世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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<   2007年 08月 ( 10 )   > この月の画像一覧

今週まったく更新してなかったのね。
そんなこんなで気がつけばもう月末ということで、例によって、次の映画サービスデーに観る映画の選定ネタでも。

明日、世間的にはまだ夏休みでしょうか?
いちおう今回は「レミーのおいしいレストラン」を第一候補として考えているのですが、さあそこですよ、もし明日が夏休み最後の土曜日の映画サービスデーということですと、こりゃあ人が多かろうと。
お子様連れが多かろうと思うわけですよ。

「レミーのおいしいレストラン」がいっぱいだとなれば、第二候補はどうだろう。
うーん、やっぱり、ジャッキーファンとしては「ラッシュアワー3」かなぁ。
ただ、これはもう、だいたいどういう映画か想像がつく。
60点くらいのジャッキー映画でしょう、きっと。
だからまぁなんというか、正直、ジャッキー映画ということでなければ候補に挙げないわけだけど、でも、見逃すのもなんか悔しい。
ジャッキー映画だから。
考えようによっては、そういう映画こそ、映画サービスデーという格安料金で観るのにふさわしいという気もする。

他には、マイケルムーアの「シッコ」も観てみたい。
期待値で言えば、こちらのほうが第二候補なのですが、これを上映する映画館は、実は毎週火曜日に男性サービスデーを設けているのですね。
なのでまぁ、今回の映画サービスデーは他の映画を見て、これは後日男性サービスデーに観ようと思っている次第です。
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by kude104 | 2007-08-31 22:52 | 映画
アンカテ(Uncategorizable Blog) - 「世の中は厳しい」なんて大嘘

一読したときはスルーしたけど、このエントリーについての様々な反応を読んでいると面白くて、じゃあぼくもなにか言及してみようという気になりました。
こういうのを、尻馬に乗ると言うのでしょう。

ネットを活用して、個として稼ぐ人は今後ますます増えるでしょう。
一方企業では、効率化によって、必要とされる従業員の数は今後ますます減るでしょう。
じゃあ、前者の増加分と後者の減少分とではどちらが多くなるかというと、まぁ単純にイメージすると後者の減少分のほうが多いのではないかな・・・と思います。

たしかに、兼業アーティストは増えるでしょう。
ただ、それはおそらく「日曜大工」と同じ程度のことだろうと思います。
アーティスト活動で月20万円稼げる兼業アーティストは、たぶんそんなに多くない。
ニッチ市場というのは市場規模が大きくないからニッチなのであって、月20万円稼げるニッチ市場はそんなに多くないように思う。
それこそプロスポーツ選手になるのと同じで、マイナースポーツのプロにはなりやすいけど、それで食べていくのは大変だ・・・みたいな。

アンカテさんの上記エントリーは、読みようによっては、まるで地球からの独立を叫ぶスペースノイドの演説のようですね。
「企業で働くオールドタイプが、ネットでフリーランスで活躍せんとするニュータイプを阻害する、それはすでに悪である! 起て、優良種たる兼業アーティストたちよ! ジークジオン!」みたいな。
“無能な”オールドタイプ対“優秀な”ニュータイプという図式に加えて、「ニュータイプになるのなんて簡単だよ」という発言が神経を逆なでするというか、煽っているように読めてなりません。

ネットの中に価値を引き出し育てる仕組みがたくさんあるなら、個人と同じく企業もネットによって価値を引き出され育つでしょう。
また、ネットによって人と企業のマッチングがより良いものになっていけば、「人は誰でも自分の能力を生かせる企業に就職できる」と言えるでしょう。
そうなれば、優秀な企業が増え、そこで働く優秀な従業員が増えることになりはしまいか。
――そういう未来図だって描けますよね。

ネットが個人の可能性を拓くのと同じように、企業の可能性もネットによって拓かれるとぼくは思っています。
ネットによって拓かれた新しい企業が、すでにもう現れ始めていますよね。
そういう世の中でどのように生きるかは人それぞれで、甘いも厳しいも人それぞれでしょう。
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by kude104 | 2007-08-25 23:59 | PC&ネット
ゲームらしいゲームよどこへいく - [ゲーム業界ニュース]All About

