世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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アテンションとエコノミーの間 - アンカテ
「アテンションエコノミー」とは、アテンションとお金が連結されることではない。
「シェアできないもの」はお金(エコノミー)で回り、「シェアできるもの」はアテンションで回り、両者が無関係に並立することだ。
うーむ。
商品をお金に換えて、そのお金をまた商品に換えられることで、エコノミーシステムは回るのだろうと思います。
でも、アテンションシステムは、「情報」をアテンションに換えたら、それで終わりじゃないのかな。
それとも、なにか上手くすれば回せるんだろうか。

集めたアテンションを「情報」に換えるというのは、「情報」はシェアできるという前提ゆえに、成り立たないでしょう。
アテンションがなければ手に入らない「情報」というのは、シェアできない「情報」なので、エコノミーシステムに乗せることができます。

同様に、アテンションを何らかの方法でお金に換えるというのは、結局、アテンションをエコノミーシステムに乗せることなので、「アテンションとお金を切り離す」というここでの話に反します。

たとえば。
ある人の時間を1秒間消費させることを「1アテンションタイムの消費」とすれば、人は一日に活動時間分のアテンションタイムを生産していると考える事ができます。
そして、アテンションタイムの総量は一人当たりの活動時間×人口となり、アテンションシステムは、このアテンションタイムの資源配分システムになると考えられます。

エコノミーシステムでは、資源は究極的に食料だとすれば、それは生きるために必ず消費しなければならないものです。
必ず消費されるから、コストをかけて生産され、それによってエコノミーシステムが回ります。

一方、上記のアテンションタイムは、放っておいても自然と生産される一方で、必ず消費されなければならないものではありません。
ゆえに、そのままではアテンションシステムを回すエネルギーが湧きません。

このエネルギー。
エコノミーシステムに当てはめて考えるなら、アテンションシステムというのは、必ず生産されるアテンションタイムを、コストをかけて消費するのが正しい姿なのかもしれないですね。
(ここでのコストは、エコノミーシステム的なコストです)

もし、集めたアテンションを何も交換しないなら。
たとえば「名声欲を満たすため」など、自分で消費するためにアテンションを集めるのなら。
アテンションを集めるためのコスト(金銭的なことだけじゃなく、何かを作るための労力など)は、アテンションを自分で消費するために支払うコストと見なせましょう。
つまり、アテンションシステムでは、コストを支払ってアテンションを消費するのだ、と考えられます。

「情報」の消費者がコストを支払うのが旧来のエコノミーシステムなら、「情報」の提供者がコストを支払うのが来るべきアテンションシステムなのかもしれないですね。
無関係というより、ふたつは反転した関係になるのかもしれない。
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by kude104 | 2009-07-26 23:59 | 時事・社会

結婚への「高望み」心理

不倒城: 結構本音で、いわゆる「結婚への高望み」の中身について聞いてきた

ふむ。
「結婚によって発生するデメリット(あるいは気乗りの無さ)を考えると、自分の場合、このくらいの条件でなければ結婚するメリットがない」という判断のもとに条件を「高望み」に設定するというのは、「理にかなっている」と思います。
そして、「だから婚活ゲームには(積極的に)参加しない」という行動であれば、理にかなった判断のもとに、理にかなった行動であるよと思う次第です。

問題は、それでもなお、婚活ゲームに参加しようとすることでしょう。
高望みくらいでないと釣り合わない(でも、高望みゆえに叶わない)と思いながら、それでも参加しようというのは、ちょっと理にかなった行動とは思えないから。

その参入が「私なら勝てる!」という判断のもとに成されたものならば、まるで矛盾しているので、「身の程知らず」と笑われるのもしょうがないと思うのだけど。
それはそれで良いとして。

ここで述べられているのは、本人も「勝てるわけない」と分かっていながら、それでも婚活ゲームに参加せざるを得ない状況があるのだ、ということですね。
「多くの」なのか「一部の」なのかは分かりませんが、ある女性たちにとって、婚活というゲームは、降りたくても降りられないのだと。

そうした状況が発生するのは、女性にとって、結婚というものがかなりの社会的ステータスを意味するからでしょうか。
たしかに男性でも、結婚できるやつが社会的に上、できないやつが下、という価値観はありますもんね。
女性の場合は、仕事で社会的ステータスを上げにくいのと、やはり「子どもを産む」という能力によって、男性以上にそれが強くなるのかもしれない。

