世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

<   2009年 11月 ( 7 )   > この月の画像一覧

「普通の結婚」が、手に入りにくくなった理由 - 日経ビジネス Associe(アソシエ)

動物番組なんかを観ていたら、自然界においてはパートナーを得て子孫を残すということが、どれだけ過酷な競争であるかが良く分かる。
もちろん人間は動物とは違うけれど、あれを観ていると、そんな誰しも当たり前のように「普通の結婚」ができるほうがおかしいという気がしてくる。

それをやろうと思ったら、自然なカップリングではなく、強引に組み合わせないと無理だろう。
実際、かつての結婚は、そうした感じだったんじゃない?
で、それを「普通の結婚」と呼ぶかというと、違うだろう。
なら、「普通の結婚」って何かね?と。

たとえば、かつては「普通の結婚」があり、「普通の幸せ」がありました、と。
それが今は手に入り難い世の中になっています、と。
それを事実とするとして。

でも、思うに、「普通の幸せ」を手に入れるために、かつての人たちは、おそらく「普通の不幸」や「普通の苦労」や「普通の我慢」なんかを、同時に引き受けていたのだろう。
「普通の結婚」が「強引な組み合わせ」によって行われていたように。

結婚に限らずとも、たとえば上記の対談で「いまは日常生活の中にセーフティーネットがない」といったことが語られているけれど、近所付き合いはしない、親戚付き合いも希薄、親との同居は嫌、職場の上司同僚とは会社だけでの付き合いですと。
それで、困った時にだれも助けてくれないって、当たり前だよね。

かつての「普通の幸せ」だって、なにも当たり前に享受できたわけではなく、「普通の不幸」や「普通の苦労」とワンセットになっていたはずなのだ。
それを「普通の幸せ」だけ取り出して享受したいと願う、そのこと自体は間違っていない。
社会を良くしていくということは、不幸や苦労をなくしていくということだからね。
ただ、それはもう「普通」の幸せではないよ、ということだ。

きっと、「普通」なんてどこにもなくて、自分なりの幸せを探していくしかないのだろうと思う。
そして、幸せは「平凡な日常」の中に時々あるから「幸せ」なのであって、「幸せな日常」を追い求めると不幸ばかりが増えて行くのだろうな。
[PR]
by kude104 | 2009-11-28 18:36 | 時事・社会

Twitterに飽きてきた

最近世間的にはぐっと注目度が高まっている雰囲気のTwitterですが、個人的には飽きてきた感じもしていて、はてさてどうしたものかなー。
アカウントを削除するほどでもないのだけど、このまま放置で良いものかな?という気もして。

改めて気付くまでも無く、ぼく、どうも他人とのコミュニケーションにあんまり興味がないらしい。
もっといえば、コミュニケーションどころか、他人にさほど興味ないかもしれない。
まったく興味ないわけじゃないけど、ずっとつながってウォッチしていたいほどの興味はないかなぁ。
Twitterに限らず、SNSにもハマらないのは、きっとそこに原因があるんだろう。

加えて、ライフログ的に、あるいはメモ的につぶやくのも面倒くさくてできないし。
基本、オンのときはプログラミングしているので、なにかアウトプットしたい気分の時はプログラムを書く。
一方、オフのときはアウトプットしたい気分もオフになるので、Twitterにつぶやく気分になれない。
オフの状態でアウトプットしたい気分のときもあるけど、その場合は140文字程度じゃなくてもっとがっつりアウトプットしたくなるから、ブログ書くしね。

やっぱり、ぼくにはブログくらいのテキスト量、更新性、つながりがちょうどいいかなぁ。
[PR]
by kude104 | 2009-11-23 23:55 | PC&ネット
最近BSで『刑事コロンボ』の再放送をしていて、子どもの頃好きでよく見ていたぼくとしては嬉しい限りです。
それで、週一のペースで『刑事コロンボ』を観ていると、昔は気付かなかった『犯人の行動パターン』ともいうべき事柄に気付きます。

コロンボの捜査方法と言えば、愚鈍でお人よしっぽく見えるコロンボが、犯人に事件の不審な点について「あれが疑問だ、これが不自然だ」と相談して回る、というものです。
それに対して、犯人でない人は、たいてい「たしかに。それは奇妙ですなぁ」といった反応をします。
一方の犯人はというと、ほとんどが「なんだそんなことか。それなら簡単に説明が付くよ」といった反応をするんですねぇ。

