 社会

こういうニュースを目にするたびに思うのですが、学校でいじめられてつらいのなら、学校へ行くのなんかやめちまえばいいのに。
どうして、生きていくのをやめる前に、学校へ行くのをやめられないのだろうか。

よく、子供にとって学校が世界のすべてだと言うけれど、それが良くない。
大人がもっと世界を広げてあげなければいけない。

いじめ根絶への取り組みはたしかに必要だけれども、いじめはそう簡単には無くならないという前提の元で、今いじめられている子供の逃げ場を作ってあげる取り組みも必要ではなかろうか。
それは単に、「死ぬくらいなら、学校なんて行かなくてもいい」と言ってあげるだけでいい。
学校行かなくったって死にゃしないよと。

まず親がそう言ってあげて欲しい。
「うちの子、いじめられてるかも・・・?」と感じたときに、「いいよいいよ。べつに学校なんか行かなくったって死にゃしないよ」と言ってあげて欲しい。
そうして、まず逃げ場を確保してあげることがすごく大事だと思います。
間違っても、「がんばって学校行きなさい。いじめられないように努力しなさい」なんてふうに、退路を断っちゃだめです。

はっきりいって、担任に相談しても、いじめは無くなりませんから。
いじめをやめさせるには、結局は、いじめられているほうが変わるしかないと思う。
理不尽なようですが、相手を改造するより、自分を改造するほうが簡単ですから。

単純な発想ですが、武術を身につけるのが一番手っ取り早いんじゃないでしょうか。
自分の強さに対する自信というのは、立ち振るまいにも影響を及ぼすものです。
それに、いじめってのは弱いものいじめですから、強くなれば収まりますよ。
学校休んで1年間ほど修行すれば、かなり強くなれるんじゃないですかね。

学校側としては立場上「来なくて良いです」とは言えないでしょうから、親なり世間なりが言ってあげましょう。
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by kude104 | 2006-08-27 00:01 | 時事・社会