いずれにせよ。
結婚など別にそんなにしたくないのに、婚活ゲームから降りられないから、参加しているふうを装う。
で、結婚したくないゆえに条件は「高望み」に設定してあるから、不本意にも、「身の程知らず」と笑われてしまう・・・ということなのかもしれない。
だとしたら、女性もいろいろ大変なんだなぁと、なんだか同情してしまう。

あるいは、そこまで合理的な「高望み」設定じゃなくて。

どうせ結婚するなら、そりゃ誰だって、できるだけ好条件で結婚したいと考えるのは普通です。
でも、自分のレベルで現実的に考えるなら、このくらい妥協しないと無理だろうなぁというラインがあって。
そのラインが、自分にとって、ひどく惨めなものであると思えば思うほど。
それを認めることは、自分が惨めであることを自分で認めることになる。
それはやはり、哀しいことですよ。

妥協した結婚をすることが、自分にとっての負けを確定させることならば。
理想の結婚を目指して無理を承知で走り続けるしかないわけだ。
走り続けている以上、負けを認めないでいられるからね。
そうして結婚適齢期を完全に過ぎて、タイムアップでゲームが終了するまで走り続ければ、少なくとも、「理想の相手と出会えなかった」という言い訳が立つ。
自分で自分の負けを認めないでゲームを終えることができる。
だから、そのときが来るまで、笑われながら走り続けるつもりなのかもしれない。

そう考えると、なんだかとても切ない話だなぁ。
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by kude104 | 2009-07-25 23:42

ネット販売専門の出版社

たけくまメモ : 「町のパン屋さん」のような出版社

うーむ。
「町のパン屋さん」と言っても、本の場合、リアルに実店舗を中心とした半径何キロかの商業圏でのみ商売をするというやり方では成り立たないだろう。
パンに比べて書籍では、見込み客が圧倒的に少なすぎると思うのだ。

「俺が言う町のパン屋さんは、売り物を自分で作って、自分で売るのである」ということから、自分で作った本を自分で売るということだろうけど、そうすると、売り物である本の種類がものすごく少なくなる。
売り場はまるで、「数種類しか本が売られていない本屋さん」みたいになっちゃうんじゃないか。
パンと違って、同じ本を何度も買う人はいないから、これはなかなかに厳しい。

だから、これはネット販売を前提としたアイデアだろうと思う。
全国規模で考えれば、なんとか成り立つ話かも?という気はしないではない。
そういう意味では「町のパン屋さん」というよりは、自分の手作りの品をネット販売する個人ショップのイメージが近いんじゃないかと思う。

もう一歩思考を進めると、もし仮にこうした個人出版がある程度成立しうるとしても、個人規模で作家から本作りからサイト運営から販売まですべてこなす、そうした体制を作ることができる人はそう多くはないだろう。
ならばおそらく、製本やサイト運営や販売はこちらで請け負いますので、あなたは作家業に集中してください、という分業スタイルが現れるに違いない。
つまり、「ネット販売専門の出版社」だ。

もちろん、成立の過程としては、初めは自分で書いた本を自分で販売するところから始まり、やがて仲間の書いた本も一緒に販売するようになり、ついには自分と仲間を中心に出版社を設立し、そして、出版社として他の作家に執筆を依頼するようになる、と。
まぁ、最後のステップまでたどり着けるかどうかは何とも言えないけど。
小規模の出版社がそれぞれに個性を出しながらネット販売でどうにかやっていけるくらいの感じが、望みうる理想形じゃないかと思う。

あとは、「本」と「デジタル」の関係がどうなるかだね。
それによって、まったく変わってくるものね。
いずれにしても、町のパン屋さんならぬ、町の本屋さんには厳しい時代になりそうだねぇ。
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by kude104 | 2009-07-19 23:41 | PC&ネット

「祭り事」の政治

最近政治についてモヤモヤと考えるのだけど、「国民一人一人がきちんと候補者を選んで投票すれば政治はよくなる」というのは、結局のところ幻想なんじゃないかなーという気がする。
絵に描いた餅とでも言おうか、「みんな仲良くすれば世界は平和になる」ってのと似たり寄ったりなんじゃないかなぁ。

集団の中に、そもそも理知的に判断して行動できる能力を持ったひとって、いったいどれくらいいるのだろうね。
加えて、そのひとが理知的に判断して行動できるだけの情報なり状況なりが整っているケースってどのくらいあるのだろう。
そう考えると、やはり冒頭のように考えてしまう。

