世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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バナナマン日村がマジ切れ、「俺は傷ついている」という悲痛な叫び - 無農薬有機お笑いブログ
バナナマンのラジオの件について、自分なりに考察する。 - 無農薬有機お笑いブログ

「お笑い」と「いじめ」の関係はよく言われることだけど。
ぼくとしては、結局、「笑わせるのはいいけど、笑われるのはイヤだ」というところに尽きるのではないかなぁと思う。
まぁこれにしたって、「ここまでが笑わせる」「ここからは笑われる」と区別できはしないのだけど。
最終的には、本人の気持ち次第ということになるね。

上記の日村さんの例で言えば、事前にこういうのをやりますよという打ち合わせがあれば、気持ち的には「よーし、それをネタに笑わせてやる」という姿勢で臨めるのだろう。
でも、いきなり不意打ちのようにネタにされては、ただ笑われるだけになってしまう、と。

ここで、もし瞬発的な対応能力の持ち主であれば、不意打ちのネタに対しても瞬時に「それをネタに笑わせてやる」という姿勢に持っていけるのだろう。
でも、日村さんは、ちょっとそういうタイプではないように思う。
反射的なリアクションで笑いをとるタイプじゃなさそうに見えるので。

それをもって、日村さんの能力不足であるとか芸人としての姿勢を責めるのは酷だ。
バナナマンといえば、基本コントだよね。
日村さんの能力が、仮にコントに特化したものだとしてもそれでいいし、日村さんが「俺はコントがやりたくて芸人になったんだ。だから、こういう笑われ役はイヤだ」と思っていたとしても、それはそれでプロの心構えだと思える。

また、「それをラジオで言うのはどうか?」「(笑いとして)面白くない」といった意見も、たぶん当てはまらないんじゃないかと思う。
ぼくは聴いていないから知らないけど、この番組はこういう回もありな番組なんじゃないかな、たぶん。
これがテレビの普通のお笑い番組での出来事であったら、「放送事故」だと思うけど。

むしろ、一緒に仕事している人たちは、そうした日村さんの性格やら能力やらを理解して番組作りをするべきなんじゃないだろうか。
日村さんの「叫び」も、「俺を理解してよ!」という叫びだろう。
一回こっきりの仕事相手がしたことなら、たぶん黙ってビンタされたに違いない。

バナナマンと言えば、深夜にやっている「バナナ炎」は好きで観ているのだけど、あれなんか「いじめ」はなくたって「笑い」は作れるといういい例だと思うけどな。
ホームグラウンドの番組で無理に日村さんの嫌がることやらなくても、バナナマンの笑いはあんな感じでいいんじゃないかと思う。
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by kude104 | 2009-12-14 23:26
どうして逃げないの? - 過ぎ去ろうとしない過去

「いじめを苦に自殺」といったニュースを目にするたびに、「死ぬくらいなら逃げればいいじゃん」と思うぼくですが、このエントリーを読んでちょっと考えを改めたというか。

「死ぬくらいなら逃げろ」というのは正しいアドバイスだと思うのだけど、それによって「いじめ」が解決するわけじゃないという当たり前のことを、ふと忘れてしまいそうになるのね。
逃げることでとりあえずの「死」は回避されるけれど、死が回避されればめでたしめでたしという話ではない。
本当に重要なのは、「逃げたあと、どうするか」です。
逃げるという選択肢は、そのあとに態勢の建て直しがあってこそ、有効な策と言えるのではないでしょうか。
なのに、ぼくら傍観者たちは、死が回避されたところでめでたしめでたしで「この話は終わり」とばかりに処理してしまっているような気がする。

「逃げたあとのアフターケアも考えて」という話をしようというのではない。
「いじめ」があったとき、その対処というのは誰がどう考えたって、いじめた人間に対する「裁き」だよなぁと、そう思うわけです。
言うなれば、正義が執行されること。
いじめた人間がきちんと裁かれ、学校に秩序が回復すれば、いじめられた人間は自殺することも不登校になることもないのではないか。

