世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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痛いニュース(ノ∀`):アニメ製作者が、アニメの違法アップロード&ニワンゴに問題提起

たとえニコニコ動画に宣伝効果があるとしても、「俺達が作った物をお前が上げる権利はどこにも無い」という一点に尽きると思うんだよね。
小さな親切大きなお世話というか、本人嫌がっているのに「お前のためにもなるから」と言って無理やり勝手にやっちゃうのは、誉められたことではないでしょう。

一番いいのは、ニコニコ動画側がお金払って権利関係きちんとして「アップしてOK」という状況を作ることだと思います。
権利者側からすれば、もちろん他にもいろいろな問題があるとはいえ、とどのつまりはお金の問題ですから。
儲かるとなれば、許可してもいいですよとなってくるでしょう。

でも、ニコニコ動画側は運営コストを賄うだけでアップアップな状況らしいから、これはあまり期待できそうにない。
そこで、ユーザが自らお金を出し合って解決する方法を検討してみてはどうだろう。

アニメの製作費ってよく知らないですが、1億円くらいあればいいでしょうか。
一人1万円を持ち寄って1万人集まれば1億円。
ニコニコ動画のユーザ数が200万人くらいいるそうなので、0.5%が賛同すれば資金が集まる計算です。

ニコニコファンドとかいう主体を作って、企画を立てて出資者募って、資金が集まればそれでアニメを製作。
出来たアニメはニコニコ動画内で無料配信。
もちろん、それを元にしたMADなんかも自由に作ってアップして良し――みたいな感じで。

いわば、ニコニコ動画の共有財産として、みんなでお金出し合ってニコニコ動画オリジナルアニメを作りましょうという話です。
それが理想的に充実すれば、もうテレビアニメなんて要らなくなるじゃん。
誰にうるさく言われることなく、自由にニコニコ動画を楽しめるってもんです。

ニコニコファンドのほうでDVDの製作販売も行い、そこで得られた利益は出資者に還元すればどうでしょう。
他にも、キャラクターグッズの販売など諸々、そのアニメが当たって儲けが発生したら、それも出資者に還元するってことで。

こうしたコンテンツファンドみたいなものが成功したという話はあまり聞きませんが、ニコニコ動画というコミュニティの特殊性を考えると、もしかしたら・・・?という気がしないでもない。
ニコニコ動画に本当に宣伝効果とやらがあるのであれば、DVDも売れるんじゃない?
最悪まるで収益上がらなくても、赤字は出資者が出資した1万円分だけなので、それはニコニコ動画共有財産に寄付したと思って頂くってことで、ダメでしょうかね。

それでもし万が一にも上手く行こうものなら、けっこう面白いことになりますよね。
だってそうなれば、テレビ局じゃなくて、ニコニコファンドに企画を持ち込むアニメ製作会社とかが出てくるでしょうから。
いずれ全部ニコニコ動画に移ってしまって、テレビからアニメがなくなったりして。

・・・まぁ、無理でしょうけど。
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by kude104 | 2007-10-28 23:59 | PC&ネット

CGMの向き不向き

前回の続きというか。

僕の敵は「オタク」ではなくて「CGM翼賛体制」です - araig:net

CGM(Consumer Generated Media~「消費者発信型メディア」とでも言うのかな)からは、『絶対に、何も、生まれない』という発言について。
端的に思うところを述べれば、『CGM翼賛』も『CGM全否定』も、どちらも極端――という、まこと面白くない話になってしまうわけだけども。

たとえば、現在CGMの輝かしき代表であるニコニコ動画から、これまでに様々なコンテンツが生まれています。
そこに、ソフトウェアのオープンソース開発に通じるものを見る人は多いでしょう。

では、そのオープンソースは万能かというと、決してそんなことはなくて。
どこかで誰かが述べていらしたと記憶していますが、オープンソース開発にも得手不得手というか、向き不向きがあるようです。
簡単に言うと、既存のソフトウェアをオープンソース化するのは得意だけど、オープンソースでまったく斬新なソフトウェアを開発するのは苦手だ、と。

で、CGMですが、CGMにも当然向き不向きがあるでしょう。
CGMといっても、ニコニコ動画もCGMならブログもCGMということで一括りに言うには多種多様ではありますが――。
たとえば、上記エントリーで引き合いに出されているケータイ小説と従来メディアの小説とをお笑い芸人にたとえると、こんな感じじゃないでしょうか。
ケータイ小説はバラエティ番組での当意即妙なアドリブの面白さ、従来メディアの小説はよく練られた漫才の面白さ。
フリートークが面白くても漫才ネタが面白いとは限らないし、逆もまたしかりです。
ごく稀に両方面白い芸人さんがいますが、基本的には、テレビ芸人と舞台芸人とでは、必要とされる才能が違う。

