世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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【ウェブ立志篇】米ミューズ・アソシエイツ社長 梅田望夫 進化を遂げる英語圏 - MSN産経ニュース

まぁ、相も変わらず梅田望夫さんネタだけども。
最近つれつれと思うに、人に得手不得手があるように、国にも得手不得手があるんじゃないだろうか。
日本は、もしかしたら、「インターネットビジネス」は不得手なのかもしれないね。

ビジネス的な覇権争いを無視して見れば、べつに「日本発で世界に通用するサービス」に拘らなくても、英語圏で流行ったサービスをせっせと日本に輸入するやり方でいいんじゃねーかと思う。
考えようによっては、英語圏の人々にサービスの開発と運用実験をやってもらって、結果を見て良さそうなものだけを頂けばよい、と。

たとえば、「キンドル」が本当にいいものなら、遅い早いの違いはあれど、やがて日本にも根付くだろう。
理と利があれば、世の中の流れは必ずそちらに流れるのだから。
もし流れないなら、やっぱりなにか欠けているのだ。
その国の個性に、なにかフィットしないのだろう。
世界でキリスト教が主流だからと言って日本もキリスト教化する必要がないように、文化やビジネスにも国の個性によって合う合わないがあっていいと思う。

それによって日本が世界から取り残されると懸念する人もいるだろうけど、もし日本人がその不利益を実感すれば、そこに理と利が発生するからそちらに流れるわけで。
流れないなら、別に大した不利益が発生していないということじゃないだろうか。

個人レベルで言えば、英語を習得すればその素晴らしい英語圏の恩恵とやらを受けられるのだから、それでいいじゃんと思う。
無理に日本で英語圏のサービスをどーのこーのと頑張るよりも、個人個人で英語を習得するほうが早い。
「英語を習得するほどではない」のなら、恩恵と言ってもその人にとってはその程度なわけで。
「英語を習得するほどではない」けど恩恵を受けたい人が一定数を超えれば、そこに理と利が発生するわけで。
無理せず自然に任せればいいんじゃねーかと思います。
「べき論」で切り拓かれる未来は、そう多くはない気がする。

日本は、やっぱりなんだかんだ言って、物作りが得意な印象があるなぁ。
だから、日本でiPhoneやキンドルが作れなくても、iPhoneの端末やキンドルの端末を作ってビジネスする方向性が合っているような気がする。
不得意分野をどうにかしようとするよりも、得意分野を伸ばしましょう、と。
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by kude104 | 2009-10-29 15:00 | PC&ネット

社会活動SNS

世の中の様々な社会問題を解決していくためには、なにがどうなればいいのかと考えて行くと、結局のところ、市民による社会活動を活発化させることに尽きるのではないだろうか。

政治というものはどうしたってマクロ的になってしまうので、そこからこぼれる人々をケアするための受け皿が、政治よりももう少しミクロなレベルで必要になる。
そして、問題がミクロなレベルでは解決できない規模になった時、それを政治的なレベルに押し上げ、解決を促す必要が生じてくるのだけど、それにはそれなりの運動というものが必要になってくる。
そうしたことを、いったい誰が担うのか?という問題だ。
現状、そうした担い手が現れやすい仕組みになっているだろうかと考えると、あまりそうは思えない。

様々な社会問題に対して、問題意識を持っているひとは決して少なくはないだろう。
そこから一歩進んで、問題提起という形で自らの意見を述べるひとも、見渡せば多くいる。
でも、さらにその先、その問題提起を解決のための具体的な活動にまで持って行ける人はほとんどいない。

理由はいろいろあるが、ひとつには、「言う」のと実際に「やる」のとでは、必要なエネルギーや覚悟が段違いであること。
そして、「言う」のは一人でできるけど、「やる」のは一人ではなかなか難しいこと。

理想としては、ある人が問題提起を行うと、それに賛同する人々が集まってきて、皆でわいわい議論しているうちに「じゃあ、実際にやってみよう」となって、具体的な活動を行うに至るという流れだろう。
この問題提起→賛同者を集める→活動というそれぞれのフェーズからフェーズへの移行が、ゆるやかなスロープ的であればある程、問題提起が具体的な活動に発展しやすくなると思われる。