「それが出来れば苦労はない」という話であることは分かっています。
それが期待できないから、とりあえず「逃げろ」という話であるということも。

ただ、なんというかなぁ、「とりあえずやられているほうが対処しろ」という考え方が当たり前になってしまうのは、やっぱりまずい気がするのですよ。
ネットのことで言えば、「嫌ならコメント欄を閉じればいい」「嫌ならアクセス制限かければいい」「嫌なら別のブログに移ればいい」などなど、けっこうよく目にしますけど。
そういう物言いを見るにつれ、なんかモヤモヤしていたんですが、ようやく自分のモヤモヤの理由が分かりました。
つまり、「迷惑被っているほうが折れなきゃいけないなんて、おかしいだろ」ってことだ。
いじめているほうがそのままで、いじめられているほうが逃げるにせよ、態度を改めるにせよ、自分の生き方変えなきゃいけないのはおかしいよね。
そんなのは理不尽だ。
ましてや、いじめる側まで「逃げればいいじゃん」などと言うようになったら、おしまいです。
「逃げろ」と言うことで、そんな雰囲気づくりに加担してしまってはいないかと自らを省みる次第です。

「逃げろ」と言うとき、一番かっこいいのは、「ここは俺が何とかするから」ですよね。
「お前を逃がして、俺が敵と闘うぜ」というヒロイックな「逃げろ」ならカッコイイ。

それが無理なら、「逃げろ」は、逃げて態勢を立て直せという意味合いで使うべきでしょう。
そうなると、「逃げるのは簡単でしょ」というニュアンスでは使えない。
戦略が違うだけで、「闘え」というのと同じことだから。

そうでなければ、残る「逃げろ」は、「負け犬は去れ」ということだと思う。
相手を慮って言っているつもりでいても、何もないただの「逃げろ」は、意味合いとしては「負け犬は去れ」と同じなんじゃないかな。

いずれにしても、いじめっ子への非難が主で、いじめられっ子の避難が従であるべきで、それを踏まえての「逃げろ」でなければならぬと、今後は意識しようと思います。
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by kude104 | 2008-04-09 16:08
ソフトバンク:携帯電話CMに「いじめ助長」の抗議相次ぐ-今日の話題:MSN毎日インタラクティブ

いやいやいや、それはいくらなんでも被害妄想が過ぎるでしょうよ。
あのCMに対する不快感は、単純に脚本の拙さ(友達同士という設定のわりに、会話の内容が友達を感じさせない)によるものであって、それを「いじめを助長する」とかいって非難しちゃうと、ポイントがずれちゃうでしょ。
批判する時に、より大きな問題にすり替えるのは良くないと思うんですよね。
虎の威を借るキツネじゃないけど、いじめを助長するって非難しときゃ相手がビビるだろ、みたいな感じがしていやらしい。

だいたいさ、CMごときで、いじめは助長されませんって。
CMにそれだけの影響力があれば、スポンサーうはうはだって。

たしかに、いじめのシチュエーションに「あ、そっか。○○じゃないんだー(ケケケ、知ってて言ってんだよバーカ)」みたいに利用されることはあるかもしれない。
でもそれは、まずいじめが先にあって、そのいじめ方のひとつにあのCMを真似るという因果関係でしょう。
助長するも何も、まずいじめありきです。
あのCMを葬れば、いじめ削減に少しは貢献できるかしらなんて思っているとしたら、実におめでたい。

しかしまぁ、こうした人々の反応を見て改めてあのCMを思い返してみると、びっくりするくらい無神経に作られていることに気が付きます。

まず、「多数派対一人」という構図がよくない。
しかも、孤立している人物に「キミちゃん」という個性を与え、多数派には「その他大勢」という言わば集団属性を与えている点は致命的です。
これだと、必然的に主人公は名前を与えられたキミちゃんになります。
視聴者の感情移入も、当然キミちゃんですよね。
そのキミちゃんが集団の中で孤立しているというこの構図は、視聴者自身の「自分が集団の中で孤立する恐怖」を喚起してしまいます。

このキミちゃんがソフトバンクユーザという設定だったら、視聴者の恐怖感はソフトバンクへの応援の気持ちになったかもしれません。
でも、このCMにおけるソフトバンクは、キミちゃんを孤立させている集団の立ち位置です。
ほんとバカじゃねーのって思いますよね。
主人公の敵側に自分を設定してどうする。
そりゃ、あのCMを見た人がソフトバンクに対して「なんかムカツク」と思うのも当然だわ。
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by kude104 | 2006-12-26 23:46 | テレビ
自殺予告手紙:「生きていくのがつらい」……手紙全文-今日の話題:MSN毎日インタラクティブ

