世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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だから匿名は嫌われる

J-CASTニュース : キングコング西野 2ちゃんねらー批判で「大炎上」

漫才コンビ「キングコング」の西野亮廣さん(27)のブログをめぐり、批判が殺到している。「いい逃げはずるい」なとど2ちゃんねらーを批判。ところが、反論の機会を保証することの重要性を主張しているにもかわらず、西野さんのブログにはコメント欄がなく、西野さんこそが「言い逃げ状態」との批判がネット上で相次いでいるのだ。
で、その問題のブログエントリーがこちらですが。
キングコング西野のコラム「西野公論」:西野公論 :表に立つ

これに対して、コメント欄やトラックバックうんぬんと批判するのは的外れのように思う。
西野さんの主張は、大雑把に言えば、匿名での批判に対する物言いでしょう。
表に立つというのは、名を出す、顔を晒すということでしょうね。
ネットなら、せめて責任あるコテハンでしろと、そういう主張だろうと思います。

現に西野さんは、この発言の責任を受けて、叩かれているじゃないか。
それは西野さんが表に立っているからですよね。
一方、2ちゃんねるの利用者たちが批判されるときに「2ちゃんねらー」と一括りにされるのは、個々の書き込み人が表に立っていないからです。

コメント欄うんぬんと批判している人たちは、西野さんの発言の趣旨を分かっていながら揚げ足取りのように難癖つけてるだけじゃないかと思うのだけど、そういう行動が匿名批判に説得力を与えていることに気付かないのかな。
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by kude104 | 2007-12-30 22:21 | PC&ネット
「マリオ時代」の黄昏 (デジタルエンタメ天気予報):NBonline(日経ビジネス オンライン)

DSが爆発的に売れたのは、脳トレなどの「いいソフト」があったからではないかと思う。
この人の言わんとしているのは、おそらく、旧来の「ゲームらしいゲーム」が売れなくなったということだろうと思うのだけど。
ぼくはプレイしていないので想像ですが、ヒットした「ゲームらしくないゲーム」も、おそらく、楽しくプレイさせるためのゲーム的なノウハウがきちんと作り込まれているのではないかと思います。

マリオやゼルダが本当に売れていないのかどうかぼくは知りませんが、それほど売れていないのだとすれば、それはおそらく嗜好の細分化によるものでしょう。
ゲームに限らずどの分野においても、技術の進歩が一段落付くと嗜好の細分化が起こり、爆発的大ヒットは生まれにくくなります。
たとえば車の世界でも、今の時代に国民的大衆車など現れないのと同じように。
ですから、「マリオ」や「ゼルダ」の神通力も失われたという意味では、その通りかと思います。

大ヒットするゲームの条件は、会社や学校で話題になるかどうかではないかと思います。
そのゲームが、友達や同僚との話題のネタになっているシーンをイメージできるかどうか。
かつて爆発的にヒットしたゲームを思い浮かべれば、まさにその時代の話題の中心にあったように思い出されます。

嗜好が細分化された現代で、会社や学校での話題の中心になるのはかなり難しいので、代わりにネットを使って・・・という道がこれから模索されるだろうと思います。
Wiiなんかは、このへん着々と進めているような気がしますね。
いずれ将来的には、「Wiiでゲームのプレイ動画を世界中のみんなと共有」みたいなところへ行くんじゃないかな。
ニコニコ動画的なものをゲーム機のオフィシャルサービスとして運営するようになるのではないかと予想します。
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by kude104 | 2007-12-28 23:09 | ゲーム
「結果が全て」はどこがおかしいんだよ カオスちゃんねる

他人が自分を評価する際は「結果が全て」で、自分が自分を評価する際は「過程が大事」と、そういう価値観を自分自身に強いると、美しく生きられるのではないかと思う。

結果だけを重視すると、「勝つためにはどんな汚い手を使ってもいい」という具合になりかねない。
それでは人間が賤しくなっちゃうし、そうした裏技やショートカットを使っちゃうとスキルが身につかないので、成長機会を失うことになる。
第一、面白くないだろう。
なので、自分自身の価値を高めるという点においては、過程こそが大事なのだと思う。

