世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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FlashでWebアプリケーション的なものを作ろうとしたとき、たいていネックになるのは、「異なるドメインにあるデータをロードできない」という制約です。
セキュリティ上の安全性を考えてそうなっているようですが、たとえばRSSをロードできないとか、理解に苦しむ。
RSSを異なるドメインから読まれて困ることなんてないだろって思うわけで。
むしろ、どんどん読んでください、そのためのRSS配信ですってなもんじゃないでしょうか。

だいたい、Flashと同じドメインのサーバ上にCGIを設置して、それを中継して異なるドメインのデータにアクセスすることで、この制約を回避できてしまいます。
それで回避できてしまうんだから、わざわざ制約を設ける必要はないと思うんですよね。
一旦中継させるぶんだけ、インターネット資源を無駄に消費しているとしか思えない。

Flashには、異なるドメインからのアクセスを許可するポリシーファイルというものがあって、アクセス先にそれが設置されていれば、問題なくアクセスできます。
でも、ポリシーファイルなんてものを、必要もないのにわざわざ設置してくれている人のほうが珍しいわけで。
実質、ほとんど当てにできないと考えたほうがいい代物です。
このポリシーファイルというものの設計を、Flashは大いに誤ったとぼくは思う。

たしかに、初期設定を「許可しない」として、許可する場合に別途「許可する」設定を施すという設計のほうが紳士的です。
でも、この紳士的な慎み深さは、ネットの世界では消極的すぎると言っていいんじゃないでしょうか。
ネットの世界ではむしろ、初期設定を「許可する」として、禁止する場合に別途「許可しない」設定を施すという行け行けな設計のほうが”正しい”ように思う。
少なくとも、ブラウザでアクセスできる領域にあるデータに対しては。
たとえば、Googleが許可されているWebサイトのみクロールする設計で作られていたとしたら、人知れず消えていたでしょう。

ですから、ポリシーファイルも、初期設定(すなわち、ポリシーファイルが設置されていない状態)を「許可する」として、禁止する場合に別途「許可しない」設定を施すという設計のほうが正しかったと思います。
そうしていれば、今頃はAjaxではなくFlashが圧倒的に使われている世の中だったでしょう。
ぼくも大いに助かったというものです。

いずれにしても、インターネットでは初期設定が「許可」という考え方のところが勝つんじゃないかと思う次第です。
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by kude104 | 2007-03-31 22:24 | PC&ネット
さて、3月ももう終わりということで、例によって、次の映画サービスデーに観る映画の選定でも・・・といっても、すでに決まっているのですが。
「デジャヴ」を観ようと思っています。
けっこう評判いいみたいなので。

実は、予備知識なしで観ることをお勧めしますという話なので、そのとおりに敢えて予備知識を仕入れていないので、どんな映画なのかよく知りません。
なんとなくテレビCMを目にしたよな~という程度。

他にというと、なにが面白いんだろうか。

「バッテリー」は、小説のほうはとても面白く読みました。
で、小説がとても面白かったというのが、逆に映画化を不安にさせますよね。
あと、役者が子役メインになるのも、ちょっと不安だなぁ。
ハリウッドと違って、日本にはまだまだ演技上手な子役って少ない気がしますので。

まぁ、多少旬は過ぎた印象はありますが、まだ観ていないので「ドリームガールズ」という選択肢も、ありかも知れない。
アカデミー賞の助演女優賞も取りましたしね、評判もいいようなので。

通好みな選択肢としては、「 ラストキング・オブ・スコットランド」が気になるところではあります。
大ヒットするたぐいの映画じゃないでしょうけど、社会派な映画を観たいという場合には、悪くない選択肢なんじゃないでしょうか。

でもまぁ、「デジャヴ」を観るけどね、たぶん。
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by kude104 | 2007-03-30 23:19 | 映画

宮崎駿の切なさ

昨日放送のNHK「プロフェッショナル・仕事の流儀 スペシャル ~宮崎 駿~」を観ました。
上手く言語化できないのですが、なんだかとても切ない映像だったなぁと思います。

何よりもまず感じたことは、宮崎さんの孤独さです。
孤高という表現が適切でしょうか。
あの人の映画作りは、何者をも寄せ付けないという印象です。
そりゃ、あの人の下で人が育たないのも頷ける、という気がした。

