世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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でんぞう

でんぞう:自分のオモイとあの人のオモイがマッチするかもしれないサービス

つまりは、こういうサービスだろうか。

「あの人ステキ」とかいう気持ちを直接伝えてキモ悪がられてもあれなんで、ワンクッション入れましょうと。
「でんぞう」を使うと、まずは「どこかの誰か」があなたのことをステキだと思っていますよというおおざっぱな情報だけを伝えることができる。
それでもし、幸運にも、その相手も自分のことを「あの人ステキ」と思っていたなら、その思いを同じように「でんぞう」を使って伝えようとしたならば、そこで初めて「両思い」が成立し、お互いに「誰々さんがあなたのことをステキだと言ってますよ」という情報が伝えられる――ってことですね?

いやまあ、面白いとは思うしニーズもあるだろうけど、なんだかなぁ。
自分の思いを相手に伝えることに、そこまで臆病にならねばならんものかね。

気持ちが一方通行のときは、スルーして「無かったこと」にしてほしい。
本気で気持ちを伝える前に一方通行だと分かれば、自分からだとバレなければ、そんなに傷つかなくて済む。
で、両思いだと分かったときだけ名乗り出たい。
――って、そんな安全志向なコミュニケーションって、気持ち悪くない?・・・と思うのは、ぼくがオールドタイプだからだろうか。

もしこのサービスを日常的に使いこなす人々がいるとすれば、そういう人たちはおそらく上記のように「傷つきたくない」からこのサービスを使うのとは違うんだろうな、という気がする。
たぶん、感覚的にはスパムのように手当たり次第に「good!」と送って、相手からも「good!」と帰ってきたケースに対して、初めてもう少し意識的なコミュニケーションを取ろうとする、という感じじゃないだろうか。
ソナーを打つように、まずはレーダーに反応する光点を調べるために「でんぞう」を打つ、みたいな。
もちろんそれは、大きくは「傷つかないため」の行動ではあるのだけど、そうしたダメージの回避行動以上に、無駄を省く効率的なコミュニケーションの志向であるような気がする。

そんなコミュニケーションされたら、オールドタイプはますますついていけなくなるだろうなぁ・・・ということで、このサービスがあまり流行りませんように。
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by kude104 | 2007-06-29 23:01 | PC&ネット
なんかもう暑くて暑くて暑くてやる気レス・・・てな気分。
そうこうしてる間に、気がつきゃもう月末だし。
ということで、毎月恒例の次の映画サービスデーに見る映画の選定でも。

今回はまぁ、「ダイ・ハード4.0」で決まりってことでいいんじゃないかなーと。
単純に面白いアクション映画ということで、まぁ、間違いないでしょ。

それ以外では、「キサラギ」がやたらと評判良くて、ちょっと気になる。
密室劇の推理物っぽい内容はたしかにそそられる一方で、この評判の良さが、なにかこう「マニア受け」の評判の良さなのでは・・・?という不信感がしないでもない。
とはいえ、もし評判通りの「掘り出し物」なんだったら、そりゃぜひ観てみたい気もするし。

安心感で選ぶなら「ダイハード」、多少ギャンブルするなら「キサラギ」といったところかなぁ。
あと、一番の決め手は混み具合と。
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by kude104 | 2007-06-28 23:59 | 映画
不倒城: 匿名ダイアリーの宗教議論が面白い

ぼくも、宗教は自分だけが信じている分には害はないけど、他人にも広めようとするところが煩わしいなと思う。
ま、それはなにも宗教に限ったことではないのだけど。
自分の価値観を他人に押し付けないというのは、コミュニケーションの基本じゃないでしょうか。

それで言えば、無宗教の人が、宗教を信じている人に対して、宗教を否定する考えを押し付けるのも表裏一体だと思う。
それは、「無宗教」教という宗教を広めようとする布教活動と同じだと思うんですよね。
良い悪いは別にして。

ところで、宗教にも、他人に広めようという気があまりなさそうなものもありますよね。
ぼくが知らないだけかもしれないけど、たとえば「禅宗」とかは、布教活動しているのをあまり見聞きしないです。

で、そのへん、外に広がろうとする宗教とそうでない宗教との違いはなんだろうと考えてみるわけですが、ひとつには、「世界を救う」ことを目的に掲げる宗教は外に広がろうとすると見て良いでしょう。
「自分たちを救うためには世界を変えるしかない」という思想の宗教も同じです。
要するに、世界を変えようとする宗教ですね。
これは当然で、広がらなければ世界を変えられませんから。

