世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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神の善悪、人の善悪

ぼくなりに聖書を眺めていて感じるのは、神様にとっての善悪というのは、とどのつまりは、「自分を信仰するか否か」であるという気がする。

もし神様がいるとして終末の日に人類を救ってくれるなら、救うべき人間と罰するべき人間との選別は、その人が善人であるか悪人であるかによってなされるだろうと考える。
これは多分そうだろう。
で、ならば自分はさほど悪人ではないから、別に神様を信仰していなくったって救われるんじゃねーの?と考えてしまうのだけど、これが大きな勘違いで。
神様にとっての善人悪人の判断基準は、「自分を信仰するか否か」なのだと思う。

ぼくらが一般的に思い描く「善い行い」というものは、神様にしてみれば、神様を信仰し神様の言い付けを守って生活をしていれば、結果的にそうなるだけのものでしかない。
ここのところを、信仰を持たないぼくらは勘違いしてしまう。

通常、「神様の言い付け」はほぼ一般的な道徳基準に重なっているので、神様の善悪観と人間のそれとが同じであるように錯覚してしまう。
だから、たまに神様が異教徒を虐殺したりすると、ハテナ?と思ってしまうのだけど。
神様の善悪観を「自分を信仰するか否か」で理解すると、そうした違和感は解消される。

「異教徒だからといって殺すなんてひどい」と思うのは人間の善悪観。
「異教徒であることが最大の罪」というのが神様の善悪観だ。

そんな絶対君主的な神様、ぼくは好きになれないんだけど、「全力で従えば全力で幸福にしてくれる王様」というものに憧れる気持ちも分からなくはない。
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by kude104 | 2010-05-23 17:34
【レビュー・書評】現代人はキリスト教を信じられるか―懐疑と信仰のはざまで [著]ピーター・L・バーガー - 書評 - BOOK:asahi.com(朝日新聞社)
とくに著者がこだわるのが、罪のない子供が苦しみ死ぬことである。なぜこのようなことが起こるのか。これは神を信ずるキリスト教徒として、どうしても受け入れることができない現実である。著者は神自身苦しんでいるという学説も紹介しながら、そして「口ごもり」、躊躇(ちゅうちょ)しながらも、信仰を捨てないのであれば最後は神への信頼に賭けるしかない、と述べる。
ぼくは「キリスト教的な神はいない」と思っているのですが、もし仮にキリスト教的な神がいるとして、ではなぜこの世の不幸を放置しているのか?という問いに対する答えは、こうじゃないかと考えます。

人間にとって、自分たちの苦しみや死というものは、ある種絶対的な「不幸」です。
でも、神様にとっての人間の苦しみや死というものは、せいぜい心を痛める程度のものでしかない、と。

これは、神様が薄情だからということではなくて、そもそも神様と人間とでは生きている次元が違うのだから、神様が人間の苦しみを本当の意味で理解できるはずがないと思うのです。

たとえば、人間にとって死が絶対的な恐怖なのは、復活がない(かもしれない)と思っているからじゃないでしょうか。
死んでも必ず復活できると100%信じているなら、死ぬことはそう怖くないと思うんですよね。
セーブしたところからやり直せるなら、人は自分の命をもっと粗末に扱うことができるに違いない。

神様にしてみれば、最終的には、死んだ人間をすべて(と言っても、自分を信仰している者に限るのでしょうけど)復活させるつもりでいるわけです。
自分自身がやることだから、必ずそうするつもりだし、必ずそうなると100%分かっている。

であるならば、神様は人の死というものを「あとで必ず復活できるからね」という視点で観ていることになるし、逆に言うと、そういう視点でしか観られない。
ゆえに、復活できないかもしれないと怯える人の気持ちというものは、頭では分かるかもしれないけれど、心ではきっと分からないに違いないと思うのです。

人の苦しみというものも、おそらく同じように観ているだろうと思います。
なにしろ、神様は永遠を生きています。
人が苦しんでいる時間など、神様にとっては、瞬きする一瞬にも満たないくらいの感覚でしょう。

「死」の場合と同じように、神様にしてみれば、最終的にはすべての人間に永遠の幸せを与えるつもりでいるわけです。
神様にとって、人が今感じている苦しみというものは、この後に訪れる永遠の幸せの前の、ほんの一瞬の「悪夢」程度にしか映らないでしょう。
夢の中でぎゃ!と殺されて目覚めたら、そこは神の王国で、以後なに不自由なく幸せに暮らしましたとさ・・・みたいな。

そう考えれば、神様がこの世の不幸を何が何でも絶対取り除く!と思わないのも頷けるよな、と。
だから、もしも神様がいるとしても、たとえ一生懸命祈ったところで、神様が「この世で」助けてくれるとは思えないですね。
まぁ、気まぐれで助けてくれることはあるかもしれないですけど。
それを当てにして生きて行くわけにはいかんだろうなぁと思います。