まずもって、才能において突出していて、彼ひとり一歩も二歩も先んじている。
隣に並んで歩いている人はいないでしょう。
それでいて、創作に対する合格ラインがめちゃくちゃ高い。
宮崎さん自身にも超えられるかどうか、というところに合格ラインを設けているように思う。
加えて、彼の映画作りは、自らの中にあるものを形にするというものだから、どうしたって孤独です。
みんなでアイデアを出し合いながら作っていく、というやり方ではないから。
よって、誰も彼の映画作りを助けることができない。

孤独に苦悩し、まさに身を削るように映画を作っている宮崎さんの姿を見ていると、この人の映画が人々の心を動かすのも当然だと思えてきます。
あそこまで身を削って作られる映画も、そうそうないんじゃないだろうか。
ホントもう、観ていて切なくなるくらいでした。

切なさのふたつ目は、息子の宮崎吾朗さんの監督作品である「ゲド戦記」の試写を観る宮崎さんの姿です。
あれはなんと表現すればいいのだろう。
やはり「苦悩」だろうか。
それとも「後悔」だろうか。
試写の途中でたまらず試写室を抜け出して、茫然と煙草を燻らせる姿は、痛々しくすらあった。
「気持ちで映画を作っちゃいけない」とか、ぽつりと呟くんですよ。

次回の宮崎駿監督作品「崖の上のポニョ」の製作のコメントとして宮崎さんは、息子が映画監督をやったのは自分への反抗であるとして、「こんなことになったのは吾朗が5歳の時、仕事ばかりで付き合っていなかったからだ。二度と吾朗みたいな子をつくらないために」という反省の気持ちも込めて・・・みたいなことを仰っているとか。

こういうことを公の場で言っちゃうことが息子にどう映るかといったあたり、まるで考えが至っていないというか、「ああ、このひとは骨の髄まで映画監督で、きっと他の部分は欠落しているんだろうなぁ」と思わせるあたりが切ないです。
それでもやはり、息子が「ゲド戦記」という映画を作って自分に反抗しようとしたというところにショックを受けるあたりは、父親としての感情なんだろうなぁと思う。
それに対する対応の仕方が「映画を作る」なのは、親として間違ってますけどね。
たぶん、「映画とはこういうものだ。おまえのは映画じゃない!」みたいな、息子が容易に到達できないものを作って崖から突き落とすようなことを平気でしちゃう人なんでしょうねぇ。
それもきっと、良かれと思って。

切ないばかりではなく、宮崎アニメの創造の秘密みたいなものも垣間見られて、非常に興味深い内容でした。
おかげで、次回作「崖の上のポニョ」が、いやがおうにも楽しみになりました。
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by kude104 | 2007-03-28 23:59 | テレビ

ブログ美化宣言

ITmedia News:Yahoo!検索も“ブログは除外”機能

もちろん、どんな情報を望んで検索するかによってOn/Off使い分けるということなのだけど、これからますますブログでの情報発信が一般化していくだろう時代の流れに、一見逆行するかのような動きにも映る。

ブログ除外機能をことさら設けるということは、裏を返せば、検索エンジンがブログで書かれた内容の重要度を適切に計算できないということだ。
利用者をがっかりさせるようなブログをきちんと弾くことができれば、こんな機能は特に必要ないわけだから。
普通のWebページはそういう真っ当な方向で対応しようと努力しているだろうことに対して、ブログに対してはそれを諦めたかのようなこのブログ除外機能。
もしかして、ブログの重要度を適切に評価することは、お手上げ状態なのでしょうか?

はてブで取り上げられたこともあって、おかげさまで、うちにもちょこちょこトラックバックが届いているのですが、正直、本当にうちの内容を読んでトラックバックを送っていただいているのかどうか疑わしいものがあります。
たとえば、あるキーワードを検索してヒットしたブログとか、はてブのホッテントリに挙がったブログとかを自動収集して、それらにトラックバックを打って内容をごちょごちょっと自動生成したエントリーを自分のブログにアップするプログラムとか、作ろうと思えば簡単に作れる(と思う)。
手作業でやったって、そう手間でもないだろう。
おそらくそうして作られたのだろうと思わせるようなものが、けっこうあります。