昔はよく、「コロンボはどの時点で、あの人が犯人であると分かったのか」と不思議に思ったものですが、つまり、こういうことじゃないかと。
画面には描かれていないけど、コロンボは毎回とりあえず容疑者全員に「あれが疑問だ、これが不自然だ」と相談して回っているのではないか。
そうすると、上で書いたように、犯人とそうでない人とで反応が違うわけです。
そうやって怪しい人物を絞り込んでいるのではないか。
で、最終的には、コロンボのプレッシャーに耐えきれなくなった犯人が、彼の疑惑を逸らそうとして何か新たな行動に出たところを、コロンボが狙い撃って捕まえるという流れでフィニッシュとなります。

つまり、たとえるならば、水中に潜む魚を捕まえるために、水面に小石を投げて、それが作る波紋を調べるようなものでしょう。
波紋の乱れがあれば、そこに重点的に小石を投げて、徐々に徐々に範囲を狭めて行く。
魚にしてみたら、投げ込まれる小石のポイントがどんどんどんどん近付いてきて、かつ、引っ切り無しになってくるわけです。
そして最後は、小石の雨にいら立った魚が動いたところを、がばっと捕えるって寸法ですね。

もし自分が犯人だったら、どうやってコロンボと対峙すればいいだろうってのは、毎回考えるのだけど。
結論としては、コロンボに対して必要以上に反応しないってことでしょうか。

心にやましいところがある者は、えてして、急所から敵の目を逸らそうとして偽の情報を与えて煙に巻いてやろうと思うのだけど。
偽の情報には「偽」という情報が含まれるから、優れた敵に対しては、単に新たな情報を与えていることになっちゃうんだなぁ。
情報が足りなくて困っている相手に対して、わざわざ情報をあげているようなものです。

でもなぁ、コロンボのあのプレッシャーに耐えてじっとしていられる自信はないなぁ。
見ていて、ほんっとにいやらしいもん。
となるとやはり、ロス市警の管轄外で犯行を行うのが一番か。
でも、そんなときに限って、休暇でたまたまコロンボが来ていたりするんだろうな。
[PR]
by kude104 | 2009-11-17 18:25 | テレビ

『天体観測』の歌詞世界

『天体観測』の歌詞を分析するその1 - くりごはんが嫌い
『天体観測』の歌詞を分析するその2 - くりごはんが嫌い

すごく単純な――イメージそのまま、天体観測の情景を唄った歌だと思っていたので、そんなに解釈が『謎』とされているとは知らなかった。

ぼくとしては、歌詞の中に出てくる『君』は、素直に(昔の)友だちだと思うんだよね。
『君』を恋人としてイメージしたくなる気持ちも分かる。
星は恋人と観るほうがロマンチックだし、なにより、「手を握る」という行為が男同士だと気持悪いから。

でも、「震える手を握る」というのは、本当に手を握る行為というよりも、心と心の触れ合いとして「寄り添う」とか「支える」といったことのメタファーと解釈するべきだろう。
「ここで 今 君の手を 掴むためのメロディーフラッグ」の「掴む」なんかと同じだね。
と考えれば、別に男同士で手を握りあっても気持悪くはない。

なので、前半はそのまま。
友だちと二人で望遠鏡を担いで天体観測に行った、という歌だろう。
ただ、「深い闇」や「君の震える手」というのは、天体観測をするその場所が真っ暗で怖いという、そうした叙事描写であるとともに、友だちが何かしら心に不安や悩みを抱えていたという抒情描写にもなっているのだろうと思う。

きっと『僕』は、友だちが悩んでいることを察していて、なんとか力になってあげたいと思い、天体観測に誘ったんじゃないかな。
一緒に星を眺めながら、悩みを聞いてあげようと。
でも、果たせなかったわけだ。
それが『僕』の痛み――後悔になっている、と。

『予報外れの雨』というのも、実際に雨が降って天体観測を中止せざるを得なくなったという叙事に重ねて、友だちの「震え」が「予期せぬ雨」によってもたらされたものであるというメタファーと解釈できる。
PVで言えば、転校なんかは、子どもにとってはまさに『予期せぬ雨』ではないかな。
天候(転校)だけに・・・なーんちゃって。

『ほうき星』は、おそらくこれも叙事とメタファーとをあわせもったキーワードだろう。
実際にほうき星を観に行ったのと、「今」の象徴として。
きっと、普通の星じゃなくて『ほうき星』なのは、それが今日も明日も明後日も見られるものじゃなくて、「今」しか見られない刹那的なものだからだろう。
だったら『流れ星』でもいいじゃないかと思うけれど、「追いかける」には、周回軌道のほうき星でなければならないからこその『ほうき星』なんだろうね。