そうした場をネット上に作ることはできないものだろうか。

たとえば、SNSを基本とした登録制のコミュニティサイトのようなものを作るとしよう。
参加者はそこで問題提起を行うことができる、と。
問題提起はテキストとしてポストする形が良いだろう。
ポストされたテキストはテーマ別に分類されて、SNSのトップページというかコミュニティ的なところに掲載される。

他の参加者は、自分の興味のあるテーマのコミュニティ(というか、2ちゃんで言うところの「板」かな)をチェックして、ポストされた問題提起を読む。
その意見に賛同する場合は、「賛同」ボタンをクリックするなど行うと、「賛同者」としてリストアップされていく。

問題提起に「賛同者」が付くと、議論のための掲示板が利用可能となる。
そこで、提起人と賛同者とで議論を深め、よりブラッシュアップしていくわけだ。
この方法だと、議論に参加できるのは基本的に賛同者だけになるけど、ま、それでいいように思う。
実際の活動にまで発展させるのがシステムの目的なので、批判等でブレーキがかかる可能性は排除する。
実際に活動を始めたら、どーせ各方面からいろいろ批判されるだろうしね。

賛同者が一定数集まると、グループに昇格する。
これにより、掲示板だけでなく、より高度なグループウェアのような機能が使えるようになる。
そこでは、グループや各人のスケジュール管理、役職の決定などが行えるようになる。

このグループがさらに進化してNGOやNPOレベルの活動団体になると、寄付の受付や活動報告書の作成等が行えるようになる・・・みたいな感じで。
ある種ゲーム的にレベルアップして行くみたいな感じになっていると、面白いんじゃないかなぁ。

一方、積極的に活動をリードして行く人ばかりではなく、少しだけ支援したい人にとっても、楽しめる仕組みを用意する。
もともと、こうした社会問題について議論したり、活動に関わることは、ある種のエンターテインメントとして機能するように思う。
意義あることをしているという充実感は気持ちいいし、そうした中で人と人とのつながりを感じられるのも楽しかろうし。
なので、それを上手く増幅するような仕組みを用意するといいだろう。

たとえば、登録ユーザごとにプロフィールページようなものを作り、そこに支援あるいは賛同している活動、グループ、問題提起を表示する。
その見せ方によって、それらをある種のコレクションであるとか、その人の実績や先見性、問題意識の高さを示すものとして意味付けしてやると、ぐっと面白さが増すだろう。

そのような場を用意して、あらゆる社会活動(の情報)がそこに集まるようになれば、当然、問題意識を持つ人々がそこに集まるようになり、結果、社会活動が爆発的に活性化されるんじゃないかと思う。
なにか世の中に不満があるなら、そこに行けば、誰かしらが問題提起を行っている。
それに賛同することで、活動家を支援するもよし。
もちろん、自分が活動家となって人々の支援を集めるもよし。
NPOやボランティアや慈善事業なども、そこでせっせと情報を公開することで、支援者を増やすことが期待できる。

そんなふうな言説でどこかをだまくらかしてお金貰ってシステム作れんものかなー。
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by kude104 | 2009-10-24 23:59 | PC&ネット

Flashの未来に夢を見る

ASCII.jp:Flash for iPhoneの衝撃 これから何が起こる?

Flashプログラマの端くれとして、ぼくも思うことを書いてみよう。

FlashでiPhoneアプリが作れちゃうというのは、Flashプログラマとしてはかなり嬉しい。
これにより、「Flashなら、ブラウザ上、Windows/Mac/Linuxデスクトップ上、Windows Mobile/Android/Nokia/BlackBerry、そしてiPhoneまで、これだけの対応アプリが作れますよ」と嘯くことができるというのは、仕事の売り込みなんかで大いにものを言いそうだ。
実際にはそう簡単な話ではないだろうけど。

先日リリースしたプリントマジックなんかも、AIR(Flash)で作ったので、WindowsだけでなくMacやLinuxでも動く。
今度Mac用のパッケージソフトとして販売されることになったのですが、これなんかもAIRだからこその展開だと言える。
Windows専用アプリだったらこうした話は無かったわけだし、Windows用とMac用の両方を別々に開発しましょうというほどの気力体力もないわけだし。
AIRで作れば一度でWindows用とMac用の両方のアプリが作れるというのは、思っている以上にポテンシャルが大きいと思う。