そんなはっきり言って内容のないブログでも、大量にトラックバックを打って、キーワードをちりばめていれば、検索エンジンにヒットしやすくなる。
トラックバックからのアクセスも(内容に比べて)たくさんあるでしょう。
それでグーグルアドセンスでも貼って、0.001%でもクリックされりゃ、労せずしてお金が稼げるってわけだ。
ブログもタダ、エントリーの作成もほぼ手間なしだから、そんなブログを何十個も作れば、それなりにまとまったお金になるんじゃないだろうか。

こういったブログが、ブログ除外機能を必要とさせている原因のひとつだろうと思います。

ということで、これからは、半無作為に送っていると思わしきトラックバックについてはばっさり削除しちゃおうと決めました。
本当は、あんまり削除したくないんだけどね。
面倒だし、心苦しい気持ちもあるし。
でも、そういうスパム的なものを放置するのは、やっぱり良くないような気がするので。
ひとりひとりの心がけで、ブログをきれいにしていきましょう、みたいな。

もし誤って意味あるトラックバックを削除しちゃったならごめんなさいね。
そういうときは、懲りずにまたトラックバックしてやって下さい。
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by kude104 | 2007-03-27 23:59 | PC&ネット
選挙というものについて考えてみるわけだけど、世の中をより良いものにしてくれる政治家を選挙で選ぶということが、果たしてどの程度現実的な話なのだろう。
政治家の能力を測る「政治力」というパラメータがあるとしよう。
それは果たして、僕ら有権者に窺い知れるものだろうか。
選挙の際、こちらの候補者とあちらの候補者のどちらが政治力が高いかなんて、一部の実績ある政治家以外、まず判断のしようがないのではないか。

しかも、同じ「実績」と言っても、たとえば経営者だったら彼の会社がどの程度の利益を上げたかという数値でもって測れる。
でも、政治家の実績を表すデータといえば、今のところ、当選回数と得票数と、あとは肩書きくらいなものじゃないかと思う。
でもって、この手の実績が良くても、どう見たって政治力が低いだろうと思われる政治家はごろごろいる。
政治家の実績で測れる政治力なんて、選挙力と党内処世術くらいでしょ。
彼らが選挙の折に唱えるスローガンもまた、彼らの政治力を測る材料にならないことは言うまでもないしね。

政治を良くするには、有権者一人一人が選挙できちんと候補者を選ぶことだというのはその通りだとしても、現状できちんと選べる状態が整っているのか甚だ疑問だ。
きちんとした会社に投資することが大切ですといいながら、企業の収益データ等が公開されていない株式市場だったら・・・みたいな感じ。

一方で、というか同時にというか、そもそも政治家に有能さを期待するほうが間違っているのではないか、という気もする。
政治家として有能な人材というのは、往々にして他分野でも有能だろう。
そんな優秀な人材が、果たして何十人何百人と政治家になるものかな。

政治家(議員)の役割のひとつに法案の提出というものがあるけど、実際に法案を作って提出できる能力を持った人材がどれくらいいるだろう。
せいぜい、自分の得意分野ひとつに限れば可能、というので、かなり優秀なほうだと思う。
他の分野についてもそれができる人間なんて、いるほうが奇跡だろう。

となると結局、議員はオールマイティに凡人であることを前提に考えるべきだという気がしてくる。
政治家は政治的な事務処理を担当する人々という位置づけにして、個々の専門的な立案やら判断やらは、それぞれのエキスパートが担当するような形がいいのではないか。
今も多かれ少なかれそうなっているのだろうと思うけど、いちどそのへん、きっちり整理し直してみるとすっきるするのではないか。

政治家の重要性が下がれば、選挙で我々が適切に候補者を選べないことの致命性も相対的に下がることになるので、ひとつの解決策かなぁと思ったりする。
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by kude104 | 2007-03-26 23:59
MellowMoon - 外山恒一氏政見放送・テキスト起こし

やばい。
これをピックアップするのは社会人としてなんか躊躇われるんだけど、それ以上に話題にせずにはいられないくらい面白すぎる。
お笑い芸人? 彼はお笑い芸人なの?ってくらい、面白い。

まず、初めのナレーションからして面白い。
「いまどき 政治犯として 2年投獄され」の一文にある、「いまどき」って表現が面白すぎる。
たしかに「いまどき政治犯て」って思うけど、いや、それは別にいいじゃないか。
なにそのちょっと「時代おくれ」的なニュアンス。