次に、ある程度以上の規模で組織的な宗教は、外に広がろうとすると見て良いでしょう。
絶対とは言えませんが、基本的にはそういう傾向になるはず。
なぜなら、組織というものは拡大せずにはいられないからです。
俗っぽい話ですが、組織を運営しようと思ったら金が要ります。
金を集めるには会員(信者)を増やす必要があります。
また、組織というのは、たいていピラミッド構造の階級制になります。
このピラミッドの頭の部分というのは、時間とともに、まず間違いなく肥大化します。
それは人数の増加であったり、権力の強化であったりするわけですが、いずれにしても、それを支えるために裾野を広げる必要が出てくるわけです。

そして最後に、信仰によって得られる快感なり救いなりが、他者との共感や共同作業によってもたらされる構造の宗教というのは、外に広がろうとする。
これは、そういう体験をした信者が、その体験をより多くの人と共感したくなって自分の知り合いなどを誘おうとするからです。

逆に言えば、上記条件を持たない宗教は広まらないでしょう。
広まらないということは、ほぼいずれ消滅するということですから、現存する宗教は多かれ少なかれ外に広がろうとする――すなわち、他人に広めようとすると言えるでしょうね。
それが宗教の性質だと言っても良いんじゃないでしょうか。

組織論で観た場合、宗教活動も企業活動と同じ――と言い切っちゃうと、さすがに語弊があるかな。
でも、単なる企業活動であれば、セガかソニーかニンテンドーかで殺し合いまでしなくて済むけど、敬虔な信者さんからしたら、信仰というのは自分の価値観でありアイデンティティーであり家族であり愛であり幸福であり世界の秩序であるわけで、それを否定されて冷静さを失う気持ちは分からないではない。

だからこそ、禅宗の、自分の内へ内へと潜っていくような信仰(?)の有り方は面白いなぁと思うのです。
他人がどう思おうが全否定されようが、「悟り」が自分の中にある以上、関係ないもんね。
禅宗はたぶん、宗教じゃねぇんだろうなぁ、きっと。
あれはたぶん、哲学でしょうね。
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by kude104 | 2007-06-23 23:59

そこに印籠はあるのか?

J-CAST ニュース : 「当て逃げ」動画で大騒動 本人解雇、勤務先も謝罪

車の「当て逃げ」の映像がYouTubeにアップされ、そこに車両のナンバーが映っていて、同じナンバーの車両の写真がMixiにアップされていることが発見され、そこから所有者の勤務先や妻のアカウントなどが特定され、2ちゃんねるに所有者の住所や勤務先の連絡先などの個人情報が書き込まれ、この人物やその妻の写真、自宅や問題の車両の車検証を撮影した写真までアップされ、その甲斐あって、所有者が勤務していた会社のホームページには謝罪文が掲載され、車の所有者は懲戒免職処分となりましたとさ。

めでたしめでたし――じゃなくて、いや、これ、めちゃくちゃ怖いって。

たしかに、「泣き寝入り」するしかなかったところに正義の鉄槌が下されたのでしょう。
それはそうなのかも知れない。
でも、これは――私刑に他ならない・・・よね?

Mixiにアップされている写真のナンバーと一致することに気が付くとか、どうやったらそんなもん気が付くのかさっぱり分からないんだけど、「もしかして映っているかも?」ということで、ひとつひとつ写真をチェックして回ったのかなぁ。
「問題の車両の車検証を撮影した写真までアップされ」とか、その情熱たるや、ちょっと偏執的すぎやしないかと思ってしまう。
そうした偏執的な正義感がぼくには怖いし、国家権力でもない普通の人々がこうして個人情報を割り出し、見事「裁き」を下してしまう、その力の凄さが怖い。

現実社会で私刑が禁止されているのには、それなりの理由があるのだろうと思う。
ましてや、匿名の集団で裁くなんてのは、たぶんきっとよろしくない。
もし間違って無実の人を裁いてしまったとき、その責任は誰が取るの?
今回のケースは、まぁ印象としては、たぶん車の所有者が当て逃げをした犯人ということで間違いないように思えますよ、たしかに。
でも、もし万が一にも間違っていたとき、どうすんのさ。
誰が謝罪し、誰が彼の被った損失を補償してあげるの?
そういう「責任」を引き受ける覚悟のない主体が、他人を裁くのはよくないと思うんです。
娯楽で他人を裁くのは、たとえそれが「正義」であっても、よくないよ。