従来型のゲームらしいゲームが衰え、代わりにツール系のいわゆる実用ゲームが台頭してきた――ように見えるのには、いろいろな理由があると思う。

従来型ゲームの衰えた理由として、まず、マンネリでしょう。
ゲームというものが十分成熟して、もうちょっとやそっとじゃ「新しいゲーム」が生まれえなくなってしまったということ。

次に、たぶんゲームユーザの中心層というものが、基本的にファミコン世代がそのまま歳とって推移してきたのではないかと思う。
もしそうなら、中学高校大学と進むに従ってゲーム以外の時間が増え、最終的に社会人になってしまったら、結婚して家庭を持ったら、それこそ「ゲームしている暇がない」ということで、ゲーム人口はどんどん減少していくでしょう。

そこで任天堂が採った戦略というのは、まず携帯ゲームへの注力。
家じゃないと遊べないゲーム機と、通勤通学の合間にも遊べるゲーム機と、どちらのゲーム時間が多くなるかは考えるまでもない。
これにより、ゲームで遊ぶ時間のないユーザに戻ってきてもらおうという戦略です。

そして、インターフェイスの大転換。
タッチペンやWiiリモコンなどの新しいインターフェイスで遊ぶゲームを作ることによって、「新しいゲーム」を生み出そうというわけですね。
これによってマンネルを打破し、ゲームに飽きていたユーザに戻ってきてもらうとともに、新しいユーザにも来てもらおうという戦略です。

実用ゲームのリリースも、新しいユーザを呼び込むための戦略のひとつと考えられます。
それが大ヒットした理由は、ひとつには新鮮だったこと。
ふたつには、書籍もそうだと思うけど、消費者が広く一般層になると、エンタメ系より実用系のほうが売れるんですよね。
人は、単純なエンタメより、なにかしら役に立つこと、自分への投資に対してお金を使いたがるものですから。

ただ、だからといって、従来型ゲームは売れない、実用ゲームは売れるということでは、もちろんないでしょう。
従来型ゲームでも、上記のようなユーザ層の変化というかユーザニーズの変化をきちんと踏まえて作られたゲームは売れる。
実用ゲームでも、安易に実用ソフトをそのままゲーム機に持ってきたのでは売れない。
いま、実用ゲームが売れているというけれど、バブル的側面も多分にあって、実用ゲームだろうと本質的には楽しくなければ売れないんだろうと思う。

ですから、ゲームらしいゲームが衰え、実用ゲームが売れているように見えるのは、ゲーム的な要素が不要になったのではなく、むしろ原点回帰の表れではないかと思うのです。
操作するのが楽しいとか、シンプルなゲーム性とか、そういったゲームらしいゲームの面白さに、ごちゃごちゃと過剰なボリュームをデコレーションしちゃってる「従来型ゲーム」が敬遠されているだけと見るべきではないでしょうか。
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by kude104 | 2007-08-23 22:47 | ゲーム
FPN-頑張る 頑張れ と言う言葉

一般的には、「がんばれ!」は「ファイト!」とか「健闘を祈る!」といった気合い注入や激励の意味合いで、「がんばって」は「応援してるよ」というニュアンスで、「がんばります」は「ベストを尽くします」といった意味合いになるでしょうか。

「がんばって」と言われて、「言われんでも頑張っとるわい! これ以上、どう頑張れっちゅうねん!」と腹を立てる人もいるようですが、そういう人は、相手がどういう気持ちでその言葉を口にしているのかを読み取る能力が低いのではないかと思う。
同じ「バカ」でも、罵倒のバカもあれば親愛のバカもあるように、「がんばれ、がんばる」という言葉も、常に辞書通りの意味で使われているわけではなかろうと思う。

また、いい例が思いつかないけど、たとえば「ありがとう」が「有り難し」すなわち「滅多にない」みたいなところから来ているからといって、「ありがとう」という相手に、「ちっとも珍しくないよ!」と怒る人もいるまい。
そんなふうに、「がんばって」も慣用句というか挨拶、おきまりのフレーズのようなものになっていると見てもいいようにも思うけどなぁ。

まぁ、とはいえ、相手が「がんばれ」に不快感を覚える恐れがあるのなら、使わないほうが無難ではあります。
なので、「がんばれ」に代わる別のフレーズを考えてみましょう。