そして外山さんの政見放送が始まるわけですが、いやあすごい。
名言のオンパレードですよ。

「政治改革だとか何とか改革だとか、 私はそんなことには一切興味がない!」
「多数決で決めれば、多数派が勝つに決まってるじゃないか!」
「少数派の諸君!これを機会に、 政府転覆の恐ろしい陰謀を、共に進めていこうではないか!」
「勿論、選挙権のない未成年の諸君や、 東京都以外の諸君でもかまわない!
我々少数派には、選挙なんか元々全然関係ないんだから! 」
「私が当選したら、 奴らはビビる!! 私もビビる!!」
「どうせ選挙じゃ何も変わらないんだよ!!」

ここまでズバッと言われると、実に清々しいですね。
しかも、政見放送で。

これ絶対ねらってやっているよなぁ。
突っ込みどころを意図的に盛り込んで、こんなふうにブログでネタされることを計算してやっているような気がする。
たとえば、「私が当選したら、 奴らはビビる!! 私もビビる!!」 とか、間違いなくお笑いの文法だもん。
どう考えても「笑わしたろ」って意図があるとしか思えないよね。
もし喋っているのがダウンタウンの松っちゃんだったら、絶対マニアックなお笑いDVDの一話だと思っちゃうって。
それくらい、よく出来た政見放送のパロディギャグになっていると思う。

それにしても、この政見放送が政見放送としてきちんと放送される日本というのは、まだまだ捨てたもんじゃないなと変に感心してしまいます。
きちんと手続きにのっとったら、きちんと保護される。
てことは、立候補したらなんでもありか?
政見放送で迷い犬の呼びかけとか恋人募集とかしてもOKなのか?

政治活動家としてはもう全くダメダメだけど、面白い人としてはありだと思う。
毎回選挙のたびに活躍する芸人として、ぜひこれからもがんばっていただきたいと思います。
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by kude104 | 2007-03-25 22:09
普段はよくて50人かそこらな訪問者数が、今日は500人をオーバーしていました。
はてなブックマークでブックマークされたからのようです。
ちょっとびっくりした。
「日本の小学生の「学ぶ意欲」が低いのは洗脳によるものです」をたくさんの方にブックマークしていただいたようで、どうもありがとう。
ということで、せっかくなので便乗して、再度このネタについて書いてみようかと思います。

「勉強ができてカッコいい」というお話は、ぼくには二宮金次郎とエスパー魔美くらいしか思いつかないな――というのはまぁ冗談として。
結局やっぱり、勉強ができる人間に対するネガティブイメージというのは、エリート階級に対するネガティブイメージにつながっているんじゃないかと思います。
ここでいうエリート階級とは、ざっくり言えば、上司を含めた経営者側の人間のことね。

同じエリートでもスポーツ選手にあまりネガティブイメージがないのは、おそらく彼らはサラリーマンたるその他大勢の”一般人”とは住む世界が違っていて、自分たちの上司にはなりえないからじゃないかと思う。
それに対して学歴社会を駆け上っていくエリートたちは、やがて労働者たる自分たちの上司となって自分たちをこき使うのだ――みたいなイメージがあるのではないか。

順番としては、こういうことだろう。
社会の大勢を占めているのは労働者である。
エンターテインメントは、彼らに向かって作られる。
当然、彼らを気持ちよくさせる物語が作られることになる。
彼らは常日頃、経営者側の人間に対して不満を抱いている。
よって、経営者側の人間を悪者にしたエンターテインメントが歓迎される。
だからエンターテインメントでは、学歴エリートは人間味のない冷血漢となり、金持ちは越後屋になり、労働者は貧しくとも人生を謳歌するのだろう。
ときには友情パワーや水戸黄門の力を借りて。

一方の経営者側はといえば、個人個人の思いはともかく、社会として、学歴エリートを馬鹿にする人々を大量生産することは、これすなわち労働者を大量生産することであり、とても都合がよかったのだろうと思います。
今はもうそんなことを言っていられる時代でもないと思いますけど、一昔前は、一握りの経営者と大量の労働者という構造で上手く世の中が回っていたわけですから。
むしろ、みんなが経営者側になりたがったら大変です。
自分たちが馬鹿にされるくらいで労働者になってくれるのであれば安いもんだと、ぼくが経営者側ならそう思うでしょうね。