これはさすがにキツイなぁ。

「自殺予告の手紙が文科相宛てに送られてきた」という“出来事”を伝えるニュースでは、正直ね、「いやらしいなぁ」という感想だったんですよね。
自殺の予告を、文科相宛てに送るというある種の計算高さが、不快に思えたのです。

でも、こうして実際に手紙の文面を読むと、計算高さよりもむしろ“幼さ”を感じる。
小学生かな、これ。
幼いながらも立派に怨念篭ってて、なんというか、悲しい手紙やねぇ。
これ読んじゃうと、さすがに不快感よりも憐れみのほうが先に立つわ。

アンカテ(Uncategorizable Blog) - 人権を失ったまま生き続けても、そんな命に意味はない。

ぼくはそうは思わない。
もし仮に人権が命より重いとしても、自殺すれば人権が回復されるわけでは有るまい。
だったら、自殺した時点で、それはただの敗北ではないか。

もし、本当に人権が命より重いと考えるなら、“正しい”行動は、自分の人権を守るために迫害者を亡き者にすることだろう。
これならちゃんと人権が回復されるので、勝利と言える。
むろん、社会的には人権は命より重くはないので、その行為は正当化されず、犯罪として罰せられますけどね。

そもそも、「助けてくれない、何もしてくれない」って、それはまぁその通りなんでしょうけど、世の中ってそういうものだから。
大人になったら、もっと誰も助けてくれないよ。
だから、自分の身は自分で守るしかない。

その点では、今回の「手紙を送る」という作戦は発想としてはかなりいいけど、如何せん詰めが甘いというか、たぶん作戦のつもりでやっているわけじゃないだろう。
結果オーライでどうにかなればラッキーだけど、さてどうなることやら。

それにしても、いつも不思議でしょうがないんだけど、どうして学校へ行かないという闘い方を選ばないのかなぁ。
世間からドロップアウトすることは、自殺するより辛いことかねぇ。

自殺は勝利じゃないから。
敗者として死んで行くだけだから。
それでもいいってんのなら、何も言うことはない。
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by kude104 | 2006-11-08 23:59 | 時事・社会
Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <いじめ自殺>文科省の統計は「実態反映せず」 安倍首相

「いじめをなくそう」「いじめゼロな学校が素晴らしい」と、そういう評価基準が間違っているのではないかと思います。
ないほうが評価されるとなれば、当然、グレーゾーンのいじめは「ない」に分類されるし、「ある」ものを「ない」と言い包めるようなこともさせてしまうでしょう。
組織って、そういうもんやん?

なので、発想を転換してはどうだろう。

つまり、「いじめがより多く報告された学校が素晴らしい」とするわけ。
なぜなら、それは本来学校にばれないように行われるいじめを、それだけ多く発見したと言うことになるからです。
いじめ0件と報告しようものなら、「1件のいじめも見つけられないなんて、ひどい学校だ」と思われちゃうくらいの認識になれば面白い。

ただし、発見時のいじめの進行状況というものを重要視します。
この進行状況が初期の段階で発見するほど評価が高いものとします。
たとえば、いじめの初期段階で発見するほど得点を高くし、進行するほど得点を低くします。
自殺に至ってから気付くなんてのは最悪ですね。
それでも1点はあげよう。でなければ、隠蔽に繋がるから。

この計算で行けば、初期段階のいじめを多く発見するほど高得点に繋がります。
これで全国の学校の得点を計算し、「いじめ発見実績」とでも名づけて順位付けすれば面白いんじゃないでしょうか。
全国の学校が奮っていじめ発見に努め、ちょっとしたいじめでもいじめとして報告するようになるでしょうから。

もちろん、このままではいろいろ穴があるので、実用にはもっと練り上げる必要がありますが、発想の方向性としては悪くないと思うんですよね。
数値目標を、「減らす」のではなく「増やす」方向に設定するのって。