「がんばれ」というフレーズは言いやすいので、それに代わるフレーズも、同じくらいぱっと口に出てくるものでなければならない。
その点で言えば、「ファイト」でしょうか。
でも、「がんばれ」に拒否反応を持つ人は、きっと「ファイト」にだって、「戦えって、ひどい!」みたいに思うんだろうな。
辞書的な意味で言えば、むしろ「ファイト」のほうが「ばんがれ」よりハードな気もするし。

最近の風潮で言うなら、「楽しんで」なんかが支持されるかも知れませんね。
スポーツ選手とか、昔なら「がんばります」と言っていただろう場面で、「楽しみたいと思います」っていうのをよく目にするし。
「がんばれ」だとスポコンなイメージがして拒否反応もあろうかと思いますが、「楽しんで」だと柔らかいイメージがしますので、さほど不快感もないんじゃないでしょうか。
でも、「楽しめ」と言われて「楽しめるか!」と怒る人がいる可能性はまだ否定できません。

ならばやはり、「応援する」「応援してるよ」というフレーズでしょうか。
「がんばれ」は相手に対する要求だけど、「応援する」は自分の行動を宣言するフレーズですから、言われるほうはノープレッシャーです。
これなら辞書的な意味でも大丈夫でしょう。
ただ、多少言いづらい感じはありますね。
「がんばって」のように、ぱっと「応援してるよ」と口に出てくるかというと、ちょっと・・・。

もういっそのこと、音は「がんばる」なんだけど、漢字で書くと「願貼る」とかさ、なんか適当に別単語に仕立て上げてさ、意味は「願いを込めること、転じて相手への励まし」みたいなことにしてしまうのが簡単かもしれない。
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by kude104 | 2007-08-21 23:59

卒論代行は大学が悪い

1文字5円、卒論に代行業者…大学は「見つけたら除籍」 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

頼むほうが愚かだと思うばかりで、業者を「犯罪者」呼ばわりするのは違う気がする。
別に詐欺行為ってわけでもないようだし。
それとも、卒論を代行して書くのに何か法的な資格が必要なのだろうか。

需要がなければ供給もなくなるわけで、つまりは、こんなサービスを利用しようという学生がいなくなればよい話だ。
なので、大学側は、自分のところの学生がこんなサービスを利用しないよう指導すればよいだけの話ということになる。
それを、業者側を非難し潰そうとするのは、翻って言えば、学生側をそのように指導できないと認めるようなものではないのかな。
需要を断てないから供給を断とうと。

理系の場合は「研究」をして、その成果を卒論にまとめる形になるので、丸投げはほぼ不可能でしょう。
ぼくは理系だったので文系のことはよく分からないのですが、「文系にも研究ってあるの? ないとしたら、卒論にはなにを書くの?」というのはたしかに疑問でした。
でも、文系だって、論文を書こうと思ったらそれなりの「研究」は必要だろうと思います。
少なくとも一年か半年くらいは時間をかけた研究が必要になるでしょう。
中間報告のような形で指導教官がそれをきちんとチェックしていれば、卒論丸投げ以前に、指導すべき学生は指導すべきと分かるのではないのか。

だとしたら、卒論代行が行われる理由のひとつに、指導教官がきちんと学生の指導をしていないから、というのが考えられる。
この場合、それは学生でも代行業者でもなく、指導教官が悪い。
大学が悪い。
その大学は学生をきちんと育てられない大学ということになる。

あるいは、研究なしで書けてしまえる程度の卒論でOKということなのだろうか。
一ヶ月間くらい文献調べてまとめれば一丁上がり、みたいな。
その程度の卒論でOKなんだったら、そんなもん、誰が書いたって別にいいじゃないかという気がするなぁ。
形だけの卒論なわけでしょ。
ああ、でも逆に言うと、形だけの卒論だからこそ、本人が苦労して書くことが重要なのかも知れない。
卒論の内容に意味はなく、修行と同じで、苦労するところに意味があるという。
まぁ、たしかに、大学の卒論なんて大なり小なりそんなもんかも知れないけどね。

ただ、大学側の対応としては、代行を禁止することで防ぐのではなく、代行を頼む余地のない卒論を書かせる学問をして欲しいと思います。
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by kude104 | 2007-08-19 23:59
痛いニュース(ノ∀`):【携帯小説】“女子中高生携帯作家”の小説、「感動して一晩中泣いた」と同世代は絶賛…「援交・ホストネタばかりでバカバカしい」との批判も