とはいえ、今の時代に日本という社会全体の利益で考えれば、これはもう優秀なエリートを輩出する方向に社会の価値観を変えていかないとだめだと思うのです。
これからは、労働者を育てる社会ではなく、経営者を育てる社会に舵を切るべきです。
いつまでも、「労働者は善、経営者は悪」なんて時代錯誤な価値観でいては、やばいでしょ。
優秀な経営者に雇用されたほうが、労働者の皆さんもいいに決まってます。

ですから、世の中に、自分より優秀な人々を尊敬する風潮がもっともっとあればいいんじゃないかなぁと思うのです。
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by kude104 | 2007-03-24 23:59

ドラえもん、侮りがたし

「映画ドラえもん のび太の新魔界大冒険 ~7人の魔法使い~」を観ていて、旧作と比べて、「なんでこんな変更を施したのだろう」と疑問に思う部分がいくつかありました。

そのひとつが、現実世界においても謎のブラックホールが接近していて地球が危ない、というシーンが冒頭に描かれていることです。
しかも、のび太たちが魔法世界で地球の危機を救って戻ってくると、現実世界の危機も解決している――といったシーンがエンディングにて提示されます。
旧作にはないエピソードですし、「あれ? これってどうなっているのかな?」とちょっと混乱したんですよね。

また、旧作でのび太が魔法世界を去る前に美夜子さんとお別れをするシーンがあるのですが、新作ではエンディング中にそれらしいシーンがワンカット映るだけで、セリフなどはありません。
別れのシーンなんてのは恰好の泣かせどころなわけで、どうしてこれをカットしたのだろう、きっと時間の都合だろうな、などと思っていたわけです。

その疑問が今日、テレビアニメのドラえもんを観て氷解しました。

今日のテレビアニメドラえもんのお話は、魔法にあこがれたのび太がもしもボックスで魔法世界を作るという映画のストーリーと同様に、魔法世界ののび太が科学にあこがれて「もしも箱(というネーミングだったと思う)」で科学世界を作る、という内容でした。
この場合、作るという表現は相応しくないですね。
つまり、新作においては、科学世界と魔法世界はパラレルワールドとして存在していて、科学世界にのび太がいるように魔法世界にものび太がいて、同じようなことを考えて、同じタイミングでもしもボックスを使って、お互いに入れ替わった、という解釈になっているようです。

なるほど、だから、「現実世界にも満月博士と美夜子さんがいるよ」というシーンが描かれていたり、のび太と美夜子さんとの別れのシーンを省略したんだな。
だとすると、現実世界の危機が解決していたのはもちろん、魔法世界ののび太とドラえもんが、科学世界の仲間たちと冒険した結果だろうということになります。

まさか、そんな解答が用意されているとは思わなかったので、「なるほど!」と思わず感心してしまいました。
旧作を知っていて、すでに映画を観ていて、その内容に「なんでだろう?」と疑問を感じていて、さらに今日テレビアニメを観るという、これは言わばドラマニアのための仕掛けなのではなかろうか。
自分がドラマニアだと言うつもりは全然ないけど、この仕掛けは普通の人は気付かんだろうって。

DVDには、今日のテレビアニメも映像特典としてぜひ納めるべきだと思います。
じゃないと、映画だけでは気付かないって。
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by kude104 | 2007-03-23 21:01 | 映画

「批判する」ということ

もしもそうならやな時代だなあ、と。

一口に批判といってもピンキリなので、それをひとまとめにして語るのはいいとしても他人と議論するのはたぶん噛み合わないだけだろうという気がする。
というわけで、ここに書くのは「ぼくの批判考」ということでひとつよろしく。

まず、「批判にも有益なものがあって」といったあたりの話。
とりあえずここでは、有益性の高いものを「批評」、低いものを「批難」とでもしよう。

批評に耳をふさぐのはもったいないと思うけど、批難にいちいち耳を傾けていても消耗するだけだと思う。
欲を言えば、批難はすべてカットして批評だけちょうだいということになるのだけれど、特に不特定多数の言説の中から批評だけをすくい上げる有効で効率的な手段は今のところないように思う。