今回のケースで言えば、取り合わなかった警察が悪いということで、ネットの力を使ってこちらに抗議行動を行うのが正しいあり方じゃなかったかと思います。

最近こうした事例が増えているように思うけど、私刑が当たり前のようになると、ネットに規制が入るか世の中が恐怖社会化するかどちらかじゃないかという気がするので、ほどほどでお願いしたいです。
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by kude104 | 2007-06-22 22:56 | PC&ネット
My Life Between Silicon Valley and Japan - サバイバルという言葉が嫌いなら使わないで話そうか

この時代認識には同感です。
本質、データのやり取りだけで事足りる仕事は、ネットがあれば世界中のどこの誰とだって一緒に仕事ができるようになるでしょう。
ということは、これからそのような職に就こうという人は、地球の裏側の優秀な人材と椅子を争わなければならないってことです。
今までは、日本に会社があるから日本人を雇うしかないということで、言うなれば日本人ということでもって採用されていた人が、これからはそうはいかない時代がくるよ、と。

方々で言われていますが、こうした変化は、鉄道の登場になぞらえると分かりやすい。
かつて鉄道がなかった時代は、ほとんどの人は、自分の生まれた土地で職を探すしかなかったわけです。
しかし、鉄道が出来て行動範囲が広がったことで、人々は別の土地――つまりは都会に出て働けるようになりました。
結果、地方から人がいなくなって、農村は衰退しました――みたいなたとえ話。

インターネットの登場によって「地方」から流出するのはジョブと賃金です。
今まではネットがなかったことで国内に留まるしかなかったジョブが、ネットによって世界に放たれようとしている。
そして日本は衰退しました――みたいなことにならなきゃいいけど。

もちろん、裏を返せば、日本に居ながらにして世界中の仕事ができるということでもありますから、優秀な人にとっては、嬉しい時代がきたもんだということでもありましょう。
そのへんが「サバイバル」ですかね。
明暗分かれます、みたいな。

ただ、言語について言えば、ぼくはけっこう楽観的です。
次の十年――あと十年あれば、それなりの翻訳機くらいできるでしょう。
日常会話をナチュラルに翻訳するのはまだ無理かもしれないけど、ビジネス文章を意味がわかる程度に翻訳することは十分可能ではないかと思います。
翻訳機の性能も上がるだろうし、翻訳機で翻訳されやすい文章を書くコツ、みたいなノウハウも蓄積されていくだろうし。
結果、データのやり取りだけで事足りる仕事をネットでやり取りする分には、言語はさほど問題にならないんじゃないでしょうかね。

問題は、ですから言語云々ではなくて、これからのネット時代に身を立てるにはどのようなジョブを狙うか?という部分が戦略の核となってくるでしょう。

ネット上のデータのやり取りで済ませられない仕事に向かう、という戦略が一つ。
ネット上のデータのやり取りで済む仕事のスキルを磨き、世界に打って出る戦略が一つ。
ジョブをオファーする側に回るという戦略が一つ。

「ネット時代に生き残る戦略」と言うと二番目に向かいがちですが、実は、おそらく、二番目が一番キツイんじゃないかという気がしますね。
なぜなら、考えればすぐわかることですが、二番目が一番ライバルが多くなるからです。
なにしろ、世界中の人間がライバル候補になるんですから。
まさにレッドオーシャンです。

反対に、資金さえあれば、三番目が一番カンタンでしょう。
なにしろ、世界中から優秀な人材を集めて、世界中の顧客に向けて商売できるんですから。

となれば、次の十年に日本が生き残る道は自ずと見えてくるというものです。
雇われる側ではなく、雇う側に回ることです。
極端なことを言えば、日本人がみんな経営者になったとしても、労働者は世界中にいるのだから大丈夫ってことですね。

経営者を育てる教育が、次の日本をサバイブさせるのではないかと思います。
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by kude104 | 2007-06-18 23:59 | PC&ネット
My Life Between Silicon Valley and Japan - サバイバルって当たり前のことなんじゃないの

「サバイバル」って言葉にざわざわするのは、「死」をイメージさせるからだろうね。
「○○しないと死んじゃうぞ、生き残れないぞ」と。
なので、「サバイバル」という言葉に拒否反応を起こす人の多くは、本能的に、自分が「サバイバルできない」タイプの人間だと自覚している人なのでしょう。
カイジで言えば、石田さんだ。