ならば。
すべてのひとが――覚悟としては大多数の人が、理知的に候補者を選ぶ/選べるわけではない、ということを前提に選挙というものを考えたほうがいいのではないだろうか。

大衆というものを考えた場合、大多数の人は理性ではなく感情で行動すると捉えるなら。
選挙というものは、理知的に判断しうる(と自認する)少数が、いかに大多数の感情に訴えるか、という戦いなのではなかろうか。
つまり、理知的な政策を、どのように感情的なコトバに変換するか。
下手をすればヒトラーみたいなのが生まれちゃうのだけど、マツリゴトというのはやはり本質的に「祭り事」なのだろうと思う。

で、感情に訴えるには、共同体に、その共同体意識を刺激する言葉を投げかけるのがたぶんもっとも効果的で、だから、共同体が解体されて個人個人がバラバラに投票するようになればなるほど、選挙への関心が低下するのだろう。

よって、いまの時代に政治を活性化させようと思ったら、よい政策を掲げ、その政策の支持者となる人々を組織化し、その共同体の感情を刺激してやる必要があるだろう。
そこまでしないとダメなんじゃないだろうか。
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by kude104 | 2009-07-17 23:59 | 時事・社会
Twitterをはじめると2週間でブログの更新が止まる理由 そしてはじまる(かもしれない)総表現社会 - mizchi log

ぼくもようやくTwitterの面白さが分かり始めた気がする今日この頃ですが、ぼくの場合、あくまでも「読む」ほうがメインで、投稿はあまりしていません。

ぼくはまだまだオールドタイプなので、どうしても公に文章を公開することに心理的な壁というかハードルのようなものがあって、Twitterといえども投稿する文章を推敲してしまうようなところがあります。
なので、Twitterであっても、というか、Twitterであるがゆえに、投稿するのが面倒くさい。
息をするように投稿できれば、その先に違った世界が広がっているのだろうなーとは思うのだけど。

そんなぼくですが、「読む」ほうの面白さは実感するところです。

Twitterと言えば、「いま何してる?」という問いに答えて、いま自分がしていることや思っていることをつぶやくサービスといった感じで説明されます。
で、それを見ている友だちからリアクションが寄せられて面白いよ、と。

それはそれで正しい――というか、Twitterとはもともとそうした目的のサービスなのですが、Twitterがこのところ急激に存在感を増しているのは、そうした本来的な使われ方ではなく、メディアとしての使われ方によってであると思います。
最近よく目にする「tudaる」という言葉は、なにかイベントなどの内容をTwitterでテキスト中継することだそうですが、これなんかは、「tudaる」なんて言葉ができちゃうくらい、Twitterのメディアとしての威力にみんなが驚いた、ということじゃないかと思います。

今後おそらく、ビジネス的にTwitterが注目されるのは、このメディアとしての側面でしょう。
企業や個人や団体などが、Twitterで自らイベントの中継を行ったり、宣伝や広報活動を行ったりするようになるんじゃないでしょうか。
社会的な影響力としては、本来的な「つぶやき」のミニブログとして以上に、メディアとしてのTwitterが中心になるような気がします。

なので、Twitterを「followすると、その人や企業の最新ニュースが自動的にリアルタイムで配信されるサービス」として捉えるのも悪くないのではないかと思います。
「いま何してる?」につぶやくサービスと捉えるだけでは、メディアとしてのTwitterを見落としてしまいかねないので。

ちなみに、そうは言ってもTwitterは本来「つぶやき」サービスとして設計されていますので、メディアとして見た場合、かゆい所に手が届かない感も多々あります。
よって、Twitterよりもメディアとして使いやすいサービスが登場した場合、それがTwitterに取って代わる可能性は十分あるんじゃないでしょうか。
Twitterは本来の「つぶやき」サービスが足かせとなって、メディア機能のみに特化することはできないだろうと思うので、隙があるとすればそのあたりでしょうか。
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by kude104 | 2009-07-11 23:50 | PC&ネット
少数精鋭のテクノロジーベンチャーは企業が支払うべきコストをどこに付け替えるのか - Future Insight
それぞれサービスを終了させたエントリー、もしくは終了後のエントリーの中で、一様に組織のサイズを話題としていることが非常に印象的でした。僕は大企業の中でしか仕事をしたことがないので、なぜこうも小さな組織を志向するのか、という点が非常に興味深いです。
身も蓋もない言い方をするなら、「ネットサービスは儲けが少ないので、少数精鋭でやるしかない」ということじゃないかと思います。