数字上「いじめ0件」な社会って、きっとどこか歪んでいると見るべきでしょう。
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by kude104 | 2006-10-31 23:59 | 時事・社会
Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 会見迷走、いじめの有無で二転三転…岐阜・中2自殺

「自殺につながるようないじめはなかった」って、現に、いじめを理由に挙げて自殺しとるからね。
客観的に見てどうかはともかく、当人にとっては、自殺につながるようないじめはあったんでしょう。
たしかに、その主張がウソかホントかモウソウかは分からない。
でも、「なかった」と言いきっちゃうのは、自殺した生徒に対して「あなたは嘘をついている」「あなたは被害妄想が激しい」と言っているのと同じでしょう。
余程の確信があるならともかく、人のこの世で最後の言葉を、軽々しく否定してよいものでは無かろうて。

むろん、客観的に見て本当に「自殺につながるようないじめはなかった」のなら、いじめていたとされる生徒は濡れ衣ってことになるから、その子のためにもきちんと「なかった」と言うべきでしょう。
なんでもかんでも自殺した側の主張を鵜呑みにしろと言うのではない。

要するに、事実関係が明らかでない状況では、あったともなかったとも言ってはならないのです。
二転三転するなんてのは、サイアクです。

事実関係が明らかでない段階での学校側のコメントとしては、「いじめがあったのか無かったのか、あったとすればどのようなものだったのか。それはこれからきちんと調査します。いずれにしても、自分はいじめられていたと感じていた○○さんの苦悩に、適切な対応ができなくて申し訳ありません。二度とこのようなことが起こらないよう、教師一同生徒全員で、何が出来るか考えて行きたいと思います」といったあたりが妥当ではないかと思います。
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by kude104 | 2006-10-30 23:01
福岡中2自殺 いじめ集団1年前からしつこく 死後「せいせいした」- 北海道新聞

また、自殺後も「せいせいした」「別にあいつがおらんでも、何も変わらんもんね」「おれ、のろわれるかもしれん」などと校内で友人に話したほか、十三日の通夜の席では、笑いながらひつぎの中を何度ものぞき込む姿も目撃されている。
だから、死ぬことは復讐にはならんのだよ。

──とはいえ、「通夜の席で笑いながらひつぎの中を何度ものぞき込む」って、まじで?
本当にそんなことしたの?
さすがにそれはないやろう、と思ってしまうくらい、ひどい。

並みのいじめっ子なら、そのように大人の多くいる場では、少なくとも表面上は殊勝な態度をとるだろうに、なにそのふてぶてしさは。
真性のバカか、あるいは、常日頃からそういう振る舞いが許されてきた人間かだ。

記事からは、その場にいたであろう大人から諌められた様子がうかがえない。
もし、そんな姿を自殺した子の親族が見ていたら、普通ぶっ飛ばすよね。
あるいは、こいつらの親がその場にいたなら、ぶっ飛ばして叱って詫びねばならんでしょ。
学校の先生が見ていたとしても、注意しなければならない。
お坊さんがいたら、説教のひとつもしなくちゃいけない。

おそらく、こいつらは今まで大なり小なり、こういったことを見逃されてきたんだろうと思う。
「先生がいじめていたので、自分たちもいじめていいんだと思いました」なんて言ってるみたいですが、何をか言わんや。
笑いながらひつぎをのぞき込む神経は、そんな善悪判断のレベルじゃないって。

社会のあるところにいじめはあると言いますが、どうすればいじめは無くせるかなぁ。
固定的な人間関係がいじめを産むと考えるなら、クラスというものを流動的にすればいいのかもしれない。
大学のように、学校には講義を受けに来るだけで、空き時間はそれぞれ自由ばらばらに行動すれば、「いじめるほど親しくならない」のではないか。
ただ、好い方向にも親しくならないけど。
それに、高校まではやはりある程度、集団生活を学ぶ場としての側面は必要だろうしね。

とりあえず、「いじめ」という言葉を変えてみるとかどうかな。
「いじめ」ってなんだか軽いイメージがあって、どうもシマリスくんの顔が浮かんでしまう。
売春を援助交際とか、窃盗を万引きというと深刻さが薄れるように、言葉のイメージって大切だと思うのですよ。