でも、結果を求められる立場においては、結果を出してナンボです。
過程を大事にして自分自身の価値を高めてそれで良し、結果については知りません――というのでは、社会人として無責任と言えよう。
まして「結果はダメだったけど、過程を評価してくれ」などというのは、見苦しい。
そうした、情けを請う生き方は美しくない。

理想的には、言うまでもなく、過程を重視しつつ結果を出すのがベスト。
でも、現実にはなかなかそのように思い通りに事は運ばないので、たとえば、ここ一番どうしても結果を出さなければいけないという場合には、過程と結果のバランスを結果重視でセッティングして、結果はさほど問われないという場合には過程重視にセッティングすればいいと思う。
今回は結果重視、今回は過程重視と振り分ける、そのへんのバランス感覚というか選球眼のようなものが、出来る人間の秘訣かもしれんね。
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by kude104 | 2007-12-27 23:59
「努力は必ず報われる神話」として消費される受験戦争という“ゲーム” - シロクマの屑籠(汎適所属)

「勉強が出来ていい大学に入学できたからと言って、人生の成功者になり得るとは限らない」というのは全くその通りですが、でもたぶん、人生の成功者は高学歴者のほうに多いだろうとは思う。
調べたことはないけど、たぶんそうじゃないかな。
過剰な受験勉強が勉強しか能のない学歴バカを生み出すのはたしかですが、低学歴者の中に占めるDQN率もなかなかのものだろうと思います。

受験がある意味「努力は必ず報われるゲーム」なのは当然と言えましょう。
学校の勉強は基本的に「これくらいは理解できるだろう」という内容でレベル調整されているわけだから。
つまり、努力して理解できないような学習内容にしちゃダメなんだよね。
受験となるとそれに加えて応用力が問われたりもしますが、過去の傾向と対策がある程度意味を持つなら、それとて努力の範疇に入る。
でも、全国の上位レベルを争うくらいの受験競争となると、センスのない人間は努力だけではどうにもならない壁を思い知ることになるでしょう。

受験は本来、大学の講義レベルと自分の実力とのミスマッチを防ぐために行われるのであって、自分の実力に応じた大学を受験するなら、受験勉強の努力はまず報われると言ってもいいんじゃないでしょうか。
もちろん受験の本質は椅子取りゲームであるので、100%とは言えないけれど。
一方、自分の実力以上の大学をセンスもないのに受験しようとすると、過負荷で人間性が壊れちゃう危険性がある。
でも、それはべつに受験に限らず、仕事でもスポーツでもゲームでもなんでも、オーバーワークは壊れちゃうというだけのことだと思います。

実際のところ、「努力は必ず報われる神話」ゲームとして受験戦争を戦った人間が不幸になる率というのは、どのくらいなのだろうね。
0.01%くらいなら「そのくらいは、しょうがないよね」と思うし、100%近いようなら「これは問題だ」と思うし。
また、そうでない人間の不幸率と比べて高いのか低いのかも気になります。

個人的には、心から「努力すれば報われる」と信じて努力して見事大学に合格するという成功体験を得た人間というのは、たぶん、何やっても上手くいくんじゃないかという気がする。
学歴バカみたいなのって、中途半端な努力で中途半端に成功をしたやつに多いんじゃないだろうか。
本当に努力できる人間というのは、世の中にごく一握りしかいないと思うんだよね。
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by kude104 | 2007-12-26 23:59
本当は今日がクリスマス当日なはずだけど、日本じゃイブのほうが“本番”ですよね。
どうしてクリスマスはイブのほうが盛り上がるのか、考えてみた。