基本無料のサービスの場合、イメージとして、収益は線形に増えて行くのではなくて、ある一点を越えるまではほぼゼロ、その代わりそれを越えれば大儲け!みたいな感じになるので、その時が来るまでいかに必要最小限のコストで持ちこたえるか、という戦略になるのではないでしょうか。

となれば、無駄な人材を抱えている余裕はないので、少数精鋭にならざるを得ません。
従業員を増やせば売上が上がるという類の商売じゃないですしね。

普通の――というか、実社会で物を販売するような商売の場合、事業の規模を拡大しようと思ったら、どうしても人を増やさざるを得ません。
人が増えると必然的に組織を整えざるをえなくなるので、事業規模の拡大とともに会社組織が固められていくのだろうと思います。
言うなれば、会社としての組織が整うのと事業規模の拡大とが、ある程度連動して行われる。

対してネットサービスは、極端な話、出来立てほやほやの組織で、明日から急にドカンと世界規模でビジネスが展開されるなんてこともあり得ます。
なので、「企業として対応が未熟」ということが起こりやすいのかな、という気がします。
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by kude104 | 2009-07-04 22:17 | PC&ネット

レスラー

昨日は映画サービスデーということで、「レスラー」を観てきました。
なんというか、とても哀しいお話やね。

まず、主人公の姿が痛々しい。
いちおう、かつてのスーパースターなのだけど、今じゃすっかり全盛期を過ぎていて。
プロレスだけじゃ生活できなくて、バイトで生計を立てているのだけど、家賃の支払いもままならない。

長年の肉体の酷使とステロイドなどの使用で、体はボロボロ。
ぐるぐる巻きのテーピングや、張りのない肌。
試合後、よろよろと歩く姿や、椅子に座りうなだれ疲れ果てた背中が切ない。

そしてついに心臓発作で倒れてしまい、一命は取り留めるのだけど、プロレスはもう無理だと医者に告げられます。

引退を決意した彼は、新しい人生を歩もうと決意します。
別れた娘との関係の修復を図ろうとしたり、思いを寄せていた女性にアプローチしたり、スーパーの総菜コーナーで慣れない接客の仕事を始めたり。

それがなんか、上手くいきそうな感じになるんだよね。
「なんだ大丈夫そうじゃん。レスラー辞めても、上手くやっていけそうじゃん」って。
もちろん、それが前振りだってことは見え見えなんだけどさ。
だけど、この時ばかりは主人公が本当に幸せそうで、「そうあってほしいなぁ」と願わずにはいられないわけよ。

でも、やっぱり上手くいかなくて。
娘との関係修復には失敗し、思いを寄せていた女性にはフラれ、スーパーの総菜コーナーの仕事は我慢できなくなって辞めてしまいます。
そうして何もかも失った彼には、もうプロレスしかなかったのでしょう。
だから彼は医者の警告を無視して、レスラーとしてリングに復帰します。

このラストの復帰を、「夢よもう一度」的な男の生き様と捉える人もいるでしょうが、ぼくにはとてもそうは思えませんでした。
あれは・・・言うなれば、「自殺」なんだろうなぁ。
すべての退路を断たれて、諦めの境地で希望や苦悩が消え去って、最後に晴れやかな心で敵陣に玉砕突撃を仕掛けるような。

劇中の会話の中で、イエス・キリストの受難と磔刑を描いた映画「パッション」についてのセリフがありました。
おそらく、主人公の姿をオーバーラップさせているのだろうなぁ。
ファンのために血を流しながら処刑台に向かうイエスのようなものとして。
イエスは処刑の後に復活しますが、そのとおり、主人公も復活しえたのかなぁ。

とまぁ、そんな感じで。
観る前は「ロッキー・ザ・ファイナル」みたいなのを想像してましたが、タイプとしては真逆な映画でした。
楽しいシーンはたくさんあるけど、総合して楽しい気分の映画じゃないね。
プロレスの試合も、基本流血デスマッチなので「ひぃぃぃ~」って感じだったし。

でも、心に残る映画でした。
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by kude104 | 2009-07-02 23:22 | 映画