同じようなことが、モバイルアプリでも起こり得るだろうと期待する。
Android用とiPhone用の両方を別々に開発するのはしんどいけど、Flashなら・・・みたいなことが。

ただ、Flash PlayerそのものがiPhoneに乗ることはないだろうなぁと、そこは悲観的に構えてます。
乗らない理由はいろいろあるのだろうけど、最後の最後は、アップルの「Adobeを利することはしたくない」という感情的なものなんじゃないかなぁ。

なので、状況によっては、HTML5のほうが有力な開発環境になるかもしれない。
たとえばGoogleなんかは、今後可能な限りHTML5でアプリを作成し、App Storeの審査を通さずに配信してくるだろうと思われるわけで。
かつてAjaxを流行らせたように、HTML5を流行らせてくるんじゃないかと。

そういう意味では、アップルが握るiPhoneのコンテンツ配信コントロール権の穴はHTML5で、それを押し広げるのはGoogleなんじゃないの?という気はする。

ただし、配信はどうあれ、コンテンツの販売マーケットをアップルが握っているうちは、アップルに恐れるものはなにもないだろう。
コンテンツの販売マーケットがApp Storeしかないなら、有料コンテンツについては、企業はApp Storeを通して配信せざるを得ないのだから。

AdobeがFlash Player上にコンテンツの販売マーケットを用意してくれるといったことは、たぶん期待できないだろうと思う。
よく分からないけど、なんとなく、コンテンツの販売マーケットを運営するのって、苦労ばかりが多くて割に合わない商売なんじゃないかという気がするので。
そんな火中のクリを拾うような気は、Adobeにはさらさらないに違いない。

あり得るとしたら、Androidのマーケットがどんな仕組みなのか分からないけれど、GoogleがAndroidを中心にオープンなコンテンツ販売マーケットを作るとか、Amazonがデジタルコンテンツの販売に乗り出すとか、PayPalあたりが普及してネット上の決済システムが整備されるとか。
そうしたときに、有用なコンテンツ保護機能を備えたFlash Playerがコンテンツの購入管理システムとして利用されるようになる、みたいな希望的観測。

ま、いずれにしても、今後Flashが盛り上がってくることは間違いないと思うので、その波に乗っていきたい。
また、それとは別に、iPhoneアプリも作りたいなー。
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by kude104 | 2009-10-18 15:52 | PC&ネット
「頭のない騎馬男」と「事業開発の職人」と「優秀な人をたくさん働かせること」 - Tech Mom from Silicon Valley
会社の機能の中で「頭脳」というか、「前頭葉」にあたる、将来の企業戦略を考えたり、具体的に新事業をはじめたりする、例えば「経営企画」とか「事業開発」といった機能が抜け落ちている、または弱くなっている、ということが気になっているのだ。
企業が成長して組織が大きくなると動きが鈍るのは、日本の企業に限らず、というか企業に限らずあらゆる組織で起こり得るのだと思う。
日々のルーチンワークは個々がルーチンに従って行動すればよいので、組織が大きくなっても影響はさほどない。
でも、「経営企画」とか「事業開発」といった事柄は、事業の規模に応じて考慮すべき要因が増え、組織の規模に応じて関係者が増えるため、組織が大きくなればなるほどコストがかさみ難しくなる。

こうしたことは、人間の在りようとも似ているように思える。
身体が大きくなればなるほど敏捷性は失われがちだし、歳をとればとるほど成功体験により保守的になっていく。
基本的に、企業や組織も人間と同じように、成長~老化~死亡のサイクルをたどるのだろう。

ここで挙げられている「大手日本企業」とやらも、おそらく、成長のピークを過ぎ、老化のフェーズに入っているのではないかと思う。
そうした老いた企業に若返りを期待するよりも、若い企業への世代交代を期待するほうが、生命サイクルとしては健全なのではないかという気がする。

皮肉的に言えば、そうした老いた企業において飼い殺されている優秀な人材というのは、多くの場合、自身が「頭のない騎馬男」なのだろうと思う。
「うちの企業は将来を見据えていない」と愚痴りながら、将来の見えない企業に居続ける様は、まさに鏡を見て嗤うかのようだと思わないでもない。
もちろん、敢えてそこに留まり運命を共にしようというケースもあるのだろうけど。