ですから、舞台漫才が好きな人にとっては、テレビの影響でアドリブ芸人が大量発生するのは嘆かわしいということになるだろうし、テレビのバラエティ番組が好きな人にとっては、アドリブ芸人大いに結構ということになるだろうし。

向き不向きで言えば、CGMはアドリブ芸人向きだと思います。
当意即妙でスピーディーなのに向いているように思う。
また、消費者参加型だけに、「あるあるネタ」――上記エントリーでは「約束された感動」と書かれていますが、要するに、みんなで「あるある」と共感しあうものが好まれる傾向もあるでしょう。

いずれにしても、個人個人の趣味嗜好はどうあれ、世の中全体の大きな流れとしては、おそらく、娯楽だけ大量生産大量消費の傾向に抗えるなんてことは、ないと思うのです。
世の中のあらゆるものはファーストフード化する。
それはコンテンツにおいても然りです。
そんな中にあって、回転寿司で食事をするか、回らない寿司屋で食事をするかは、個人の好き好きということで。
ぼくらには、自分の好きな店で食事をして、その店が潰れないことを祈るくらいしかできることはないのではないでしょうか。
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by kude104 | 2007-10-25 23:08 | PC&ネット
初音ミクの魅力がオタクでない僕には分からないので教えて下さい - araig:net

ぼくは、初音ミク作品には今のところ正直あまり興味がないのだけど、初音ミクフィーバーとでも言うべきこのムーブメントには非常に興味をそそられます。

で、上記エントリーの問いの発端である「初音ミクの魅力はオタクにしかわからないのか?」という命題だけど、現時点ではYesであろうというのがぼくの印象。
ただ、多くの人が、初音ミクの潜在的ポテンシャルはNoであると――つまり、初音ミク(の進化系)は“オタクのおもちゃ”に留まるものではないと思っているだろうことは分かるし、ぼくもその可能性は大いに感じます。

初音ミクというVOCAROIDが、初音ミクというキャラクターを与えられたことでブレイクしたという点に疑問の余地はないだろうと思います。
もちろん、VOCAROIDとしての性能が優れていた――単純性能としての優劣で言えば従来作品と同等か、あるいはそれ以下なのかもしれませんが、初めてVOCAROIDというものに触れたユーザの想像していた性能よりも優れていた――ことは重要です。
でも、ブレイクの発端として、まずキャラクターありきだったことは間違いない。
そして、初音ミクというキャラクターは“オタク的”です。
専門家(?)に言わせれば違うのかも知れませんけど、外から見たら十分オタク的に見える。

で。
初音ミクが特異なのは、今のところ“初音ミク”というソフトで作られた作品のすべてが“初音ミク”というキャラクターとしてパッケージされる点です。
これにより、初音ミクというソフトで作られた楽曲の支持と初音ミクというキャラクターの支持とが、どちらも「初音ミクっていいよね」というところで一緒になる。
なので、ソフトウェア初音ミクの楽曲の素晴らしさをいくら力説しても、現時点では、キャラクター初音ミクが持つオタクイメージに引きずられてしまうことになるのだと思います。

それは、もし初音ミクのキャラクターイメージがもっと別なものであったら――と考えてみると分かる。
もし初音ミクが初音ミクじゃなくて、たとえばNHK教育の子供向け番組のキャラクターみたいなやつだったらどうだろう。
「初音ミクはオタクっぽい」という話ではなくて、「初音ミクは子供っぽい」という話になっていたんじゃないだろうか。
あるいは、初音ミクがまったく無機質なただのソフトウェアだったら、普通に単にすごいソフトウェアってことで静かに盛り上がっていたかも知れない。

初音ミクというソフトが垣間見せる可能性というのは、本当にすごいものだと思う。
そりゃ、現時点の初音ミクは、まだまだだと思うよ。
「人間に置き換わる」という意味では、まだまだそこまでは達しないでしょう。
でも、3代目、4代目あたりの初音ミクは分からない。
もしかしたら・・・と思わせるだけのものはある。

ただ、そうなったときの初音ミクは、つまり、オタクイメージから脱却して一般化した初音ミクは、確実に初音ミクというキャラクターを纏ってはいないでしょう。
名もなきただの無機質なソフトウェアになっているだろうと思います。
もしかしたら初音ミクという名のVOCAROIDは依然残っていて、アイドルとして人気を保っているかも知れませんが、その初音ミクのファンは今と変わらず世間的にはオタクと見られていることでしょう。