「サバイバル」と聞いて奮い立つ人間と、臆して動けなくなる人間と。
奮い立つ人間から見れば臆して動けない人間は馬鹿にしか見えないというか、「ビビってたって死ぬだけなのに、なんで前に進まないんだろう?」と不思議でしょうがないんだろう。
鉄骨の上を歩かされてるんだから、前に進まなきゃいずれ落ちて死ぬのは当たり前のことじゃないかと。
まったくもって、その通り。

サバイバルできない人間が死んでしまうのはしょうがない。
それが自然界の掟だから。

それは本当にその通りだと思うのだけど、でもぼくらは人間だから。
願わくば、サバイバル能力に長けた強者は、獲った獲物のいくばくかをサバイバルできない弱者のために分け与えてやってくれないものかと思うのです。
サバイバルできない弱者でも生きていける世の中を強者が作ってこその人間社会じゃないでしょうかね。
自分一人生き残るためのサバイバルなら、それはケモノのサバイバルになってしまう。

たとえるなら、自分が起業というサバイバルに挑むなら、それは自分の事業で社会を豊かにし、より多くの従業員を養うためのものであって欲しい。

そういうサバイバルを掲げれば、無用なざわざわを招かずに済むんじゃないでしょうか。
これなら、もしサバイバルできないタイプの人間は、サバイバルできそうな人間を応援することで生き残れる――気がするでしょう?

「誰が生き残るか」ではなく「みんなで生き残ろう」という呼び掛けのほうが、メッセージとしては届くんじゃないかという気がします。
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by kude104 | 2007-06-17 23:30

こんにゃくゼリーとか

ここ数日エキサイトブログが異常に重くてアクセスできませんでしたが、ようやく通常状態に復帰した模様。
中の人、お疲れ様です。

消えた年金問題で報じられる社会保険庁のずさんな仕事っぷりは、なにかこう、「社会主義経済がダメな理由」というテロップ付きで観ても違和感ない気がしますね。
やはり人間、信賞必罰のない職場で働いてると、ああなっちゃうんだろうなー。
一方、「資本主義経済がダメな理由」は、コムスンですね。
まさに、両体制のダメなところを並べて見られる好機です、てな様相です。

asahi.com:三重・伊勢市のこんにゃくゼリー死亡事故、遺族が提訴 - 社会

ぼくも昔、飴玉をのどに詰まらせて危うく死にかけたことがあります。
なのでというか、逆にというか、「こんにゃくゼリーだけが危険だと思うなよ!」という気がします。
モチとか、地味にデンジャラスやし。

なのでまぁ、責任を問うなら学童保育所の不注意かなと思いつつ、それはそれとして、製造元ももう少し安全性を考慮してもよかったんじゃないかという気がします。
「吸い込まず、よくかんで食べるか、スプーンでお召し上がりください」という注意書きでリスクヘッジできると思ったんですかねぇ。

容器を、たとえば「ぷっちんプリン」式にすればいいのに。
大きさもあれくらいで。
そうすれば、いやでもスプーンで食べるだろうし、なによりぷっちんするの面白いし。
ネーミングとキャッチコピーは「ぷっちんぷるるん こんにゃくぷっちんゼリー」で。

どうしても一口サイズでというなら、真ん中に穴を空けてドーナツ型にすればいいんじゃないかな。
そうすればのどに詰まっても気道が確保できるでしょう。
ネーミングとキャッチコピーは「こんにゃく星からやってきた こんにゃくUFOゼリー」で。

死亡事故が起きて危険性が指摘されてなお、あの容器にこだわるには、なにかそれだけの理由があるのかなぁ。
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by kude104 | 2007-06-16 23:59
不倒城: 何故Webで揉め事が盛り上がるかというと

なるほど。
まぁ、火事場見物の面白さのようなものもあるのかなーと思いますが、「対立軸で分かりやすくなる」というのは、なるほどなぁと思いました。

で、『しかし一つだけ気になるのだが、Webの揉め事に「終わった後のカタルシス」ってものは大抵の場合皆無ですな。あれはなんでだろ』という疑問が最後に提示されていますが、ぼくが思うに、それは「決着がうやむやのうちに終わるから」じゃないでしょうか。