まず、サンタクロースがプレゼントを運んでくる時間帯が、大人の事情により、真夜中でなければならないというのがひとつ大きな理由じゃないかと思います。
子供がクリスマス本番にプレゼントを受け取るためには、サンタさんが各家庭に訪れるのは24日の深夜ということになります。
日本じゃクリスマスというとカップルのためのイベントというイメージが強いですが、まずその前に、子供たちにとっての一大イベントであることを忘れてはいけない。
そして、子供たちにとってのクリスマスの最高潮は、プレゼントを手にした瞬間でしょう。
手にした後は、正直、興味の対象がクリスマスからプレゼントに移りますから。
そこでクリスマス終了ってな感じになります。
つまり、子供たちにとってのクリスマスは、24日の夜から25日の朝にかけてが本番なのですね。

キリスト教の信者さんたちは、たぶん、25日は教会に行ったりして、宗教的に特別な気分で一日を過ごすのではないかと思います。
これならば、25日の朝に終わるのはクリスマスパーティであって、クリスマスの本番は25日という認識になろうかと思います。
でも、日本人のほとんどはこうした宗教的な気分等々を持ち合わせていませんから、クリスマスパーティの終わりがクリスマスの終わりになるわけですね。

もしサンタさんが子供の活動時間中に堂々とプレゼントを運んでこられるなら、クリスマスは日中は教会、夜はパーティ、その席でプレゼントという流れで、25日の本番のみのイベントとして行われる形になっていたのではないかと思います。
これなら日本でも、クリスマスの本番は25日の夜ということになっていたんじゃないかな。

べつに日本でも、24日にクリスマスパーティをして、25日も(宗教関係なく)クリスマス気分でいればいいじゃないかと思うのだけど、なかなかそうもいかないでしょうね。
まず、二日続けてハレの日とするのは、財布がちと痛い。
そして、海外はクリスマス気分のまま新年まで突入しますが、日本はそうじゃない。
クリスマスが終わったら、大晦日に向けてさっさと気分を切り替えなければなりません。
洋のクリスマスから和の正月へという、気持ち的に不連続な切り替えをしなければならないという点と、やっぱり日本は仕事第一なんじゃないかな。
仕事納めが間近にあるので、だらだらとクリスマス気分じゃいられないのでしょう。
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by kude104 | 2007-12-25 23:45 | 時事・社会

原罪と贖罪

クリスマスも近いということで、キリスト教の話でも。
「宗教の勧誘冊子を読んでみた」という話を以前にしましたが、その後も、そのときの勧誘の方が定期的にいらっしゃって、ちょっとした交流が続いています。
まぁ、交流といってもインターフォン越しに5分10分話をするだけですが。

基本的に、ぼくが「冊子にはこう書いてありましたけど、この論旨だとこういうケースも考えられるんで、これだけでは聖書の正しさを証明したことにはならないんじゃないですかねぇ」などと感想を述べて、あちらの方が「聖書にはこんなふうにも書いてあるんですよ」と答えて、「へー、そうですか」で終わる感じ。
だいたい、話は噛み合わない。
でも、べつにこちらとしては向こうを説得したり論争したりするつもりはないし、向こうも今のところこちらを説得したり勧誘したりする気もないらしいので、問題ないというか。
言わば、世間話みたいな感じで、それなりに楽しいっちゃあ楽しい。
ま、そう思っている間にジワリジワリと外堀を埋められていて、気が付いたら絡めとられている――なんてことにならないよう、気をつけなければなりませんが。
とはいえ、冊子を読めば読むほど入信する気が失せる内容のようにぼくには思えるんだけど、あれ読んで入信する気になる人っているのかなぁ・・・。

ま、そんなこんなでそれなりにキリスト教について考える機会があるので、今日はいま気になっていることをつらつらと書いてみようかと思います。

キリスト教では、「原罪」と「贖罪」という考え方がけっこう重要らしい。
アダムとイブが神様の言いつけを破って禁断の実を食べたために、その子孫たる人類は生まれながらに「罪」を負うようになったという。
これが「原罪」。
で、イエスが十字架に架けられたことで人類の罪はあがなわれたというのが、「贖罪」。
なんでも、神様が人類を救済するために愛するひとり息子(イエス)をこの世に遣わし、その死でもって人類の罪のあがないとした、ということらしい。