初音ミクが初音ミクというキャラクターを纏う限り、それは「オタク的なもの」と見られる。
でも、それはそれでいいと思う。
キャラクター初音ミクの魅力は、それはそれでいいものだと思う。
一方で、オタクだけに留まらない可能性を初音ミクに見るのも、そう的外れだとは思えない。
VOCAROIDはまだまだ進化するだろうし、それがあるレベルを超えれば、純粋に楽器として使用されるようになるでしょう。
でもそれはキャラクター初音ミクの未来ではなく、ソフトウェア初音ミクの未来でしょう。

初音ミクのキャラクターとしての魅力と、初音ミクのVOCAROIDとしての性能と、VOCAROIDというものの可能性と、初音ミクで作られた楽曲の魅力と、さらにはニコニコ動画の話と、CGMの話と・・・ああ、こんなにもいろいろなトピックが「初音ミク」というキーワードにまつわって語られるのだから、初音ミクフィーバーは実に興味深い。
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by kude104 | 2007-10-22 23:59 | PC&ネット
前回の続き

神様から「決して食べてはならない」と言われていた「善悪の知識の実」を、サタンが操る蛇にそそのかされてアダムとイブが食べてしまったがために、人類は永遠の命を失い、楽園を追放された――という失楽園のエピソード。

なぜ、神様は楽園のど真ん中なんて目立つ位置に禁断の実の成る樹を植えたのか。
なぜ、禁断の実は「善悪の知識の実」だったのか。
なぜ、その実を食べると永遠の命を失い、楽園を追われるのか。
なぜ、神様はサタンの存在を許しているのか。

神様を全知全能であるとするならば、サタンが誕生したときに、「うそ? なんでそんなものが誕生するの?」と不思議がるはずがない。
よって、神様にとってサタンの誕生は、“予定通り”の出来事であったろうと考えられます。
当然、サタンがアダムとイブをそそのかすであろうことも、お見通しだったでしょう。

同じように、アダムとイブが約束を破ったときも、「うそ? あいつらがなんで?」と驚いたり、不思議がったりするはずがない。
神様にとって、アダムとイブが禁断の実を食べるであろうことは、おそらく初めからお見通しだったに違いない。
だいたい、鼻先にニンジンぶら下げて「絶対食べちゃダメ」と言うシチュエーションは、ダチョウ倶楽部のネタじゃなくても、「結局食べちゃう」パターン見え見えじゃないですか。

つまり、まとめるとこうなります。
1.神様にとって、サタンの誕生は予定通りの出来事。
2.サタンがアダムとイブをそそのかすことも分かっていた。
3.結果、アダムとイブが禁断の実を食べることも分かっていた。
4.それなのに、楽園の一番目立つところに禁断の実のなる樹を配置した。

これら一連の行動から読み取れる神様の意図は、素直に考えればこうじゃないでしょうか。
すなわち、神様はアダムとイブが約束を破って禁断の実を食べることを望んでいた――と。
上のすべては、そのためのお膳立てと考えると筋が通る。
禁断の実はアダムとイブが誘惑されやすいよう目立つ場所に配置されなければならないし、アダムとイブをそそのかす存在としてサタンがいなければならない。

ではなぜ、神様はそのように手の込んだことをしたのか。
その答えは、禁断の実が「善悪の知識の実」であったことを考えると推測できる。
つまり、この失楽園のエピソードは、人間が善悪という概念を学ぶためのイベントだったのではないか――というのがぼくの考えです。

罪であったり、してはいけないことであったり、そういうものを学習するときというのは、どういうときか。
まだ何も知らない子供がそれを学ぶのはどういうときか。
それは、怒られたときですよね。
そして、罰を受けたときでしょう。

神様は、人間を“善悪”を知るものとしてお造りになろうとしたのではないか。
善と悪とは表裏一体ですから、善という概念を作るには、悪という概念を作る必要がある。

そして、何が善で何が悪かということを単純に考えた場合、「相手の益になることが善、不利益になることが悪」と言えるのではないでしょうか。
「ひとの喜ぶことをしなさい。困ることをしてはいけません」みたいな。
ところが、楽園を追われる前のアダムとイブというのは、永遠の命を持ち、病気も怪我もせず、食べ物は無尽蔵にある――そういう、言わば無限の世界に住んでいました。
そんな無限の世界において、益不利益という概念は存在しないでしょう。
つまり、無限の世界である楽園においては善も悪も存在しえないのです。
だから、善悪を知ったアダムとイブは永遠の命を失い、楽園を追われ、すなわち有限の世界の住人にならざるを得なかったのではないかと考えます。

