世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

タグ:マスコミ ( 4 ) タグの人気記事

民主党嫌いの正体: 大石英司の代替空港

ぼくの印象としては、ネット上の「民主党嫌い」のベースは、アンチマスコミにあるのではないかという気がします。
もしマスコミがこぞって自民党支持の論調を展開すれば、今度は逆に反自民が増えるだろう、と。

というのも、ネット上で何事か意見を発しようという場合、「私もそう思う」という賛成意見より、「私はそうは思わない」という反対意見のほうが書きたくなるから。
賛成意見というのは、たいてい「私もそう思う」という一言で済んでしまうので、わざわざ書くほどじゃないなと思ってしまうのに対して、反対意見というのは、「それは違う。なぜなら──」と書き甲斐があります。

政治の話題というのは、新聞やテレビなど、マスコミの発信する情報をネタ元とするケースが多い。
そのネタ元が民主党寄りなら、対するネットは反民主に傾く・・・と、まずはそうした理由が考えられるのではないでしょうか。

だいたい、マスコミの論調に敢然と異を唱えるというのは、正直、気持ちがいい。
マスコミの嘘を暴く、マスコミの無能を世に知らしめる──みたいなことは、やっぱりわくわくしますよね。
知的興奮はもとより、ある種の正義感や使命感のようなものが満たされますし。

マスコミに政府批判が多いのも、ネットにマスコミ批判が多いのも、マスコミのネタ元が政府なのに対して、ネットのネタ元がマスコミなだけで、構図としては同じなんじゃないかなぁ。
ぼくは単にそういうレベルの話だと思っています。


付け加えるなら、民主党が「お粗末」というのも、もちろんあるでしょうね。
上の理由に加えて、民主党自体がネタの宝庫というか、いじり甲斐があるというか。

民主党という組織は、政治的な能力もそれはそれとして、イメージ戦略に関してまるでセンスがないように感じてしまいます。
ネット、民主、イメージ戦略といえば思い出すのは、ニコニコ動画。
小沢さんや鳩山さんが出てきて炎上して評判下げて、いったいなにがしたかったんだ、と。
無垢といえば無垢なのかもしれませんが・・・。
[PR]
by kude104 | 2009-05-19 22:14 | PC&ネット

報道とは道に報いること

同じ空間を共有できていたのか--秋葉原事件の撮影について:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan

たぶん、事件現場を撮影するといったことは、基本「不謹慎」なのだろうと思う。
報道だろうがなんだろうが、自分が、身内が、被害に遭っている映像を全国のお茶の間に流されて気持ちのいいはずがない。

でも、じゃあ、不謹慎だから禁止しましょうということができるだろうか。
大衆はきっと、「いま、そこで、何が起きているか、我々は知る権利がある!」と叫ぶだろう。
本心は野次馬根性だとしても、でもたしかに、万に一つくらいは「知るべき情報を隠蔽される」危険性がないとは言えない。

そうしたジレンマのようなものを解決する装置として、マスコミがあるのかも知れない。
禁止はできないが、かといって、みんなが自由に好き勝手やっては困る。
だったら、代表して執り行う機関を設けてそこに任せましょう、と。

マスコミとは何か、報道とは何かと考えたとき、ひとつには「自らの活動について、社会的な責任を負う」ということじゃないかと思う。
マスコミは、いちおう法人として継続的に活動しているので、あまりモラルから逸脱する行動はとれないという自制が働く。
一方、ネット上の一般人の活動には、そうした自制は期待できない。

これを極端に言ってしまえば、訴えられる覚悟の有る無しだ。
ネット上の個人の活動であっても、本名晒して「問題があれば訴えて下さい」という覚悟があれば、それは立派な報道だと思う。
(報道の内容はともかくとして、意識として)
目的はどうあれ、不謹慎なことをするのだから、それが報じる側のフェアというものじゃないだろうか。

そしてもうひとつには、やはり「公共性」というものじゃないかと思う。
公共性の有無は、べつに、それを伝える人数の多い少ないで決まるものじゃないだろう。
公共性があるとは、それが多くの人にって有益であるということだ。
「有益である」というところが大切。
無益なものを大多数にばらまいても、公共性があるとは言わまい。

姿勢としては、責任を負うということ。
内容としては、公共性があるということ。
それが報道というものじゃないかと思う。

それにしても、「報道と野次馬の境界線が消失し、一般人の情報発信とマスメディアの取材・報道の境界線がなくなっている」と言われてしまうマスコミって・・・。
マスコミの能力と社会的意義の低下を如実に物語っているね。
たしかに、ワイドショーなんか添加物と着色料でギトギトのケーキのようで食べる気しないもんなぁ。