この話がどうも腑に落ちない。
なんでこれで罪があがなわれるんだろう。

AさんがBさんに対して罪を犯した、と。
Aさんが人類、Bさんが神様ですね。
神様が愛する一人息子をこの世に遣わしたというのは、たとえるなら、Bさんの大切なものをAさんに渡した、という感じでしょうか。
で、それをAさんが壊してしまうわけですね。
神様の一人息子を人類は磔にして殺してしまうんですから。
で、それによって、BさんはAさんの罪を赦すわけです。

これ、加害者たるAさんはちっとも反省していないし、償い的な行為もしていないですよね。
むしろBさんのほうがAさんに対して賠償している形になっている気がする。
なので、神の一人息子であるイエスの死をあがないだとするなら、それは「神」の罪のあがないなんじゃないか・・・と思ってしまいます。
つまり、神様が、人類に対して負わせてしまった「原罪」をイエスの命を差し出すことで「贖罪」したんじゃないのかなぁ。
赦すのは人、赦されるのは神ってこと。

――もちろん、そんな解釈がキリスト教で成り立つはずもないですが。
こーゆーことを考えて勧誘の人に話したりするのは、けっこう楽しいです。
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by kude104 | 2007-12-23 23:59
栗原潔のテクノロジー時評Ver2 > JASRACと信託契約を結ぶ場合の課題について : ITmedia オルタナティブ・ブログ

件の騒動が、広くネット時代の著作権の有り様についての議論に昇華する気配を見せはじめて、ますます興味深くなってきています。
「ネット時代の著作権の有り様」というと、これまでは消費者側の視点での議論が目立ちましたが、今回は作り手側の視点での議論であるところが興味深い。

現行の著作権制度がネット時代の新しい要求に適応できないものであることはたびたび指摘されてきましたが、ならばそれを変えましょう、新たな著作権制度を作りましょうという動きになるためには、権利者側が動くしかないだろうとぼくは考えます。
でも、権利者側は要するに既得権益側なので、なかなか動けないものです。
たとえば、これまでにも現行の著作権制度に対して不満や批判を口にするプロのクリエイターの方々を見かけることはたびたびありましたが、その中で、実際に何か行動を起こしたという人をぼくは少数の例しか知りません。
ほとんどの人は、不満点は多々あれど、反発まではいかないものです。
現行のままで、そう困らないですからね。

そうした中で、CGMフィールドで活躍するアマチュアクリエイターたちという、既得権益側に属さない権利者たちが登場し影響力を持ち始めたことは、大きな変化の兆しになりうるだろうと思えます。
彼らはアマチュア故に、著作権でお金を得ることよりも自分たちの文化を守ることのほうに、より高い価値を見出している。
そして、現行の著作権制度は、そうした自分たちの文化を脅かす脅威になりうるという、反発すべき必然性の火種がある。
そこが今までと違うところですね。

さらに違うのは、CGMの場合、権利者側と消費者側とが一体になりうるということ。
これまでの権利者側の改革の動きがいまひとつ実を結ばなかったのは、数の力がまったく揃わなかったためでしょう。
消費者に比べて圧倒的に少ない権利者の、さらにその一部のムーブメントでは、どうしたって大勢に影響を及ぼすものにはなれない。
でも、CGMの場合、権利者と消費者とが同じ文化を共有する同志であるので、数の力が期待できる。
現に今、初音ミク問題で、権利者と消費者が(共闘と呼ぶにはまだ同じ方向を向けていないけど)同じ問題意識を持ち得ている。
これをひとつの方向に束ねて形作ることができれば、あるいは・・・という可能性は秘めていると思うのです。