さらに考えを進めると、この因果関係は逆と考えるのが正しいように思います。
すなわち、善悪の知識を学習させるために仕方なく楽園を追放したのではなく、楽園を追放するにあたって必然として善悪の知識を学習させた――と。

神様は人間を楽園から地上に送ろうと考えていた。
しかし、地上は有限の世界であるから、送り込むにあたって、善悪の知識を学習させておく必要がある。
そこで、人間を楽園から巣立たせ、しかも同時に善悪の知識を学習させるための一石二鳥の策として、神様が一芝居打ったのではないでしょうか。
それは、たとえるなら、父親が息子を独り立ちさせるために、わざと喧嘩して追い出すようなものです。

なぜ、神様は人間を地上に送ったのかというと、それは繁殖のためではないかと考えます。
繁殖、つまり、子作りですね。
禁断の実を食べて、アダムとイブが、自分たちが裸であることに気付いて急に恥ずかしくなるというくだりがあります。
また、禁断の実をたべた罰として、イブは出産の痛みを負わされるというくだりもある。
おそらく、禁断の実を食べると同時に、アダムとイブに生殖機能が備わったのではないでしょうか。

正確に言えば、アダムとイブに生殖機能を持たせるために、彼らを有限の世界の住人にする必要があったのではないか。

なぜなら、子供を産み育てる――成長するというのは、無限の世界ではありえない現象でしょう。
誕生と消滅は、おそらくセットなんだろうと思います。
老化と成長が同義であるように。

その証拠にというと変ですけど、楽園でのアダムとイブに子供を作る気配はない。
二人が子供をもうけるのは、地上に降りてからですよね。

――というのが、冊子を読んで考えたぼくなりの失楽園の解釈です。
とりあえず、現状ではこれが一番筋の通る解釈かなと思うのですが、どうでしょう。
もちろん、「神様は全知全能ではない」とか「聖書なんて全部ファンタジー」とか、そういう解釈のほうが筋が通るとも言えますが、それを言っちゃあ面白くないので。
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by kude104 | 2007-10-17 23:59
前回の続き
なにやら宗教ブログの香りが漂い始めていないかと心配になってくる第3弾。
ただ、今回は直接冊子の内容とは無関係に、ぼくの勝手な思考ゲームです。

冊子を読んでいて、やはりもっとも興味を引かれるエピソードは、アダムとイブが楽園を追放されたというそれです。
聖書における人類の物語――“罪”と“不幸”と“信仰”と“救済”の物語は、すべてここから始まっているという点から見ても、もっとも重要なエピソードであると言えるでしょう。
(キリスト教的には、イエスの贖罪のほうがより重要度が高いのでしょうけど)

神様から「決して食べてはならない」と言われていた「善悪の知識の実」を、サタンが操る蛇にそそのかされてアダムとイブが食べてしまったがために、人類は永遠の命を失い、楽園を追放された――というこの物語。
ここで、この食べてはならない禁断の実が「善悪の知識の実」というのが興味深いですね。

なぜ、アダムとイブは神様との約束を破って禁断の実を食べてしまったのか?
蛇にそそのかされたとはいえ、普通に考えれば、たかが蛇に言われたくらいで神様から「ダメ、絶対!」と言われているものを食べるだろうか?
――という疑問が生じますよね。

この疑問、こう考えると筋が通るのではないか。

アダムとイブがあっけなく禁断の実を食べてしまったのは、彼らが、それを食べることを禁じられていることは分かっていたけど、その禁を破ることが“悪いこと”だと知らなかったからじゃないだろうか。
なぜなら、彼らは「善悪の知識」を持たないのだから。

ロボットが禁止された行動を取らないのは、それが悪いことだと理解しているからではなく、単にプログラムによって禁止されているからに過ぎません。
ですから、他人にクラックされてプログラムを書き換えられると、躊躇なく禁止されていた行動も取るようになる。
「プログラムでは許可されているけど、これは悪いことだから・・・」とロボットに判断させようと思ったら、少なくとも、ロボットに「善悪の知識」を持たせる必要がありますよね。

つまり、アダムとイブは蛇(を操るサタン)にクラックされて、プログラムを書き換えられてしまったんじゃないだろうか。
善悪の知識がない彼らに、サタンは悪い奴だとか、他人のクラックを許すのは悪いことだといった判断は無理でしょう。