この『ほうき星』を追いかけているという表現を、歌詞の順に並べると、

君と二人追いかけていた
今も一人追いかけている
今も一人追いかけている
君と二人追いかけている

となる。
最初が「過去」であるのは明らかだ。
つまり、歌詞の構成として、「今も一人追いかけている」『僕』が、過去の「君と二人追いかけていた」ときのことを回想する形になっている。
実際に叙事的な意味で天体観測をしたのも、おそらく「君と二人追いかけていた」ときだけだろう。

で、歌詞の中で唄われているように、「今まで見つけたモノは全部覚えている」「そうして知った痛みが 未だに僕を支えている」わけだ。
だから、今は『僕』一人であっても(二分後に君が来なくとも)、思い出の中であの日のフミキリに戻れば、「君と二人追いかけている」ことになるわけだね。

実に「スタンド・バイ・ミー」的な歌詞世界だと思う。
[PR]
by kude104 | 2009-11-12 22:10
人を信じるだけムダなんだと思う

「人を信じても裏切られるだけ」みたいな言説に対していつも思うのだけど、それ、ちがうやろ。
「裏切る人を信じた」だけやろ。

この手の人に多いのが、100%信じるか、まったく信じないかどちらか――みたいな。
ゼロかイチか。
なんでそうなるかというと、結局、楽をしたいからなんだろう。

すべての人間が一律に信用できるとかできないとか、そんなわけないじゃない。
一人の人間に対しても、いついかなる時も、あらゆる事柄に対して、一律に信用できるとかできないとか、そんなわけない。
Aさんは、こういうときこういう事柄に対しては、これくらい信用していいけど、こういうときこういう事柄に対しては、これくらいしか信用できない、とか。
信用できるかどうかなんて、本来、その時々に個別個別に見極めて行かなければならないものだ。
当然、それはすごく難しいし、手間暇かかる作業だ。

だから、もうまるっと一律に信じるか信じないか、どちらかだっていうふうにして、楽がしたいだけなんじゃないの?

「疑う自分が嫌だ」っていうけど、それ本当に?
単に、『理想の相手像』を押し付けたいだけとちがうの?
相手を見極めるというのは、相手の善いところも悪いところも含めてお互いの距離感を図っていくことだ。
相手の人となりを理解して行くのが面倒だから『理想の相手像』を押し付けて、それを信じることで関係性を築いた気でいるだけならば。
そういうのは、「信じる」とは言わん。

本当に人を信じるというのは。
「この人なら裏切らない」と信じることじゃない。
「この人に裏切られるなら、しょうがない」と覚悟することだ。
だから、人を信じることは気高くて美しんじゃないか。

「信じたのに裏切られた!」とわめいて非難するくらいのことは、誰にでもできる。
裏切られてわめくぐらいなら、信じちゃダメなんだよ。
裏切られること前提で、それでもいいと思えるなら、それが本当に「信じる」ということだ。

そして「信じる」ことにも、当然、レベルがある。
たとえば、ひとにお金を貸すとき、いくらまでなら貸せるか、みたいに。
それはもちろん、返ってこないこと前提でだ。
あいつなら、100万円まで貸せる、とか。
あいつには、100円でも無理だ、とか。

自分の命まで懸けて、裏切られたら笑って死ねるような、そんな信じるに足る相手は、人生でまぁひとりいるかいないかだろう。
ジャンプ漫画じゃねーんだから、そんな友情や愛情のバーゲンセールみたいに何人も何人もいるわけがない。
でも、100円や1万円くらいの信じるに足る人はたくさんいる。
そういう小さな信じる心で、世の中はつながって成り立っているんだろうと思う。

「人を信じるだけムダ」なのではなく、無駄に信じてもムダなだけなのよ。
[PR]
by kude104 | 2009-11-11 17:12
島国大和さんの「恋愛資本主義と愛と働き蜂の話」について - tyokorataの日記
それ故、「皆が平等に『幻想』を享受できるはずなのにどうして俺は」と忸怩たる思いを抱く人が出てくるわけです。

島国大和さんの希望やら夢は労働させて搾取する為に使われるだけだから、自分の価値判断で行動した方がいいさ。という考え方は、自分の価値観を「会社」や「周りの価値観」などに合わせる事で安心している、「運」に恵まれなかった「大衆」に求めるのは酷なわけです。
人が生きるために『幻想』を必要とするのは、たしかにそうだとして。
恋愛至上主義の弊害は、生きるための『幻想』として恋愛を至上のものとするあまり、恋愛できないと生きる意味を見失ってしまうことじゃないかと思う。