ソフトウェアの世界で、自由な創造のための様々なライセンス形態が生み出された経緯が、大いに参考になるのではないかと思う。
ああしたことを、コンテンツ全般においてできないとは思えない。
いままでは「コミュニティ」がなかったから核となる母体が生まれえなかったけれども、ニコニコ動画コミュニティがそれに成りうるとしたら、面白いですね。

CloseBox and OpenPod > 「初音ミク作家協会」が生まれるべきかも : ITmedia オルタナティブ・ブログ

「初音ミク作家協会」ならば本当に発足するかも知れないという気もしますが、どうせなら初音ミクに限定せず、広くネット上での自由な創作活動のための著作権管理団体のようなものが誕生したほうが面白い。

そこがたとえば「非商用なら自由使用OK、商用の場合はこれこれ」みたいな包括的なライセンス形態を策定する。
で、同意する人はそこに作品を登録する。
そこに登録された作品は、ライセンスの範囲内で自由に使用できる。
商用利用などの際にも、その団体に手続きすればOK。
収益等は団体が適切に配分する。
ライセンス違反などのトラブルに対しては、団体が対応する。
――みたいなことですね。
そうした活動を行う非営利団体一個作ってしまえばいいと思う。
JASRACが嫌われるのは、言うなればJASRACの策定しているライセンス形態が嫌われるのであって、著作権を一括で代行管理するという仕組み自体は非常に便利なものだと思うので。

こうした団体が誕生するかどうかが、ひとつの鍵になると思うな。
誕生すれば、新しい創作文化が花開くかも知れない。
誕生しなければ、たぶんやがてはネットもJASRACに覆われるだろうと思います。

問題は、誰が旗印になるかですね。
MIAUあたりじゃ・・・弱いかな。
やはり、このタイミングなら、初音ミクにかかわる誰かを核にしたほうが求心力高まりそうだし。
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by kude104 | 2007-12-22 18:21 | PC&ネット
ドワンゴによる初音ミクオリジナル曲登録問題まとめ(β)

この騒動がどう決着するのか、非常に興味深い。
なにやらいろいろと問題が噴出しているようですが、ぼくが興味を引かれるのは、やはりニコニコ動画発のオリジナル楽曲がJASRACに登録されたという点です。
このことに対するニコニコ動画ユーザの反応が気になります。

今後、ニコニコ動画で人気を集めたコンテンツがJASRAC登録されてビジネスになるという流れが一般化するとして、果たしてニコニコ動画は今まで通りの場でいられるのだろうかという疑問が湧きます。
ニコニコ動画にオリジナル楽曲がアップされたときに、それを観て「これも人気が出たらJASRACに登録されてカラオケや着うたになるんだろうな」と思って冷めちゃうユーザはたぶんいると思う。
その数が多いか少ないか、ですね。
受け入れる、歓迎する人が多ければニコニコ動画は安泰。
でも、反発する人が多いようだと、ニコニコ動画としてはこうしたコンテンツビジネスを今後の収益の柱と考えているでしょうから、その思惑はとん挫することになるでしょう。

FLASH・動画板Wiki - FLA板終わったな

・職人が技術を求めすぎてユーザーが付いてこなくなった
・Flash作品を商品化したせいでユーザーが離れた
・JASRACの爆撃により以前のような黒作品が作りにくくなった

このあたり、ニコニコ動画もちょっとそういう雰囲気になってきつつあるのかなと。
まぁ、今回の騒動を奇麗に納めれば、まだ当分は安泰だと思いますけど。

それにしても、今回の件然り、かつてののまネコ問題然り、こうしたCGM発のコンテンツをビジネス化するというのはなかなか難しいものだと、関係者の皆さん感じていらっしゃるんじゃないでしょうか。
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by kude104 | 2007-12-20 23:59 | PC&ネット
痛いニュース(ノ∀`):“聖夜が性夜に…” 日本のクリスマスにキリスト教徒は「怒り」?