そう考えるとアダムとイブの行動は理解できるのですが、このエピソードにはまだ謎が多くあります。

なぜ神様は、そんな楽園のど真ん中なんて目立つ位置に禁断の実の成る樹を植えたのか。
もっと目立たない場所に植えるとか、神様だったら、初めからそんな樹自体存在させなければいいではないか。

なぜ、禁断の実は「善悪の知識の実」だったのか。

なぜ、その実を食べると永遠の命を失い、楽園を追われるのか。

そもそもなぜ、神様はサタンの存在を許しているのか。
万物が神の創造であり、神が全知全能であるなら、サタンの誕生も、その放置も、神の意思を組んでいると考えるべきではないか。

これらの疑問に対する答えは、次回に。
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by kude104 | 2007-10-15 18:42
前回の続き
めげずに冊子を読み進めているわけですが、遅々として進まん。

読んでいて「話が通じない」感覚を覚える理由がなんとなく分かった気がする。
神の偉大さは聖書によって証明されていると冊子は言う。
で、その聖書に嘘偽りのないことは、神によって保証されているという。
・・・えーと、それって“堂々巡り”じゃないですかね?

「Aさんは嘘ついてないよ。だって、Bさんが証言してるもん」
「じゃ、そのBさんが嘘ついてたらどーすんの?」
「Bさんは嘘つかないよ。だって、Aさんが一番信頼している人だもん」
みたいな。

数学で言えば、あらゆる定理や法則がすべて「神は全知全能として存在する」という公理によって導かれ、証明されている感じ。
彼らにとっては、その公理は真理で疑いを挟む余地はない。
そして、この公理が成り立つと仮定すれば、たしかにすべての数式が矛盾なく成り立つ。
(なにしろ、この公理ってば0の掛け算みたいで、どんな値であっても掛けると0にする強力なパワーを有しているんだもの)

つまり、「神の存在」の公理のもとでは、彼らの論理に破綻はない。
「なにか綻び見つけて論破しちゃおっかなー」と思っていくら読んでも、「神の存在」の公理で説明できてしまう。

でも、この公理を疑うぼくにしてみると、それはなんの説明にもなっていないのと同じです。
では、公理が間違っていることを証明しようと思ってみても、これも難しい。
正しいと証明することもできなければ間違っていると証明することもできないし、そもそも彼らにしてみたら証明する必要すら感じないくらい、それは絶対の真理です。

公理を共有しない者同士がいくら理路整然とお互いの考えを述べたところで、「なに言ってんだ、こいつ」となるのは当然ですよね。
でも、逆に言えば、相手が前提としている公理が分かれば、共感できるかどうかは別にして、思考は理解できる。
自分と違う思考回路の働きを見るのは、それはそれでなかなか面白いです。

ところで、冊子などで引用される聖書にある一節――神の偉大さを証明する記述というのは、「神の偉大さを説いたAさんの言葉を聞いたBさんの言葉」をCさんが編集したもの、じゃないかと思います。
良く知らないけど。
公理を持たないぼくには、そこに伝言ゲームのような不確かさの可能性を感じなくもない。

誰かが嘘をついたり、間違えたり、改竄したり、取捨選択したり、そうする余地は十二分にあり得ましょう。
もしこれが聖書でなければ、たとえば裁判での証拠だとしたら、甚だ心もとないと言わざるを得ないのではないか。
Dさんが無罪である根拠として、Dさんは無罪だというAさんの話を聞いたというBさんの話をまとめたCさんの報告書を採用するようなもので、しかも、AさんもBさんもCさんもDさんの友人であるようなものでしょう。

そして、やたらと「神の偉大さは聖書のこれこれの記述によって証明されているのです」というくだりが出てくるのは、翻って考えると、それだけ証明されなければ疑わしいということでもあるのかな、と思ったりもします。
繰り返し証拠をあげて説明される真理って、なんかスケール小さく感じる。
まぁ、これに関しては、あるいは「すげぇ! ここにも、ここにも、ここにも神の偉大さの証明がある!」ってな感じでテンション上がってしまって、思わずあちこちに書いてしまったということかもしれない。
そういうのは微笑ましくて嫌いじゃない。
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by kude104 | 2007-10-13 14:38
うちにも時々宗教の勧誘の方がいらっしゃるのですが、いつもインターフォン越しとはいえ、一通り話を聞いて冊子をポストに入れておくことを許可しているものですから、「このひと脈ありかも?」と思われたのでしょうか。
今日はいつもより親しげに話をし、そしてポストされた冊子には「関心をお持ちいただければ嬉しいです」的な手書きの一言メッセージが添えてありました。
まぁ、この程度の“接近”はぜんぜん気にしませんが、信仰する気もさらさらないので、無駄足を踏ませて悪いなぁ・・・と思わないでもありません。