「日本の企業から画期的なモノが出てこなくなった」のではなく、「日本人から画期的な企業が出てこなくなった」という見方をするならば(もちろん、実際に出てこなくなったわけではないが)、その理由のひとつは、「優秀な人材」が老いた企業に引き寄せられるからではないだろうか。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」と思ってはいても、ついつい人は牛の大きさに安心を見てしまうもの。
であるならば、そうした企業はやはり「定年退職」して頂いて、次代に活躍の場を譲って頂くのが良いのではないかと思う。
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by kude104 | 2009-10-13 23:58 | 時事・社会
絶望生産国日本。(『子どもの貧困―日本の不公平を考える』) - どんなジレンマ

資本主義社会というのは、実は身分制社会であると思うことは多々ある。
貴族の身分制度と違って「貧富」は血筋や家柄に固定的ではないけれど、富を増やすには元手となる富が必要で、富は相続できるという仕組みにより、実質的には身分制として機能しているように思う。
貴族的な身分制度よりも公平感がある分、実に巧いこと考えられた制度だなと感心する。

富裕層の子どもが親の富を受け継ぐのはいいとしても、貧困層の子どもが親の貧困に縛られ、そこから抜け出せないのはよろしくない。
それはアンフェアだし、社会にとっても望ましくはないだろう。
一度貧困に陥ったら、子孫代々抜け出せないような社会が発展するはずがないものね。

では、どうすれば貧困の連鎖を断てるのか。
政治に頑張ってもらうのはそれとして、民間でできることはないだろうかと考えてみる。
とりあえず核となるのは、いかにして貧困層の子供により良い教育の機会を与えるかということだろう。

そのための場として、「託児所」に注目してみる。
貧困層の親ともなれば、共働きかシングルマザー/ファザーであるケースが多いだろうから、単純に託児所を用意することが彼らの支援になる。
安心して子供を預けられる場があれば、そのぶん働けるので、少しでも貧困脱出の助けになるだろう。

で、その託児所で、子どもに勉強を教える、と。
イメージとしては託児所と塾を合わせたような感じだけど、受験勉強だけじゃなくて、もうすこし広く子どもの将来の就労支援的な教育を目指したい。

こうして、親の就労環境を支援することで貧困からの脱出を助けつつ、子どもに教育の機会を与えることで貧困の連鎖を断つという二段構えの作戦だ。

問題は、託児所の運営資金をどう集めるかだ。
まずは順当に親から徴収するわけだけど、貧困者支援である以上、彼らが支払える金額でなければ意味がない。
そこで、料金は収入に応じて徴収することにしよう。

金額的には、多少負担かなと思うくらいに設定するとして、その代わりに食費込みとする。
働くお父さんお母さんの何が大変かって、やはり食事の用意だろう。
食事の準備や後片付けから解放されれば、働く時間の自由度が上がるし、浮いた時間に資格の勉強でもしようかしらといったことも可能になる。
また、大人数分を一括して作ったほうが安上がりになるから、食費の節約にもなるしね。
もちろん、子どもにとっても、きちんとした食生活は健やかな成長に必要不可欠だ。

とはいえ、親からの徴収だけでは、とても足りない。
なので、子どもにも「出世払い」してもらおう。

つまり、子どもが成長して収入を得るようになったら、その収入に応じた額を託児所に支払ってもらおうというアイデア。
きちんとした契約の形にできれば強いのだけど、子ども相手に契約を結ばせるのは無理だろうから、「善意の寄付」的な形を取らざるを得ないだろうけど。
自分が立派に稼げるようになったら、次の世代の同じ境遇の子どもたちを支援する。
そうしたリレーが上手くつながれば、金銭面で大きな支えになるのではないか。

それでも、ただ寄付をしてくれというだけでは心許ないので、なにかしらメリットを用意しよう。
とりあえず賛助会員的な立場として、会費を支払ってもらう形をとる。
そして、もし会員が失業などにより生活が困窮した際には、託児所による再就職支援などのサポートが受けられるというのはどうだろう。
つまり、賛助会員になってお金を出すことは、託児所を支援する意味合いだけでなく、本人にとってもある種の保険として機能するわけだ。

当然、託児所は子どもと賛助会員のための(再)就職支援センターのようにも機能することになる。
就職先のコネクションとして、まずは託児所の卒業生や賛助会員を当てにする。
仲間内のネットワークで助け合うイメージだ。
これを活用するために、託児所での教育では経営者を育てることに重点を置くとよいだろう。
一人の経営者を育てれば、10人単位の仲間の働き口が確保できるわけだから。