・・・と思って考えてみたけど、なかなかぴったりの言葉が見つからないね。
強いて言えば「迫害」が近いかなぁと思うのだけど、どうかなぁ。
「度重なる迫害を受け自殺」と言えば、ちょっと重い感じになりません?
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by kude104 | 2006-10-22 22:42 | 時事・社会

いじめをなくすために

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 福岡、中2自殺 変わらぬ隠蔽体質 心の痛み共感できない学校

担任によるイジメのケースはともかくとして、学校がイジメを隠蔽しようとする理由のひとつに、世間があまりにも学校に責任を追わせすぎるというのがあるのではないか。

たしかに、学校は自殺した生徒を救えなかった。
でも、保護者も救えなかった。
同級生も救えなかった。
地域も世間もテレビも漫画も小説も、誰も救えなかった。

「子供と心のキャッチボールができず、心の痛みを共感できない教師の存在が原因だ」なんて言われても、教師にしてみれば、「だったらお前がやってみろ」って気分じゃないでしょうかね。
親にも救えなかったものを教師に救えというのは、やっぱり酷な話だと思う。

現場を詳しく知るわけじゃないけど、学校の先生って忙しそうだもん。
普通に授業の用意やら事務仕事といった日常業務だけで、手一杯なのではないだろうか。
時間と余裕がたっぷりあれば目も届くかもしれないけど、仕事に追われるような状況で、見えない所で行われいるイジメの兆候を察知して、しかも過たず適切な対応をとれというのは、さすがに要求レベルが高すぎる。

だから、一番いいのは、クラス担任と授業担任とを分けることじゃないかと思う。
「数学教師」とか「体育教師」とか、そういうふうに専門化する感覚で、「クラス担任」専門の教師を作るべきだろう。

子供に数学を教えるためには、教師がきちんと数学を学び、数学を教える専門家でなければならないように、子供に人間としての大切なことを教えるためには、教師がきちんとそれを学び、それを教える専門家でなければならないはずだ。
なのにどうだ。
現状は、数学教師に片手間に体育を教えさせているようなものではないか。
それで、「体育のことをきちんと教えられる数学教師が必要だ」と言っているようなものではないだろうか。

生徒がイジメを苦に自殺しましたなんて事件が起こったとき、もっとも大切なことは、二度と同じことが繰り返されないようにすることだ。
そのために原因の究明があって、その結果としての責任の追求が行われるべきだ。
なのにニュースを見ていると、学校が悪い教師が悪いという声しか聞こえてこない気がする。

まず誰が悪いか決めましょう、と。
これはもう「学校が悪い」ということに、初めから決まっているようなものだ。
で、学校側が「これからはもっと子供たちと心のキャッチボールをしていきたい」と決意を表明して、なんか一軒落着な気分になって終わりです。

それで再発防止が出来るものか。
具体的な解決策が無いのに解決を約束するから、隠蔽しなきゃならなくなる。

「誰が悪い」で考えるのではなくて、学校も保護者も子供たちも、みんな「なにが出来ただろうか」と反省し、二度と繰り返さないためにこれから具体的に何が出来るだろうと考えることが大切だと思う。
三者が協力し合うことなくして、問題の解決はない。

今こうしてマスコミが注目しているこのときに、事件のあった学校・保護者・子供たちが一致団結して「クラス担任の専門化を」という提案を掲げて署名活動でも始めれば、運動としてかなりの効果が期待できるように思う。
上手くすれば何かを変えられるかもしれないし、少なくとも問題提起にはなるだろう。
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by kude104 | 2006-10-17 23:59 | 時事・社会

いじめっ子に反撃を

それにしても、自殺者が多すぎる。

とりわけ、10代で自殺するやつら。
いじめられたかなんか知らんけど、お前ら、人生に見切りをつけるのが早すぎる。
諦めるのが早すぎる。
そんなもん、3年も5年もすれば、世の中ウソみたいに変わるから。
ソビエトだって崩壊するくらいだから。
だいたい10年も経てば大人になってるんだぞ。
二十歳すぎてもまだいじめられているなんてことは、まぁ滅多に無いから。