とまぁ、せっかく何やら気合いの入った冊子(いつものペラペラのやつより分厚くて200ページ以上もある)をもらったことだし、ちょっくら興味がてら目を通してみるかと思ったのですが、いやはやなかなか一癖ある読み物ですね。

何と言ったらいいのだろう。
読んでいると、微妙に話が通じない感覚を覚えるのですよ。
「この人はいったい何を言っているのだろう?」的な。
微妙に論理的じゃない。
まったくの支離滅裂じゃなくて微妙に歪んでいる感覚が、ずっと読んでいると読み手の平衡感覚を狂わせるような。
そこに繰り返し、「神は絶対です、聖書は絶対です」的な文言が繰り返されるので、なにやら呪術的というか暗示に掛けられているかのような気がしてきます。
これ、心が弱ったときに読むと効くのかも知れないな。
まぁ、初めから斜に構えて読んでいる身には、突っ込みどころ多いなぁといった感じになっちゃうわけだけど。

冊子の冒頭で、「どうして神様は世の悪を取り除いてくれないのだろう?」という疑問を提示し、それに対する答えを述べようとしているのはいいね。
それって、まず誰もが思う疑問だもんね。

冊子答えて曰く――
「それは神の試練です」という人もいるけれどそれは違う。
それが神の試練なら、世の悪が神から出ていることになるから、それはおかしい。
神は試練を与えたりなどしないのです。

この回答はなかなか良い。
たしかに、阿鼻叫喚の地獄絵図のような不幸を“試練”で与える神様ってどうよ?って思ってしまうものね。
だから、試練じゃなくて、もっと別の理由があるのです、と。
その理由とは何かと言うと、冊子答えて曰く――

世の不幸は、人間がサタンにそそのかされて神の支配を拒否したために起こっている。
もちろん、神様は人間の間違いをただちに力でもって正すことはできるけれど、人間が自分でその間違いに気づくように、あえて人間の好きにさせていらっしゃるのです。

・・・そういう解釈は好きよ。
でも、「人間が自分でその間違いに気づくように、あえて」という、それを人は“試練”と呼ぶのではないでしょうか。

神はあえて、人を“自由意思”を持つものとして創造されたのだと冊子は言います。
冊子を読んでいて、ぼくが一番心が奮えたのは、アダムとエバの反逆のくだりです。
「自分たちには支配者としての神は必要ない。何が正しく何が間違っているかを自分たちで決定できる」としてアダムとエバは反逆したという。
なんという愚かで気高い宣言!
「何が正しく何が間違っているかは自分たちで決める」という、言うなれば魂の独立宣言ですよ。
それはたしかにこの世の不幸のすべてを秤にかけるに足る崇高なものかもしれないと思えるじゃないですか。
そのことを尊重するからこそ、神はあえて人間のなすがままに見守り、世の不幸に心を痛めつつもをそのままにしていらっしゃるのではないでしょうか。
喩えるならば、自立すると言って家を出た子供と、それを見守る父親の関係ですね。

そういう解釈であるなら、“試練”も仕方がないと思えます。
その場合、神は未来永劫救ってくれないことになりますが、しょうがない。
人間が自ら自治すると言い出したんですから、神に頼ることなく自治能力を獲得できるように頑張る他ない。
まぁ、ときどき実家からお米が送られてきたりするくらいの援助はあっていいと思いますけど、お父さん・・・みたいな。

しかしながら、冊子のほうでは、人は神の代わりにサタンの支配下に入ったことになっていますから、独立宣言と言うよりは主君換え宣言になっちゃってますね。
で、神様のほうも、いずれ最終的には悪を力で殲滅して、自らの支配を受け入れる人間集めて神の王国を築くおつもりだという話のようで。
このへんがよく分からないんだよなぁ。
それだったら、とっとと悪を殲滅して平和な世界を作ったらいいのに。
でないと、神に反逆するとひどい目に遭うことを知らしめるために今の“試練”があるということになって、初めの言葉と矛盾するんじゃないのかなぁ。

だいたい、諸悪の根源とも言えるサタンですが、これは“神の霊の子”のひとりが自ら悪魔になったという。
サタン誕生の前には悪は存在しなかったわけですから、言うなれば、完全なる善の世界においてすら悪は生まれるということです。
それは、神の全知全能性の矛盾にならないのだろうか。
だとすれば、善良なる人の子を集めて神の王国を築いたとて、そこにも悪は生まれるんじゃないのかなぁ。