悟空とベジータが闘いながら徐々にこうフェードアウトしていき、「両者の戦いは果てしなく続くのであった・・・!! 鳥山明先生の次回作にご期待下さい」みたいに終わっちゃうと、カタルシスないよね?みたいな。

Webでの揉め事って、言うなればルール無用のデスマッチですよね。
厳密に言えば、どちらかが降参するか死ぬ(閉鎖する)まで終わりません。
とはいえ、じゃあ勝負がつくまで延々闘い続けるかというとそんなことはなくて、たいてい途中で当事者が疲れてどうでもよくなって終わるか、世間の注目度が低下して忘れ去られて終わるかです。
結果、カタルシスが生まれない。

逆に言えば、Webでの揉め事が白黒決着ついて終わるようにすれば、カタルシスが得られるのではないかと思います。
では、どうすれば白黒つくか。
それは「ルール」を作ることでしょう。
当たり前の話ですが、「こうなれば勝ち、こうなれば負け」というルールを定めることで勝ち負けを生じさせることができます。

では、いったいどんなルールを定めればいいのか・・・については、「皆さんどうぞご自由にお考えください」ということにしておきますが、たとえばこんなのはどうでしょう。

まず、揉めている当事者(とその支援者)同士がルールに則って揉めましょうというのは、たぶん望めないでしょうから、揉め事を第三者がウォッチして勝手にルールに則って白黒つけるというやり方がいいのではないかと思います。
よく「まとめサイト」みたいなものが作られますが、ああいった感じで、「ジャッジサイト」を作りましょう、と。
ジャッジサイトを作成した人を審判とするなら、審判は揉め事をウォッチしつつ、どちらが優勢劣性かを判定していき、最終的に勝者敗者を決定します。

たとえば、こういう判定はどうでしょう。
まず、バトル開始時に、揉め事の当事者Aと当事者Bにそれぞれヒットポイントを与えます。
AがBの主張の弱点を攻撃し、それによってBがダメージを受けたと判断したら、審判はそのそのぶんBのヒットポイントを減らします。
また、Bが自分の主張を補強するような主張を行い成功したら、そのぶんヒットポイントを増やします。
最終的に、ヒットポイントがゼロになるか、ある一定期間終了後に残っているヒットポイントの多い少ないで勝敗を決める――みたいな。

これだと勝敗は審判の主観に左右されますが、それはそれで面白いんじゃないでしょうか。
複数のジャッジサイトが出来て、ジャッジの良し悪しで人気を競うようになれば、そちらもそちらで盛り上がるんじゃないかと思います。
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by kude104 | 2007-06-13 23:59 | PC&ネット
恥ずかしながら、いま世間を賑わしている年金騒動がよく分かっていません。
最近、ニュースをちっとも見ていなかったものですから。
今日久々にテレビのニュース番組を見て、その騒動っぷりに興味を引かれたのですが、なにぶん今さらそもそも何が問題なのか解説してくれるはずもなく、よく分からんままです。
ネットで調べりゃいんでしょうけど、ま、それはまた気が向いたときにでも。

で、今日のニュースでは、なんや知らん社会保険庁が設けたフリーダイヤルに問い合わせが殺到している様子を報じていたのですが。
うーむ、よく分からんのですが、それは一刻一秒を争って確認しなければならない類の話なのでしょうか。
要は、「自分の年金は大丈夫か知りたい」ということだろうと思うのですが、そんなん1ヶ月先でも1年先でも別にいいじゃない。

あれ、変に誠意を尽くすつもりで、フリーダイヤルで24時間対応しますなんてこと言わなきゃよかったんだよ。
下手に「今すぐお知りになれます」なんてことを(不十分な態勢で)やると、「一刻も早く自分も確認しなきゃ!」と煽る結果となって、一種の集団ヒステリーみたくなっちゃうんだって。
そんな緊急性の有ることでもなし、「ハガキで順次お伝えします」という対応でよかったんじゃないかなぁ。

もちろん、フリーダイヤルで24時間対応しますというのは、「誠意」だとは思うよ。
でも、その「誠意」のために、けっこうお金使ってますよね、あれ、たぶん。
どっからどうお金が出ているのか知りませんけど、無駄じゃない?
だったらその分をもっと別に有効活用したほうが、トータルで見てより良い解決につながると思うんだけど。