ぼくは携帯小説を読んだことがないので想像でしかないですが、携帯小説を読む“女子中高生”たちは、たぶん、携帯小説をBBSへの投稿や友達とのメールのやり取りと同列のものとして読んでいるのではないかと思う。
だから、文章のクオリティは高いと逆に“リアル感”がなくなってしまうから低いほうがいいし、内容も教室のゴシック噂話的なものが好まれるのじゃないかな。
そうしたものは、たとえば、少女たちの交換日記など大人が真面目に読むものでないように、彼女たちの間でのみ共有される何かで成り立っているものなんだろうと思う。

その点はぼくの中で説明可能なので良しとして、それを書籍化して、果たしてそんなものが売れるのかという点はとても疑問です。
書籍化書籍化というけれど、実際、ほんとに売れてんの?
携帯小説は携帯電話上で読むから成立するものだと思うのだけど。

上の例で言えば、女子高生のメールのやり取りを書籍化するようなものだと考えればいい。
そんなものを書籍化して一般の書籍と同列に並べれば、そりゃ、「『小説』なんて言葉で呼ぶのもおこがましいほどヒドい」ものになるでしょう。
女子中高生たちと共有する何かを持たない大人が間違って買っちゃうと、そりゃ、読めたもんじゃねぇってことになる。
じゃあ、当の女子中高生たちが書籍化された携帯小説をわざわざ買うかって言うと、買わないでしょ。
彼女たちは本ではなく、もっぱら携帯で小説を読むから携帯小説が盛り上がっているんですから。
書籍化された携帯小説を読むなんてのは、感覚としては、メールをプリントアウトして読むようなもんじゃないでしょうかね。

おそらく、世間がまだ書籍化された携帯小説というものに馴染みのないうちに、「携帯小説サイトで人気の○○がついに書籍化!」という話題性で売れるうちに売ってしまおうという商売じゃないでしょうかね。
携帯小説というものを知らない人に売りつけようという。
で、読んだ人は十中八九「なんだこれ」となるから、次からは買わない。
だから、最初の一つを売りつけて終わりの商売な気がします。

べつに、携帯小説を楽しんでいる女子高生のレベルが低いとは思わない。
何度も言うように、あれは「小説」じゃなくて「メール」に分類するべき代物だろうと思うからです。
ただ、それを書籍化する出版社は、それがもし上記参照先の言うように『小説』なんて言葉で呼ぶのもおこがましいほどヒドいものであるのなら、出版社こそがレベルが低いと言われてしかるべきだと思う。
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by kude104 | 2007-08-13 23:59 |
今日は長崎に原子爆弾が投下された日ということで、核廃絶を世界に向けてどのようにアピールしていけばよいかについて考えてみました。
で、それにはやはり、映画が一番効果的なのではないかと思います。

原爆の被害の様子を生々しくビジュアル化した映画。
R-18指定くらいで、観た人の多くが気分悪くなっちゃうくらいのやつ。
たとえるなら、「はだしのゲン」みたいなやつ。

要は、核兵器に対する拒否反応をトラウマとして植え付けてしまうのが一番いいと思うのですね。
いくら「核兵器は恐ろしい」と頭で理解したところで、そういうのは別の理屈で簡単に上書きされてしまいますから、理屈ではなく、心に「核兵器拒絶」の感情を焼き付けちゃおうと。
で、心に焼きつけるのに、映画は実にうってつけだと思のです。
あの大スクリーンと、あの没入感。
テレビだとCMが入ったり、すぐチャンネル換えられたりするからね。

ただ問題は、仮にかなり出来のいい映画が作れたとしても、実際にお客さんに観てもらえなければ意味がないということです。
普通に原爆映画撮りましたというだけでは、ほとんど誰も観ないでしょう。
なんか、そのへんの公民館とかで無料で上映する教育的映画みたいな、そんな位置づけで終わってしまいそうです。
それでは充分な数のお客さんにトラウマを植え付けられない。
やはり、普通の商業映画館で全国ロードショーされるくらいでなくては。
そして当然、日本だけの上映で終わったのでも意味がない。
海外配給も視野に入れて・・・というか、海外配給こそを視野に入れなければ。

それには、日本映画として作るのではなく、海外で、外国映画として作るのがいいのではないかと考えます。
邦画で原爆の映画というと、言っちゃ悪いけど、「またか」みたいなところあるじゃないですか。
たぶん、外国からすれば、まったく関心を引かないですよ。
でも、外国の映画会社が原爆の映画を撮りましたってなると、「え、なんで外国で?」という意外性がありますよね。
それだけで、ひとつ話題性が生まれる。