「自分は(まだ)恋愛できる」と信じていられる間は恋愛至上主義もいいのだけど、当然、皆が皆恋愛できるわけではない。
恋愛至上主義を価値観として抱えながら、自分には恋愛はできないのだと気付いてしまった人は、いったいどうすればいいのだろう。
恋愛至上主義を捨て、つまり「恋愛は至上でも何でもない」という価値観に切り替えて、他の新たな『幻想』を獲得するしかない。

「自分の価値判断で行動した方がいい」というのも、そうした恋愛できない恋愛至上主義者たちに向けられた「逆洗脳」のひとつだろうと思う。
「酷」なのではなく、「優しさ」ではないかな。
『幻想』などなくとも幸せに生きていけるよ、という言葉もまた『幻想』として機能するのだ。

ただ、現状、恋愛を「至上」の座から引きずり降ろせるほどの力を持った『幻想』は、ないと言っていいんじゃないだろうか。
個人個人に対してはあるんだけど、これほど不特定多数の大衆に一律に効く『幻想』は、それこそ宗教くらいしか思い当たらない。

なにしろまず、恋愛はおそらく子孫を残すために必要な事柄として、生理的なレベルで脳内麻薬とかドバドバ出ているだろうから、生半可なものでは太刀打ちできない。
恋愛の至上性は、遺伝子レベルで後押しされている気がする。

それでも、恋愛が単に「性的」なだけのものならばまだ付け入る隙もあるけど、それに加えて「聖的」なイメージまでもがまとわりついているのだから、お手上げだ。
恋愛がもっと俗なものだったら、もっと軽く扱えもするのだけど、人によっては人間の欲望の中でもまさに「至上」に奉られたりしているものだから。

そして、純粋にエンターテインメントとしても強力だ。
恋愛自体が優れたエンターテインメントというだけじゃなく、他のすべての娯楽を飛躍的にドラマチックにする効果まであるのだから。

そして、希望性。
たしかに恋愛できない人は大勢いるし、自分は恋愛できないと絶望するひともたくさんいる。
だけど、恋愛はある日突然見知らぬ誰かに「あなたが好きです」と告白されて、いきなり手に入る可能性が、希望として捨てきれない。
それこそメディアが盛んに作り上げた、一番たちの悪い『幻想』なのだけど。
希望として捨てきれないから、諦めたつもりでもふっ切れなくて、いつまでも縛られる。

それは、変身願望にも通じるものがあるだろう。
好きだと言ってくれる王子様が現れてくれさえすれば、その瞬間から何もしなくてもお姫様になれる。
小説の一本も書かずに、ある日突然作家になれると思う人はいないのに。
出会いの機会も作らず、異性的な魅力も磨かずに、でもある日突然恋愛できると思う人はけっこういて、恋愛さえすれば自分もヒーローやヒロインになれると思う人は多いのではなかろうか。

そこれほど強力な『幻想』が他にあるだろうかと考えると、まず思い浮かばない。
人間に『幻想』が必要であるならば、その『幻想』として恋愛が用いられるのも致し方なし、と言わざるを得ないだろう。
「恋愛だけが人生じゃない」といった『幻想』では、とうてい勝ち目はない。
大衆を幻惑するには弱すぎる。

ならば、できることは、恋愛の難易度をもっと下げてやることではないだろうか。
レベル1でいきなりドラゴンに挑まんとする(それでやられたり、ビビって逃亡する)人が多いように思うので、まずは装備を整えて――それも最初は竹のやりとか棍棒とかから初めて――スライム相手に経験値稼ぐような手引きが世の中に必要なのではないだろうか。

併せて、恋愛の神聖さをもっとぐっと下げて、一度に複数人との交際可、交際期間は平均1年ほどって感じにすれば、回転率が上がるので、多くの人間にチャンスが広がる。
なんというか、将来の伴侶を選ぶステディな恋愛は30歳前後くらいから、それまでは友だち以上恋人未満的なノリで、経験値稼ぎな恋愛が当たり前な風潮を広めればよい。

恋愛に臆病な人間にとって最大の要因となるのが見た目ならば、美容整形をもっとカジュアルなイメージにしてしまえばいい。
髪型を変えるように、顔も作り変えちゃえばいい。
手術代も、保険が効くようにしてさ。

恋愛市場主義にとって、恋愛の回転率を上げることは需要の拡大につながるのだから、大いに歓迎すべきことだろう。
政府にとっても、結婚~出産の前段階に男女のカップリングが必要になる以上、恋愛の難易度を下げることは少子化対策として悪くないはず。
個人にとっても、まぁ、ますます恋愛市場主義の奴隷になっていくわけだけど、その対価として、かように強力な恋愛の快楽性が得られるのであれば、リーズナブルと言えるのではないか。