加えて当然、一般企業への就職もあっせんする。
このために、託児所の教育課程にビジネススクール的なものも含めておく。
これにより、企業が欲しがる人材を企業にあっせんできると謳うわけだ。
なにせ幼いころから面倒を見ているわけだから、その子どもの能力や人となりのデータを託児所は豊富に持っていることになる。
それをもとに適材適所に人材をあっせんするとなれば、下手に一般採用で人材を探すよりも、企業側としても少ない労力で良い人材の獲得が期待できるだろう。
託児所は、そのようにして人材あっせん料を企業から受け取り、運営資金に充てる。

法的に可能なら、運営はNPO法人として、賛助会員や企業からの支払いを寄付の形で処理する。
そうすれば、そのお金は税金の控除対象になるから、さらに積極的にお金を払ってもらえるだろう。
そんなふうにしてなんとか運営資金をねん出しつつ運営できないものか・・・と。

いずれにしても、孤立しているよりも集団でいるほうが生存確率が上がるのは自然の理なので、互助組織のようなものは有用だろうと思うのだが、いざ作るとなると難しいだろうなぁ。
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by kude104 | 2009-10-11 17:39 | 時事・社会

無意識の差別者

今日は映画サービスデーなのに、映画を観に行けなかったなりよキテレツ。

http://anond.hatelabo.jp/20090927053232
『私は、なにも知らないままで人を傷つけるような人間になりたくない。もし差別者の立場を脱する方法があるなら、私はそうしたいし、もし無かったとしても、せめてその差別について理解して、なるべく他人を傷つけないように生きたい』
誰も傷つけずに生きて行くことなどできはしないだろうと思う。
どうしても他人を傷つけたくないなら、人とのかかわりを断って、山中で世捨て人として暮らすほかないだろう。

ぼくも無意識に誰かを傷つけているのだろうけど、正直、気にしてなんていられない。
だって、「無意識」なんだもん。
無意識だから傷つけて良いということではなく、無意識に傷つけることを意識して生活することは無理だということ。
「無意識に傷つけるかもしれない」と意識して生活したとしても、無意識に傷つけることを避けられるわけじゃないから(だって、「無意識」に傷つけるんだから)、結局、「無意識に傷つけたくない」と心がけたところで、それは「心がけ」以上のものにはなりえない。
その心がけでもってより良く生きていけるならいいけど、つらい気持になるだけなら、本末転倒というかむしろ害になってんじゃん、と。

「無意識の差別」は、基本的に、差別される側の問題であるとぼくは考える。
(「差別される側に問題がある」じゃないよ)
差別された人が「それ差別です」と訴えて初めて、「無意識の差別」が意識されるわけで。
意識されてようやく、その「差別」が、差別した側とされた側両方の問題になる。
ぼくが、誰かが、無意識の差別者であるとして、それが意識された時点で誠実な対応ができれば良しと、ぼくは割り切っている。
無意識のうちの差別は、もうしょうがないとして割り切る。

「無意識に差別していることを察しろよ」というのは、まぁ理想なんだけど、現実的じゃないよね。
何度も言うように、無意識なんだから。
「無意識の差別」を訴えることができずに苦しんでいる人がいるというのは、想像するとモヤモヤするけど、やっぱりどうしようもないよなぁ。
意識できたものについては、どうにかしようもあるけど。

誰でも簡単に無意識の差別者になってしまうというということは、きっと、差別というものが特別なものではなく、世の中にごく当たり前にあるものだってことだろう。
このひとはきっと、「当たり前にある」ということがいやで、根絶したいと願い、挫折したのかもしれない。
でも、そんなふうに当たり前にあるものならば、大切なのは「いかにして差別と付き合うか」ということだろうと思う。

それは病気に対するのと似ているかもしれない。
病気を根絶できればいいのだけれど、そうも行かないから、そのつど対処療法を行うしかない。
大きな病気はきちんと手術して治療し、小さな病気は暖かくして栄養取って寝て治すような、そういう付き合い方しかないんじゃなかろうか。

そして、無意識に人を傷つけることを覚悟して、堂々と生きて行くしかないんじゃないだろうか。
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by kude104 | 2009-10-01 23:59