そして何より、核兵器廃絶を現実のものとするなら、アメリカを動かさなくてはなりません。
つまり、この原爆の映画を、一人でも多くのアメリカ国民に観てもらわなければならないわけです。
「原爆投下は正しかった」というのが共通認識であろう国に、それはかなり難しいですよ。
日本が作った原爆映画をアメリカに持っていくというのは、国民感情として、中国の作った南京大虐殺の映画を日本に持ってこられるようなもの・・・という喩えはちょっとアレですかね。
要するにまぁ、「加害者」にしてみれば、「被害者」が作った「被害」の映画なんて観たくないってこと。
そういう反応は、至極当然だろうと思います。

ところが、これがたとえばクリント・イーストウッドが撮った原爆映画だと、どうでしょう。
アメリカ人の中にも、ちょっと観てみたいという人、出てくるんじゃないでしょうか。
まぁ、ハリウッド資本で原爆映画はたぶん撮れそうにないので、フランス映画あたりでどうにかなりませんかね。
海外でそれなりに話題になれば、日本人は観るんでね。

核廃絶の動きは、「まず日本で盛り上げて、そして世界で・・・」という動きではなく、「いきなり世界で盛り上げて、そうすれば日本でも盛り上がる」という発想のほうがいいのではないかと思います。
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by kude104 | 2007-08-09 23:57
On Off and Beyond: 著作権保護よりライブで稼ぐ、というビジネスモデル

Princeがイギリスで自身の新作CDを新聞の「オマケ」として無料で配ったという話。
その戦略の背景は、
「Princeはライブの稼ぎがメイン。印税収入はたいして重要ではない。CDは、ライブをプロモートするための広告ツールであり、別に違法コピーがどれほど出回ってもOK。むしろ、沢山出回って知名度が上がり、ライブに人が沢山来てもらったほうがよい。しかも、CDに頼らなければレコードレーベルに利益を搾り取られることもない」
とのこと。

すごいなぁ。
普通、なかなかここまで思い切れませんて。
でも、十数年後には、音楽業界はおそらくこっちのビジネスモデルにシフトするのではないかという気がします。
Princeはその先駆者として歴史に名前を刻むであろう。

物の値段というものは需要と供給で決まるわけで、じゃあ、原則無限に供給できるデジタルデータの値段が0円になるのは、当たり前のことなんですよね。
とはいえ、そのデジタルデータを作りだすのにはコストがかかるので、これはどうにかして回収しなければならない。
そこで考えられる戦略としては、大きく2通りしかないように思う。

ひとつは、デジタルデータの供給量をどうにかコントロールすることで、デジタルデータに値段を付ける方法。
もうひとつは、デジタルデータを無料で配布して、それ以外のところで儲ける方法。

前者に一番適しているのは、ネットゲームのアイテム課金じゃないでしょうか。
ネットゲーム内のデジタルデータであれば、供給量は技術的にコントロール可能です。
そして、ここが一番重要ですが、ネットゲームにおける有料アイテムというのは、有料であるが故に持っている人が少ない=希少価値があるということで、きちんと有料分の価値を持たせることができます。
アイテムを有料にすることが、ネットゲームの面白さに寄与するわけです。

対して、たとえば音楽データの供給量を著作権でコントロールしようとするのは、音楽の面白さに少しも寄与しない。
だから、まぁ、嫌われる。

一方後者の場合、代表的なのは広告モデルですけど。
でも、最近思うに、やっぱり物販であるとかイベントであるとか、リアルワールドで人と物が動いてお金が動くというモデルが一番強い。
つまり、“ライブ”であることが一番強いと思うのですね。
希少価値ということで言えば、ライブに優るものはないわけで。

なので、これからの時代は、デジタルデータはプロモーション素材として無料で配布し、収益はコンサートであったりグッズ販売であったり、そうした“ライブ”で上げるという仕組みを完成させたものが勝ち残るのではないかと思います。
デジタルデータそのものを販売する仕組みは、一部を除いて、たぶん時代遅れになるような気がします。
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by kude104 | 2007-08-08 23:59
( ;^ω^)<へいわぼけ: 戦争がない世界にするにはどうしたらいいのか