それでもなお信仰を持てるかどうかは、結局のところ、幸せな「来世」を神様が与えてくれると信じることができるかどうかじゃないでしょうかね。


・・・最後にちょっと私信ですが。
J君、結婚おめでとう。
この世に神の祝福があるかどうかは分かりませんが、人の祝福はあると思うので、たくさんの人に祝福されて幸せになって欲しいなぁと思います。
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by kude104 | 2009-09-06 18:53

神のまにまに

asahi.com(朝日新聞社):「大虐殺に沈黙した法王」は聖人か 聖職者が論争 - 国際

『ピオ12世は、虐殺を見て見ぬふりをしたとしてユダヤ人団体から批判されてきた』

えー、それを言うなら、「一番見て見ぬふりをしてきたのは神様です」という返しはどうだろう。
神様が助けなかったのに、俺がしゃしゃり出て助けるのおかしくね?みたいな。
すべてのことは、神のまにまに。

聖人の定義というか資格についてはよく知らないのだけど、信仰の深さで測るなら、この「何もしなかった」というのは「その資格あり」と言えなくもないような気がしなくもない。
唯一絶対なる神を信仰すればするほど、この世で起きるすべてのことは神の御意志というか。
神が管理運営する世界を、ちっぽけなる人間が己の力でどうこうできるなどと思うのは、思い上がりも甚だしい──という、ある種の虚無感のようなところに到達しても不思議ではない。
人間にできることなど、ただ祈ることだけですよ、と。

でなければ、たとえば、ホロコーストをスルーするのはダメだけど、アフリカの飢餓や虐殺等々をスルーするのはOKなのかと問われたらどーすんの?
結局、自分たちを基準に測るしかないのだから、カトリックの測る世界にユダヤ教が口出しするなという話だと思うんですよね。

だって、そもそも、ユダヤ教ってイエスをキリストと認めていなかったんじゃなかったかしら。
聖人がどうとかいうレベルの話じゃない気がする。
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by kude104 | 2008-10-25 22:52

原罪と贖罪

クリスマスも近いということで、キリスト教の話でも。
「宗教の勧誘冊子を読んでみた」という話を以前にしましたが、その後も、そのときの勧誘の方が定期的にいらっしゃって、ちょっとした交流が続いています。
まぁ、交流といってもインターフォン越しに5分10分話をするだけですが。

基本的に、ぼくが「冊子にはこう書いてありましたけど、この論旨だとこういうケースも考えられるんで、これだけでは聖書の正しさを証明したことにはならないんじゃないですかねぇ」などと感想を述べて、あちらの方が「聖書にはこんなふうにも書いてあるんですよ」と答えて、「へー、そうですか」で終わる感じ。
だいたい、話は噛み合わない。
でも、べつにこちらとしては向こうを説得したり論争したりするつもりはないし、向こうも今のところこちらを説得したり勧誘したりする気もないらしいので、問題ないというか。
言わば、世間話みたいな感じで、それなりに楽しいっちゃあ楽しい。
ま、そう思っている間にジワリジワリと外堀を埋められていて、気が付いたら絡めとられている――なんてことにならないよう、気をつけなければなりませんが。
とはいえ、冊子を読めば読むほど入信する気が失せる内容のようにぼくには思えるんだけど、あれ読んで入信する気になる人っているのかなぁ・・・。

ま、そんなこんなでそれなりにキリスト教について考える機会があるので、今日はいま気になっていることをつらつらと書いてみようかと思います。

キリスト教では、「原罪」と「贖罪」という考え方がけっこう重要らしい。
アダムとイブが神様の言いつけを破って禁断の実を食べたために、その子孫たる人類は生まれながらに「罪」を負うようになったという。
これが「原罪」。
で、イエスが十字架に架けられたことで人類の罪はあがなわれたというのが、「贖罪」。
なんでも、神様が人類を救済するために愛するひとり息子(イエス)をこの世に遣わし、その死でもって人類の罪のあがないとした、ということらしい。

この話がどうも腑に落ちない。
なんでこれで罪があがなわれるんだろう。

AさんがBさんに対して罪を犯した、と。
Aさんが人類、Bさんが神様ですね。
神様が愛する一人息子をこの世に遣わしたというのは、たとえるなら、Bさんの大切なものをAさんに渡した、という感じでしょうか。
で、それをAさんが壊してしまうわけですね。
神様の一人息子を人類は磔にして殺してしまうんですから。
で、それによって、BさんはAさんの罪を赦すわけです。

これ、加害者たるAさんはちっとも反省していないし、償い的な行為もしていないですよね。
むしろBさんのほうがAさんに対して賠償している形になっている気がする。
なので、神の一人息子であるイエスの死をあがないだとするなら、それは「神」の罪のあがないなんじゃないか・・・と思ってしまいます。
つまり、神様が、人類に対して負わせてしまった「原罪」をイエスの命を差し出すことで「贖罪」したんじゃないのかなぁ。
赦すのは人、赦されるのは神ってこと。

――もちろん、そんな解釈がキリスト教で成り立つはずもないですが。
こーゆーことを考えて勧誘の人に話したりするのは、けっこう楽しいです。
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by kude104 | 2007-12-23 23:59