まぁ、たしかに「ハガキで順次お伝えします」と言われても、「うそつけ」って思いますけどね。
どうせ、誰にハガキを送ったか送ってないか分からなくなりましたとか、3歳児にもハガキが来ましたとか、ハガキが届いたのは10年後でしたとか、そんなことになりそうだし。
なんかもう、全然信用できない感じだもんね。

問い合わせのフリーダイヤルに殺到する人々は、そのエネルギーを、むしろ政府や与党等々に抗議の電話をする方向に使ってはどうだろうか。
なんか、あのフリーダイヤルがガス抜きの役割を果たしているような気がするので。

ところで、「ねんきんダイヤル」みたいに、お役所ってなんで平仮名使いたがるんだろうね。
「ねんきん」って「粘菌」みたいで気持ち悪いと思うのは僕だけだろうか。
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by kude104 | 2007-06-11 23:59 | 時事・社会
すなふきんの雑感日記 - うちは慈善事業やってるんじゃねえんだ!

もともと福祉という発想は「赤字」を前提とするものであり、利益の追求を前提とする民間企業に任せるのは間違っているのではないか――という趣旨でしょうか。
なるほど、たしかにそうですね。

一般的に、「民間に任せる」狙いとして、経営の効率化とサービスの向上が掲げられるかと思いますが、それらはともに「利益の追求」のために行われます。
経営の効率化はコストを削減することで利益を増すために、サービスの向上は商品価値を高めることで業績を上げるために。
でも、福祉事業というのは、言われてみれば「利益の追求」に向かない業種ですね。

まずコストの削減ですが、福祉事業におけるコストのほとんどは人件費でしょう。
次いで、活動器材でしょうか。
どちらも、コストの削減はサービスの低下につながります。

次にサービスの向上ですが、富裕層をターゲットにした福祉サービスという方向性はあるとしても、一般層をターゲットにした福祉サービスで考えるなら、いくらサービスを向上させたとしてもサービスを受ける側が払えるお金は限られているという問題があります。
「良いサービスを提供すればたくさんお金がもらえる」というものではないのですね。

活動内容をマニュアル化してオートマティカリーに行える範囲にも限界がありそうですし、スケールメリットもそんなに発生するように思えませんし、この事業、いったいどうやって利益の追求を図ればいいのだろうと思えます。

ポイントはやはり、福祉サービスのコストを誰が負担するかという部分でしょう。
サービスを受ける人間が負担するのが商売の基本中の基本ではありますが、上記エントリーに書かれているとおり、「福祉を受ける側の主体はまさに自ら生産し借りを返せないからこそ福祉に頼るわけで」あり、サービスを受ける人間が100%負担するというやり方ではどうしたって「赤字」になると思われます。
それでは、利益の追求は望めません。
となれば、「差し当たってサービスを受けない人間にも、大なり小なり負担してもらいましょう」という考え方を採らざるを得まい。
問題は、どうすれば、いやいや義務的に負担させるのではなく、より多くの人に積極的に負担してもらえるか――です。

たとえば、保険サービスのような考え方はどうでしょう。
月々積み立てをすることで、将来福祉サービスが受けられます、みたいな。
保険サービスには親しい国民性ですから、わりと抵抗感なく負担してもらえそうな気もしますが、問題は、保険の場合は積み立てが「無駄」になる人の割合が多いのに対して、福祉の場合は無駄にならない人のほうが多そうなところですね。
結果、積立金の負担が大きくて利用されない、なんてことになるでしょうか。

ならば、個人が負担するのではなく、企業に負担してもらうという発想はどうでしょう。
そのためには、法律で「企業は従業員の福祉サービス料金を負担しなければならない」と規定する必要があるかもしれませんが。
たとえば上記保険サービスの積立金を企業が支払うとして、従業員は1年間務めると1年分の福祉サービスチケットが貰える――みたいなシステムです。
企業にとってもうま味はあって、たとえば「5年間務めると5年分のチケットが貰える」とすれば5年間社員を囲い込めるし、よりグレードの高い福祉サービスチケットを用意することは社員報酬として機能するでしょう。
で、この負担分は税金免除とでもしておけば、なんとか機能しませんかね。

もし企業が負担するとなれば、福祉事業でも利益の追求が可能になるような気がします。
そうすれば、複数の企業が参入し、競争が生まれ、サービスの向上が行われ、「民間に任せて正解だったね」となるんじゃないでしょうか。
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by kude104 | 2007-06-10 23:47