世界を統一することだろうね。

明治維新前は日本も国内でたびたび戦争が起きていたわけだけど、明治政府によって藩という「国」が解体されて日本国の「県」になったことで、国内での戦争はなくなりました。
もちろん、単純に「ひとつの国」にすれば戦争がなくなるわけではない。
統一後も、たびたび「内戦」が起こっている国もたくさんあるからね。

戦争がなぜ起きるのかというと、利害の対立を軍事力でもって解消しようとするからです。
ここで重要なのは、利害の対立それ自体は、必ず起こりうるということ。
経済活動を行う以上は、遅かれ早かれ、多かれ少なかれ、利害は必ず対立する。
双方譲れない利害の対立が発生したとき、それをどのようにして解決するかという問題が、どうすれば戦争をなくすことができるかという問題です。

双方譲らないAとBの対立を解決する方法は2つしかない。
AとBが暴力で勝ち負けを付けるか、第三者であるCが調停するか。
「話し合って解決する」のが理想ですが、それができれば「双方譲らない」とは言わないわけで。

で、この「第三者であるCが調停する」ということが、すなわち、「統一する」ということです。
AとBの暴力を封じ、両者の利害を調停し、その調停に不満があろうと従わせる。
このとき、Cに従わせるだけの力がなければ、いずれAかBかがCの調停を暴力で拒否するようになるかもしれない。
また、Cの調停が公平でなければ、やがてAかBかが不満を募らせ、Cからの独立を求めるようになるでしょう。
統一後も内戦の収まらない国というのは、国家に力がないか公平でないか、そんなところではないでしょうか。
逆に言えば、国家が調停者として立派に機能していれば、国内での戦争はなくせます。

同じことを地球規模に拡大すれば、戦争のない世界を実現させることができる。
ただ、世界を統一するのは、国を統一するのとは規模も複雑さもまるで違うから。
並大抵のことでは不可能だろうけどね。
でも、絶対に無理だとは思わない。
「有史以来、人類は常に戦争してきたのだから、これからもずっと戦争し続けるだろう」とは思わない。
だって、インターネットひとつ取ったって、有史以来、人類がインターネットを持った時代なんてなかったんだから。
つまり、環境が変われば、過去の常識なんていくらでも変わると思うのです。

ただ、戦争をなくすために戦争の悲惨さを訴えることは、有意義ではあるけどそれだけでは良くておそらく50%だろうと思う。
どれだけ戦争が悲惨なものだと知っていても、戦争をするときはする。
悲惨であると知るが故に、少しでも有利に事を運ぶために戦争することだってあるでしょう。
なので、なぜ、どういう理由で、どういう経緯で、過去戦争が行われたのか。
それを回避する道はなかったのか。
「戦争は悲惨だ」というのが感情面からのアプローチなら、そういったロジカルに戦争のことを考えるアプローチも必要だと思います。
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by kude104 | 2007-08-06 23:59

ダイハード4.0

というわけで、昨日は「ダイハード4.0」を観てきました。
いやー、面白かった。

何が面白いかというと、そりゃあもうアクションに次ぐアクションといった感じで、息も継がせぬ迫力とテンポに尽きるかと。
もうドッカンドッカン爆発するし、バンバンバンバン銃乱射するし。
こういうの作らせたら、やっぱりハリウッドの右に出る者はいないね。

今回は「知的なスリルとサスペンス」みたいな味付けはないけど、とにかく、ジョン・マクレーンのタフさをお楽しみください、といった感じで、その思い切りが良かったんじゃないかな。
設定としてはサイバーテロ犯との闘いといった感じで、多少は頭脳戦にもなるだろうと思っていたら、結局ジョン・マクレーンが暴力で制圧しました!みたいな話だもんね。
映画の中の人物とは言え、恐るべしジョン・マクレーン。
ザクくらいなら、たぶん生身で勝てる気がする。

1と比べると・・・みたいな話は当然あろうかと思いますが、あれはあれ、これはこれ。
まったく別物としてとらえたほうがいいだろうと思います。
喩えるなら、往年のアーノルド・シュワルツェネッガーやシルヴェスター・スタローンとか、あの系統のアクション映画の感じでしょうか。
ぼくは好きだな、こういう頭空っぽにして観られる映画。
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by kude104 | 2007-08-02 23:51 | 映画