膨大な石の中から珠を探し出すだけのコストを捻出できない、あるいは、捻出できるコストに釣り合うだけの珠が期待できないなら、とりあえず「批判は一切受け付けません」といするスタンスは、それはそれで理にかなっていると思う。
自分にとって信頼できる批評家が数人いれば、あとは有象無象の批判は特に必要ないんじゃないかなぁ。
わざわざコストを費やしてまで・・・という意味で。
たとえるなら、ネット検索をするときに、毎回毎回すべての検索エンジンで検索して有効な検索結果を逃さないように神経を使っている人がどれだけいるだろうか、みたいな。
完璧じゃなくても、それなりに満足できる情報が得られれば、たいてい事足りるよね。

それはそれとして。

上記のエントリーに、『ひとが忙しい毎日の中で、わざわざ時間を割いてサブカルチャーに接するときには、意識的にしろ無意識的にしろ何がしか今の自分からの「変化」を求めているのじゃなかったのかしら』と書かれていますが、たぶんここのところの感覚が噛み合わないんだろうなぁという印象を持ちました。
多くの人はたぶん「成長」を求めてサブカルチャーに接しているのではなく、単に「楽しいから」というだけのことではないかな。

サブカルチャーの楽しみ方は人それぞれでいいと思う。
サブカルチャーを批判する行為も含めて楽しい人がいていいと思うし、そうでない人がいてもいいと思う。
後者が前者を「そんな楽しみ方はやめれ」というのは余計なお世話だし、前者が後者を「批判も楽しめ」と強要するのも違うだろう。
両者が棲み分けられている分には平和でいいけど、問題は両者の文化が接触するところですね。
このあたりは、「強いて相手を無視する」というリテラシーが求められるのかも知れない。

ただ、傾向として、批判をする側に多少なりとも「善意の押し売り」みたいなニオイを漂わせる人がいるのは気になる。
「わざわざアドバイスしてやっているのに無視されて腹立つ」みたいな人は、迷惑だな。
頼まれないアドバイスというのは、たとえ有益でも、往々にして迷惑がられますんでそこんとこ気を付けるといいんじゃないでしょうか。
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by kude104 | 2007-03-22 19:03
次のYouTubeはこれだ!簡単に文書が共有できる『Scribd』 | 100SHIKI.COM

さあ、お次は出版業界が戦々恐々とする時代が来ましたよー。
この「Scribd」が日本で流行るかどうかは、どのくらい漫画がアップされるかによるでしょうね。
YouTubeにおけるTV番組くらいアップされちゃうようだと、出版業界としてはただでさえ不況不況と言われている昨今、大ダメージは免れ得まい。
出版はテレビと違って、モノが売れなきゃお金にならないからね。

週刊漫画とかは、すぐにアップされちゃうだろうな。
単行本は、どちらかというと、単行本の形でまとめて読みたいニーズで購入されているような気がするので、もしかしたらScribdでその漫画の存在を知って、単行本の売り上げが上がるという効果が期待できるかもしれないですね。
でも、雑誌系は大ダメージだろうなぁ。
雑誌の売り上げが落ちて廃刊とかになれば、漫画の連載もなくなって単行本も出なくなるわけで、そのへんは難しいところ。

でも、そうなると――というか、ScribdがYouTube並みに巨大になれば、直接Scribd上で漫画を連載して同人誌的に単行本を自前で売っちゃおうという漫画家も現れるでしょう。
たとえば、英語版とか作って海外戦略を視野に入れてやると、実力のある漫画家さんなら案外食っていける気がしなくもない。
少なくとも、YouTube(つまり映像)でそのようにして食っていこうとするより、はるかに可能性があるんじゃないかと思います。
雑誌連載というシステムを持たず、Scribdで連載している漫画の中から人気のあるものをスカウトして単行本化するだけの漫画出版事業とかも出てくるかもしれない。

小説はおそらく影響ないでしょうね。
かろうじて短編が影響を受けるかどうか・・・という感じでしょうか。
長編小説を全部アップロードする手間をいとわない人はそう多くないでしょうし、それをブラウザ上で読もうという人もそう多くはないでしょうから。

実際のところScribdがどうなのかはまだよく分かりませんけど、YouTubeみたいなテキスト・画像系の共有サイトが登場すれば出版業界やばいねってのは間違いないでしょう。
願わくば、その新しい仕組みを使って新しい創作活動が花開いてほしいものです。
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by kude104 | 2007-03-20 23:59 | PC&ネット