あとは、恋愛を神聖視する人たちの反発が予想されるけど、それに対しては、神聖さを結婚の方にシフトさせることでごまかせばよい。
恋人付き合いと友だち付き合いとの境目を曖昧にして、その代わりに、結婚こそが神聖で、永遠かつ独占的な愛を誓うもの、という具合に。

美容整形に対する抵抗感は、「本当に大切なのは中身だから、外見はいじってもいい」ってな感じでごまかせばいいだろう。

そんな感じでメディアでばんばん流布してもらえば、5年と待たずに難易度下がってくるんじゃないだろうか。
どうせ恋愛至上/市場主義を推し進めるのなら、そこまでやってもらいたいものだ。
[PR]
by kude104 | 2009-11-06 16:36

空気人形

昨日は映画サービスデーということで、「空気人形」を観てきました。

なんて言うんだろう、「ダッチワイフ」でいいのかな。
それとも「ラブドール」と言うのだろうか。
空気でふくらます性欲処理用の人形。
そいつが心を持って恋をする――というあらすじも興味深く思えたし、なにより主演のペ・ドゥナさんに興味があったので。

「リンダリンダリンダ」という映画ではじめてペ・ドゥナさんを意識したのだけど、なんだろうね、不思議な魅力というか存在感のある女優さんだよね。
いわゆる「美人」って感じじゃなくて、なんとなく爬虫類系なお顔立ち(と言うと失礼かな)なんだけど、とてもキュートで、独特の空気感があって好きな女優さんです。

そんな感じで気楽にふら~っと観に行ってしまったら、思いのほかしんみり哀しい映画だったのでマイッタ。
設定が設定だけにアダルトな描写が多くあるのだけど、それがちっともエロく思えないのは、「芸術的だから」というより、観ていて哀しくなるからだろうと思います。

主人公の「のぞみ」は空気人形だから、身体の中が空洞です。
一方、他の登場人物たちは人間だけど、みんな心に何がしかの空虚さを抱えている。
身体が空洞の人形と、心が空洞の人間と。
そして「のぞみ」は心を持って、恋をすることで、カラッポの状態からどんどん心を満たしていくのだけど、心が満たされるにつれ、それは同時に心の空洞を作ることになるんだよね。

もうひとつの哀しみは、「代用品」であることについて。
「のぞみ」は「ダッチワイフ」だから、その存在自体が代用品です。
通常本当に抱きたい誰かの代わりに使用されるものだし、また、飽きたり古くなったら別の人形と交換できるから、代わりはいくらでもいる。
一方、他の登場人物たちも、「お前の代わりなんて幾らでも居るんだぞ」と言われるような存在で。

我々は誰しも欠けていて、代用可能な存在だ。
でも、それは人間だけではなくて、生命というものは本質的にそういうものだという。
植物だって、おしべとめしべがあるだけでは不完全で、花粉を運び種を運ぶ鳥や虫や風がその不完全さを補ってくれている。
鳥や虫や風は自分が誰かの不完全さを補っているとは意識せず、気付きもしないけど。
だから、ぼくらも同じように不完全であり、同時に、他の誰かを補う存在でもあるのだと。

みんなどこかが欠けていて、みんなどこかでゆるくつながっている。
それはある種の「癒し」なのかもしれないけれど、ぼくにはやっぱり哀しく思えてしまうのです。

「のぞみ」がアクシデントで身体の空気を失ってしまい、好きな人の息を身体に吹き込んでもらうシーンがあるのだけど、これはどう見てもセックスシーンです本当にありがとうございました。
相手の「息」を身体に注入してもらうことで満たされるって、それ、なんて見事なメタファー。
女性にとって「愛される」ってのはこーゆーことなのかもしれないと変に納得してしまったのだけど、ぼくは男なので良く分かりません。
男の場合は逆に、注入することで満たされるってことなのかなぁ。

ま、いずれにしても、独り身男子が観ると思いのほかテンション下がるから気をつけろ。
独り身女子も、自分を「空気人形」と重ねちゃったりする危険があるから気をつけろ。
独り身じゃなくても、何かしら満たされない気持を抱えている人はテンション下がるから気をつけろ。
ってことはつまり、今幸せいっぱいですという人以外、ほぼ全員テンション下がるから気をつけろ。
それでもまぁ、テンション下がる感じが悪い感じじゃないけどね。

とりあえず、ペ・ドゥナさんになる空気人形があればぜひ欲しいです――という冗談で締めようとして、その人形はきっとぼくじゃない別の誰かを好きになるのだろうと想像してしまって、さらにテンション下がりました。
[PR]
by kude104 | 2009-11-02 21:53 | 映画