世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

タグ:カイジ ( 3 ) タグの人気記事

ざわざわ・・・

今日は映画サービスデーということで、「カイジ ~人生逆転ゲーム~」を観てきました。
原作の漫画が好きなので、どんなふうになっているか興味深々というか、ほとんど「ネタ」のつもりで行ったのですが、いやあ、予想以上に楽しめました。

これを、原作を知らない人が観ると、どういった感想になるのかは分かりません。
よくありがちな「原作を知らないとストーリーなどが理解できなくて楽しめない」ってことはないと思いますが。
ただ、原作を知っている人間の場合、楽しむポイントが違っちゃうから。
原作が、キャラクターにしろ、セリフにしろ、とにかくインパクトの強い内容なので、映画でそれが再現されていると、それだけで非常に面白く感じてしまうんですよね。
ストーリーの面白さとかは正直どーでもいいというか、そんなところに評価ポイントを置いていない。
だって、原作のストーリーを2時間そこらで完ぺきにやれるはず無いもの。

その点で言えば、カイジ役を演じる藤原竜也さんが、素晴らしかった。
見た目が漫画のカイジと全然違うのでどうかなぁと思っていたのだけど、見事に「ダメ人間」のオーラがひしひし出ていたものね。
班長役の松尾スズキさんなどは、ほんと漫画そのままのイメージで、見ているだけで面白くてしょうがない。
それと、俳優さんは分からないのですが、三好もほんとそっくりで笑っちゃう。
利根川役の香川照之さんも、漫画のイメージとはぜんぜん違いますが、意外と利根川役がハマっていて良かったです。

遠藤役は・・・俳優さんがどうこうというより、原作通り男で良かったんじゃないかなぁ。
なんで女に変えたんだろう。
たしかに遠藤も男だと、男率が異様に高いというか、メインキャラ全員男になるけど。
一人くらい女にしても、焼け石に水でしょ。
「利根川との確執」みたいなものを盛り込むための変更かとは思いますが、ここは「男と女の確執」にするより、「男と男の確執」にしたほうが生々しくて良かったと思うけどな。

いちおう、ストーリー的なものを漫画と照らして語ると、ギャンブルは限定ジャンケン、鉄骨渡り、Eカードの3つ。
これを2時間に収めているので、かなり端折ってます。
限定ジャンケンなんて、漫画だと2時間の勝負だったかな、それが映画だと30分になっているし。
Eカードも漫画だと12戦あるのが、3戦になっているし。
これだけ変えて、あの二転三転の勝負をいったいどう描くの?というところは、興味深々に楽しめました。
そりゃ漫画と比べるとまるでスカスカだけど、でもそれなりに上手くやっていたと思います。
原作ファンとしては初めから3部作構成で、1作でひとつのギャンブルを漫画通りきっちりやって欲しいと思ってしまいますが、映画としてはあれくらいでちょうどいいんだろうなぁ。

この3つのギャンブルの中では、ぼくは鉄骨渡りが一番好きなんですが、映画でもこれが一番の見せ場になっていたように思います。
鉄骨渡りだけは、2時間まるまる鉄骨渡りでも十分成立しそうな気がするなぁ。
他はニヤニヤ笑いながら見ていたけれど、石田さんの「矜持」のところは、映画でも泣きそうになったもんね。

といった感じで。
「カイジ」の映像化を楽しむという視点では大いに楽しめました。
大満足です。
[PR]
by kude104 | 2009-12-01 23:59 | 映画

ぼくはここにいるよ

インターネット時代の「孤独」 - 琥珀色の戯言

『世界』が増えれば、それだけ『孤独』も増えるのだろう。

『孤独の数値化』というのはあれですね。
スカウターがなくてもヤムチャが弱いことは分かるけど、『戦闘力』として数値化されることで、“どれだけ弱いか”が明白になるということですね。

『孤独』の話で、ぼくには思いだす漫画がふたつあって。

ひとつは、ぼくの心のバイブルとも言える『ぼのぼの』。
「理由はないけど寂しくなるときがある」というテーマの回がありまして。
どういうときに寂しくなる?とか、どうして寂しくなるのか?と、ぼのぼのたちは考えます。
「どうして寂しくなるのか?」という問いに、アライグマくんはこう答えます。
「自分はひとりなんだということを思い出すからさ。
 ともだちと楽しく遊んでても、親といっしょにめしを食ったりしてても、
 自分はひとりだっていうことを思い出すからさ」
一方、アナグマくんは、「別にオレ、さびしいとか感じたことがない」と言います。
「だって、みんなひとりだろ」と。

もうひとつは、ここでもたびたび登場する『カイジ』。
鉄骨渡りの回で、人というのは結局孤独なのだと作者は語る。
心は理解されない。誰にも伝わらない。
ひとは理解や愛情を求めて、求めて求めて求め続けて、孤独のまま死んでいくのだと。
でも、と作者は続ける。
どんなに言葉を発したところで、きっと理解してもらえないとしても、それでも言葉を発し続けようと。
なぜなら、確かに伝わるものがひとつだけあるから。
それは、ここにいて、言葉を発している者の存在。
その儚い点滅だけは伝わるから――と。

ブログを書くということも、もしかしたら、「ぼくはここにいるよ」という存在の点滅なのかも知れないね。
それ以上でも、それ以下でもないのかもしれない。
[PR]
by kude104 | 2008-07-12 22:51 | PC&ネット
My Life Between Silicon Valley and Japan - サバイバルって当たり前のことなんじゃないの

「サバイバル」って言葉にざわざわするのは、「死」をイメージさせるからだろうね。
「○○しないと死んじゃうぞ、生き残れないぞ」と。
なので、「サバイバル」という言葉に拒否反応を起こす人の多くは、本能的に、自分が「サバイバルできない」タイプの人間だと自覚している人なのでしょう。
カイジで言えば、石田さんだ。

「サバイバル」と聞いて奮い立つ人間と、臆して動けなくなる人間と。
奮い立つ人間から見れば臆して動けない人間は馬鹿にしか見えないというか、「ビビってたって死ぬだけなのに、なんで前に進まないんだろう?」と不思議でしょうがないんだろう。
鉄骨の上を歩かされてるんだから、前に進まなきゃいずれ落ちて死ぬのは当たり前のことじゃないかと。
まったくもって、その通り。

サバイバルできない人間が死んでしまうのはしょうがない。
それが自然界の掟だから。

それは本当にその通りだと思うのだけど、でもぼくらは人間だから。
願わくば、サバイバル能力に長けた強者は、獲った獲物のいくばくかをサバイバルできない弱者のために分け与えてやってくれないものかと思うのです。
サバイバルできない弱者でも生きていける世の中を強者が作ってこその人間社会じゃないでしょうかね。
自分一人生き残るためのサバイバルなら、それはケモノのサバイバルになってしまう。

たとえるなら、自分が起業というサバイバルに挑むなら、それは自分の事業で社会を豊かにし、より多くの従業員を養うためのものであって欲しい。

そういうサバイバルを掲げれば、無用なざわざわを招かずに済むんじゃないでしょうか。
これなら、もしサバイバルできないタイプの人間は、サバイバルできそうな人間を応援することで生き残れる――気がするでしょう?

「誰が生き残るか」ではなく「みんなで生き残ろう」という呼び掛けのほうが、メッセージとしては届くんじゃないかという気がします。
[PR]
by kude104 | 2007-06-17 23:30