――とまぁ、そんなことを思ってしまうわけですが、ただこれは冊子をすべて読んでの感想ではありませんので悪しからず。
適当なところをつまみ読みしただけです。
いちおうまぁ、礼儀として全部きちんと読むつもりですので、これはいわゆるファーストインプレッションとしての感想です。
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by kude104 | 2007-10-11 23:59
初音ミクのオリジナル曲に名作が続々と生まれている! :にゅーあきばどっとこむ

初音ミクというVOCALOID(歌声合成ソフトウェア)で作られたオリジナル楽曲ということだけど、すごいね。
かなりクオリティ高い。

でも、楽曲のクオリティが高ければ高いほど、やはりVOCALOIDの歌声の拙さが目立つように感じられます。
もちろん、機械的な合成でここまでの歌唱力が表現できることには、ただただ感嘆するわけだけど。
「これ、生身の人間の歌声乗せたら、もっといい歌になるんだろうな」と思っちゃうわけだ。

とはいえ、じゃあ実際に人間に歌わせたらと考えると、たしかに楽曲の完成度は上がるかもしれないけど、たぶん“普通”の楽曲になっちゃうんだろうな。
初音ミクが歌うから、価値があるのであって。

可能性があるとしたら、初音ミクの声を担当している声優さんが初音ミクっぽく歌うという形ならば、初音ミクのイメージを保ちつつ、歌声のクオリティを高められるかも知れない。
初音ミクのオリジナル楽曲を商品化しようという動きがあるようだけど、どうなんだろう、一般向けを考えるならそういう工夫はあっていいと思うのだけど。
でも、初音ミクファンの皆さんにとっては、この拙い歌声こそが魅力なのかも知れないから、難しいところですね。


それはそれとして。
ニコニコ動画における一連の作品の作られ方と言うのは、まさにオープンソース開発のそれですね。
オープンソース開発が上手くいくかどうかというのは、やはり1にも2にもコミュニティなのだということが、ニコニコ動画を見ているとよく分かります。

ニコニコ動画が秀でていると思う点は、音楽と映像とコメントという3つの要素によって成り立つところでしょう。
音楽と映像というのは、「他人の音楽に自分の映像をmixする」「他人の映像に自分の音楽をmixする」という共同作業が容易です。
素材そのものは音楽と映像という具合に独立しているのに、合わせてひとつの作品としたときの一体感は非常に高い。
もしこれが音楽だけ、映像だけだったら、別バージョンを作り出すには他人の作品を直接いじらなければならず、それはたぶん心理的な抵抗感が強いと思うのです。

そしてコメント。
音楽作りも映像作りも得手ではないというユーザも“作品作り”に参加できるという点で、このコメントこそがニコニコ動画のオープンソースのパワーの源なのは間違いない。
ニコニコ動画のコメントシステムのすごいところは、動画を観終わった後、最後にまとめて感想をコメントするというのではなく、その時その瞬間に感じたことをぱっとコメントするというリアルタイム感。
このリアルタイム感による勢いがコミュニティの熱になって、オープンソースを突き動かしているように感じます。

もうひとつ。
ニコニコ動画でオープンソースが発展したのは、やはり、市販の楽曲やテレビ番組のMADを作る文化が下地にあるからだろうと思います。
誰かがアップした作品に自分の創作をmixして再アップする――みたいなことを参加者全員が共通認識として許可するコミュニティを作ることは、実はかなり奇跡的に思えます。
しかも、これだけの才能を持った人たちを、これだけたくさん集めることは。
ニコニコ動画のシステムは容易に真似できても、このコミュニティ文化作りはそう簡単には真似できないでしょうね。

ただ、それだけに、ニコニコ動画のオープンソースパワーは、ニコニコ動画の文化に適したものに対してしか発揮されない。
たぶん、そこは非常に顕著な気がします。
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by kude104 | 2007-10-09 23:23 | PC&ネット
先日の「“就職氷河期世代”が中国で搾取されている件」からこなた、フリーターが正社員として就職するにはどうすればいいかと考えていたわけですが、裏ワザ、思いつきました。

フリーターがなかなか就職できない理由のひとつに、職歴の貧弱さがあると思うのです。
正社員として長らく務めた経歴の持ち主と、派遣やアルバイトを転々としている経歴の持ち主と、どちら採用されやすいかというと、やはり前者でしょう。
場合によっては、「一度も正社員として働いたことがない」というだけで門前払いされるケースだって多々あろうかと思います。