ぼくは宗教色のない日本のクリスマスって好きだけどな。
外国の宗教行事だろうと節操なく取り込んで自分色に染めて楽しんじゃう日本人の柔軟性こそが、たぶん、日本をここまで発展させた原動力だろうとさえ思う。
日本のクリスマスは「Christmas」とは似て非なる和名の「クリスマス」というイベント――といった程度の認識でよろしいんじゃないでしょうか。

そもそもクリスマス自体、もともとキリスト教ではない宗教行事か祭事か何かにキリスト教的な色合いを被せて始まったものじゃなかったでしょうか。
ですから、今とて原理主義的なキリスト教徒の人たちはクリスマスを祝わなかったりすると聞きます。
ま、そんなもんですよ。

初詣や豆まきを宗教行事と思ってやっている日本人もいないだろうし、クリスマスだけ目くじらたてなくてもいいんじゃないかなぁ。

とはいえ、どうして殊更「性夜」になっちゃったんだろう・・・と考えてみようと思いましたが、よくよく考えてみれば、若い二人は毎日が「性夜」じゃないか。
そうした日常的な行為に、ちょっと特別な日という演出を施しているだけで、べつにクリスマスだけが殊更なわけではないと思う。

たとえば、なぜハロウィンがいまいち盛り上がらず、クリスマスがこうも恋人たちの特別な夜として盛り上がるのかと言えば、やはり、イメージ的なものというほかない。
寒い冬、雪、キャンドルの灯り、プレゼント、聖なる夜・・・。
どれもが恋人たちを盛り上げるロマンチックな演出ですよね。
かぼちゃ、仮装、悪魔、トリック・オア・トリートで恋人気分盛り上がらないですもん。
「それ、なにプレイ?」てな感じ。
言ってしまえば、それだけの違いでしかないでしょう。

そんなわけで、恋人たちは大いに聖夜かつ性夜をお楽しみいただきたいと思うわけですが、ただ、アパートの隣の部屋で性夜が始まるのだけはマジ勘弁願いたい。
そこはムード満点なホテルをご利用いただきたい。
それだけが気がかりです。
こちら明石家サンタ、あちら性夜。
壁一枚を隔てて広がる格差社会に思いやりを。
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by kude104 | 2007-12-17 23:27
人生に意義はあるのですか:アルファルファモザイク

「人はなぜ生きるのか?」という命題は、誰しも一度は考えたことがあるでしょう。
生物の生きる意義・目的ならば「DNAをリレーするため」ということになろうかと思いますが、ここで問われているのは「人」の生きる意義です。

ただ、「人はなぜ生きるのか?」という問いを発するときというのは、たいてい、「人はなぜ生きるのか?」を知りたいのではない。
「自分は何のために生きるのか?」が知りたいのです。
一般論の中に自分の答えを求めようとしているのだけど、でも、きっとそこに答えはない。

「人は○○のために生きるのだ」という答えがあるとして、それに納得できるかどうかは、結局のところ「自分は○○のために生きるのだ」と置き代えて納得できるかどうかなのです。
仮に「人は○○のために生きる」という絶対的な真理となる答えがあったとしても、それが自分の生きる目的とは違うと思えば納得できはしないのです。

だから、人が生きる目的というのは結局人それぞれということになります。
人それぞれということはつまり、一般論としての人が生きる目的は「ない」とも言えるでしょう。
人が生きる意味であったり目的であったり、そんなものはないのです。
ないからこそ、自分の生きる意味であったり目的は、自分で好きに決めていい。

ぼくの答えはシンプルで、「人は幸せになるために生きる」のだと思っています。
不幸になるために生きてもしょうがないですからね。
人生いろいろあるけど、とりあえず幸せの方向むいて生きてりゃ何とかなるんじゃないかと思っています。

もし、自分が何のために生きるのか、その答えが見つからないなら、その答えを探すことを当面の目的にして生きればいいんじゃないでしょうか。
見つかったと思ったらそれを生きる目的として、やっぱり違うなと思ったらまた別の目的を探して、そうして生きていけばいいんじゃないかしら。
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by kude104 | 2007-12-16 23:40