死ぬくらいなら、もっと取るべき行動がいくらもあるように思うのだが、結局やっぱり臆病者なんだろうなぁ。
不登校になるのも勇気が要るし、いじめられていることを大人に訴えたり、ましてや、いじめっ子と対決したりするのは、すごく勇気の要ることだ。
ぼくだって、そんなこと出来るかどうか自信ない。

だから、実際に追い詰められたときに、その人の感情がどちらに爆発するかだ。
対決する方向に爆発するか、「自分が死ぬことで復讐してやろう」という方向に爆発するか。
これはもう、持って生まれた性質なのだろうと思う。

でも、そんな「どちらに爆発するか」なんて運頼みでは自殺者は減らせないんで、なんとか上手い手を考える必要がある。
それにはやはり、考えるべきは「爆発する前に、いかにガス抜きをするか」だろう。

要するに、いじめっ子に反撃するために必要な勇気ポイントがあまりにも膨大だから、反撃できずにガスを貯めこみ、結果爆発するのだから、あまり勇気ポイントを必要としない反撃方法を考案すればいいのだ。
臆病者には臆病者の戦い方がある。

ぱっと思いつくのは、いじめっ子の個人情報は簡単に取得できるわけだから、それをネットに晒してしまうという攻撃。
ただ晒すだけじゃ芸が無いので、「いじめられ日記」とかいうブログでも作って、いかにいじめられているかを全部実名で暴露するなんてどうだろう。
こっそり暴露するだけでもある程度のガス抜きにはなるだろうし、上手く行動すれば、問題を一気にセンセーショナルなものにしていじめっ子に大ダメージを与えることも可能だろう。

他にも、たとえば悪戯電話や怪文書などといった、いやがらせの類で反撃するというのも悪くない。
別に、それでいじめが直接どうこうならなくても、とりあえずガス抜きになればいいのだから。
陰険で卑怯な反撃だけど、それが“臆病者の戦い”なので。

正々堂々と戦うことが正しいとは限らない。
正々堂々と自らの死で正義を訴えるくらいなら、姑息で卑怯な“臆病者の戦い”をするほうが、ぼくはましだと思うけどね。
ただし、“臆病者の戦い”を始めた時点で「一方的な被害者」ではなくなりますので、ある程度の覚悟はしなければなりませんが。
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by kude104 | 2006-10-15 23:59
asahi.com:「生きていくのが嫌に」 愛媛・自殺生徒の遺書全容判明 - 社会

こういうニュースを目にするたびに思うのですが、学校でいじめられてつらいのなら、学校へ行くのなんかやめちまえばいいのに。
どうして、生きていくのをやめる前に、学校へ行くのをやめられないのだろうか。

よく、子供にとって学校が世界のすべてだと言うけれど、それが良くない。
大人がもっと世界を広げてあげなければいけない。

いじめ根絶への取り組みはたしかに必要だけれども、いじめはそう簡単には無くならないという前提の元で、今いじめられている子供の逃げ場を作ってあげる取り組みも必要ではなかろうか。
それは単に、「死ぬくらいなら、学校なんて行かなくてもいい」と言ってあげるだけでいい。
学校行かなくったって死にゃしないよと。

まず親がそう言ってあげて欲しい。
「うちの子、いじめられてるかも・・・?」と感じたときに、「いいよいいよ。べつに学校なんか行かなくったって死にゃしないよ」と言ってあげて欲しい。
そうして、まず逃げ場を確保してあげることがすごく大事だと思います。
間違っても、「がんばって学校行きなさい。いじめられないように努力しなさい」なんてふうに、退路を断っちゃだめです。

はっきりいって、担任に相談しても、いじめは無くなりませんから。
いじめをやめさせるには、結局は、いじめられているほうが変わるしかないと思う。
理不尽なようですが、相手を改造するより、自分を改造するほうが簡単ですから。

単純な発想ですが、武術を身につけるのが一番手っ取り早いんじゃないでしょうか。
自分の強さに対する自信というのは、立ち振るまいにも影響を及ぼすものです。
それに、いじめってのは弱いものいじめですから、強くなれば収まりますよ。
学校休んで1年間ほど修行すれば、かなり強くなれるんじゃないですかね。

学校側としては立場上「来なくて良いです」とは言えないでしょうから、親なり世間なりが言ってあげましょう。
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by kude104 | 2006-08-27 00:01 | 時事・社会