だったら、就職を希望するフリーターは、就職活動をする前に正社員として勤めた職歴を作っちゃえばいいんじゃない?
どうやって職歴作るかと言うと、ずばり、自分で会社を作っちゃうわけ。
採用してもらうのが難しいなら、自分で自分を採用しちゃえばいいじゃないかと。

会社を作るったって、もちろんペーパーカンパニーですよ。
いやまあ、きちんと活動できるならそのほうがいいけど(それで成功すれば、もう就職する必要なんてなくなるわけだし)、とりあえず今回の目的は職歴を作ることなんで。
形だけ、肩書きだけあればいい。
ただまぁ、職歴に「社長」とあるのは、どうなんだろう、なんとなく採用面ではマイナスっぽい気がするので、親か誰かを社長にして、自分はそれなりの役職で『就職』するなどの知恵は必要かも知れません。

本当に何も実態のないペーパーカンパニーでは騙しているようで心苦しいので、とりあえずネットでホームページ作って広告料を収益とする会社です、とかどうでしょうね。
本気で収益を上げる気がないので、ホームページ作りなんてテキトーでOKです。
でも、テキトーとはいえ、ちゃんと作って運営していれば、最低限の恰好はつくというもの。
テキトーか真剣かという点を除けば、ホームページを作って広告料を収益とする会社や、全然儲かっていない会社はたくさんあるわけで、形の上では違いはない。

どうせなら、初めにフリーターになった時点で、こうした会社を作って、そこに就職しておくといいでしょう。
つまり、フリーターのほうを『副業』にするわけ。
こうすれば、アルバイトを転々としても、本業のほうはずっと一所に勤めていることになりますよね。

――というアイデアなのですが、いや、実際に可能かどうかは知りませんよ。
たぶん、本当にやろうと思ったら、いろいろ難しいところが出てくるんでしょうねきっと。
まぁ、ふと思いついた与太話です。
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by kude104 | 2007-10-07 23:59

意図せぬ盗作を回避する

空気を読まない中杜カズサ - 現代において盗作が生まれやすい理由

第一には、ネットによって盗作が発覚しやすくなった――ということだろうと思います。
以前なら気付かなかったものが、あるいは誰かが気付いても衆人の知るところとはならなかったものが、今はネットで簡単に気付き、広まりますから。

もう一つの可能性としては、昔は作家のインプットも限られていたものが、今はネットから流れてくる大量の情報をシャワーのように浴びるようになり、どれが自分の中から湧いて出たアイデアで、どれがいつかどこかで浴びた情報なのか分からなくなってしまう――というのも、あるだろうと思います。


そんな時代にあって、物書きさんはどうすれば意図せぬ盗作をせずに済むのかと考えてみたのですが、ネットによって盗作を見つけやすいということは、翻って考えると、『盗作』を事前にチェックできるということでもありますよね。

たとえば小説のアイデアを思いついたときに、「ストーリー ループ 放送」でググってみて、似たようなものがヒットしないかどうかをチェックすればいいのではないか。
とりあえず、(検索の仕方が悪いというのは置いておいて)グーグル様でヒットしなけりゃ、それは『盗作』ではない――仮に被っている作品があったとしても、私はそれを知りませんでした――という主張が立つのではないか。
ググった結果のスクリーンショットなりを保存しておいて、「執筆した時点では、ほら、ヒットしてないでしょ?」という証拠にすればいい。
もちろん、そんなスクリーンショットではきちんとした証拠にはならないですけど、意図せぬ盗作の濡れ衣を着せられそうな時に、その騒動を少しでも鎮静化するのには役立つだろうと思います。

まぁ、正直、そういう確認作業は編集部の仕事かな、とは思いますけど。
今回のモバゲー大賞にしても、お前、大賞選ぶ前にそのくらいチェックしろよと。
今回の『類似』が意図的であったにせよ偶然であったにせよ、大賞あげた時点で運営側がお墨付きを与えたってことだからね。
ネットの投稿と違って、「大賞」に選んだ作品に対して「内容に一切責任は持ちません」では通らんだろ。
その時点では分からなくて、事後に事実が発覚したとかならともかく、今回のケースは選考時点でググれば分かった『類似』でしょ?
なら、いずれにしても運営側の落ち度は否めない。
そのへんのこと、運営側にノウハウがなかったんでしょうね、きっと。
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by kude104 | 2007-10-06 23:59 | PC&ネット