一方、ネットもあんまり無節操に不謹慎ばら撒いてると、いずれ規制されちゃうだろうから気をつけろ。
参加者が増えたときの劣化の激しさは、たぶんマスコミの比じゃないだろうから。
[PR]
by kude104 | 2008-06-14 22:50 | PC&ネット
今日は昭和の日の振り替え休日と言うことで。
ちょうどいま、東京裁判でA級戦犯として処刑されたただ一人の文官広田弘毅を主人公にした城山三郎著の「落日燃ゆ」という小説を読んでいるところでして、読みながら当時の日本について感じたことなどを昭和の日にちなんで書いてみようと思います。

日本が戦争に突入してしまった一番の要因はなんだろうと考えると、象徴的に言えば、関東軍の暴走だろうと思います。
政府はおろか、軍上層部のコントロールすら利かなくなっちゃってるもん。
指揮系統の乱れた軍隊ほどろくなものはないですね。
あれはどこかのタイミングで、独断専行した指揮官を毅然と処罰して、中央によるコントロールを回復させておくべきだったと思えてなりません。
たらればですが、もし当時、軍のコントロールがきちんと利いていたなら、もしかしたら太平洋戦争は回避できたかもしれないですよね。

ではなぜ軍の暴走を看過したのか?ですが、これはやはり結局のところ、世間の空気がそれを許したと言わざるを得ない気がします。
もちろん、テロリズムを背景に軍部の力が強くなっていた時代だったというのもありますが、そういう状況を作り出した一因として「世間の空気」というものがあろうと思いますし、また、そのテロリズム自体をどこか容認するような「世間の空気」もあったのではないかと思います。
「日本は武力でガンガン進出するぜ!」みたいな暴走軍人の主張を、行け行けで支持した国民が少なからずいたのではないかと思うのですよ。
その指示があったからこそ、軍も暴走できたのではないかと。

では、そういう世間の空気がなぜ作られたのか?と考えていくと、結局は国民がバカだったからというところに行きついてしまいます。
正確に言えば、「無知だったから」でしょうか。
正しい知識と情報がなければ、正しい判断はできません。
当時の国際状況などを正しく理解できていた人間が、いったいどれだけいたでしょうか。
無知なれば、人間、威勢のいいほうに心惹かれるもんです。

では、世論を形成する一般大衆が、その知識と情報をどこから手に入れるかと言うと、マスコミからですよね。
つまり、最終的には、すべての問題はマスコミに行きつくのではないかと思う次第です。

このことは、なにも昭和の時代に限ったことではありません。
今だって同じです。
いかにして国民に正しい知識と情報を持たせるかが、国家が道を誤らないための最重要課題となるでしょう。
この場合、一般大衆に向かって、「お前ら、自ら努力して正しい知識と情報を手に入れろよ」と要求するのは現実的ではありません。
それを期待して、その期待の上に社会システムを構築するのは、かなりリスキーだと思います。
Push型、すなわち、向こうから送られてくる情報で、なんとか正しい知識と情報を一般大衆に与えてやるほかない。
となると、その役割を担うのはマスコミですよね。

そういった使命を持った、公器としてのマスコミというものは、どうあればいいのか。
どうすれば、実現できるか。
それがこれからの時代、重要なカギになる気がするなぁ。
[PR]
by kude104 | 2007-04-30 22:33
天皇A級戦犯発言報道に関する簡易まとめサイト

これを見ていると、「群集の叡智」とはこういうことかと思わずにはいられません。
むろん、今回のマスコミ報道を「誤報」「捏造」だとするに至ったこれら「群集の叡智」が正しいかどうかは、現段階では判断できません。
が、しかし。
名も無き人々が寄って集って報道の検証作業を進めていく、そのエネルギーとスピードのすさまじさを目の当たりにすると、これは確かに新しい時代が到来したのだと実感させられます。

このパワーには、マスコミといえども敵わない。
もし、今回の報道が誤報あるいは捏造だとすれば、そのことを象徴する出来事だと思います。
捏造した人間は、時代が変わったことに気づかず、これまでどおり上手く騙せると思っている。
報じたマスコミは、時代が変わったことに気づかず、これまでどおり自分たちの報道がそのまま事実として受け入れられると思っている。
この鈍感さは致命傷になりかねない。
1回「群集の叡智」に嘘を暴かれるたびに、そのぶんマスコミの権威は薄れ、やがてきれいさっぱり消え去ってしまうことになぜ気づかん。

かつては為政者が独占しコントロールしていた情報をマスコミが手にして、今、マスコミが独占しコントロールしていた情報を大衆が手にしようとしている。
「群集の叡智」が手放しで素晴らしいものだとは思わないけど、でも、テクノロジーの進歩によって情報のコントロール権が拡散するというのは、おそらく歴史の流れなんだろうと思います。
善い悪いは別にして。
それがようやくネットの出現によって、ここまで来たかという感じですね。

それにしても、最終的に正しいか間違っているかはともかく、間違いの疑いがあるような報道でさえ、昔のぼくらは疑問の余地なくそのまま事実として受け取っていたんだなぁと思うと・・・。
[PR]
by kude104 | 2006-07-22 22:51 | PC&ネット