世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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カテゴリ:PC&ネット( 270 )

ネット販売専門の出版社

たけくまメモ : 「町のパン屋さん」のような出版社

うーむ。
「町のパン屋さん」と言っても、本の場合、リアルに実店舗を中心とした半径何キロかの商業圏でのみ商売をするというやり方では成り立たないだろう。
パンに比べて書籍では、見込み客が圧倒的に少なすぎると思うのだ。

「俺が言う町のパン屋さんは、売り物を自分で作って、自分で売るのである」ということから、自分で作った本を自分で売るということだろうけど、そうすると、売り物である本の種類がものすごく少なくなる。
売り場はまるで、「数種類しか本が売られていない本屋さん」みたいになっちゃうんじゃないか。
パンと違って、同じ本を何度も買う人はいないから、これはなかなかに厳しい。

だから、これはネット販売を前提としたアイデアだろうと思う。
全国規模で考えれば、なんとか成り立つ話かも?という気はしないではない。
そういう意味では「町のパン屋さん」というよりは、自分の手作りの品をネット販売する個人ショップのイメージが近いんじゃないかと思う。

もう一歩思考を進めると、もし仮にこうした個人出版がある程度成立しうるとしても、個人規模で作家から本作りからサイト運営から販売まですべてこなす、そうした体制を作ることができる人はそう多くはないだろう。
ならばおそらく、製本やサイト運営や販売はこちらで請け負いますので、あなたは作家業に集中してください、という分業スタイルが現れるに違いない。
つまり、「ネット販売専門の出版社」だ。

もちろん、成立の過程としては、初めは自分で書いた本を自分で販売するところから始まり、やがて仲間の書いた本も一緒に販売するようになり、ついには自分と仲間を中心に出版社を設立し、そして、出版社として他の作家に執筆を依頼するようになる、と。
まぁ、最後のステップまでたどり着けるかどうかは何とも言えないけど。
小規模の出版社がそれぞれに個性を出しながらネット販売でどうにかやっていけるくらいの感じが、望みうる理想形じゃないかと思う。

あとは、「本」と「デジタル」の関係がどうなるかだね。
それによって、まったく変わってくるものね。
いずれにしても、町のパン屋さんならぬ、町の本屋さんには厳しい時代になりそうだねぇ。
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by kude104 | 2009-07-19 23:41 | PC&ネット
Twitterをはじめると2週間でブログの更新が止まる理由 そしてはじまる(かもしれない)総表現社会 - mizchi log

ぼくもようやくTwitterの面白さが分かり始めた気がする今日この頃ですが、ぼくの場合、あくまでも「読む」ほうがメインで、投稿はあまりしていません。

ぼくはまだまだオールドタイプなので、どうしても公に文章を公開することに心理的な壁というかハードルのようなものがあって、Twitterといえども投稿する文章を推敲してしまうようなところがあります。
なので、Twitterであっても、というか、Twitterであるがゆえに、投稿するのが面倒くさい。
息をするように投稿できれば、その先に違った世界が広がっているのだろうなーとは思うのだけど。

そんなぼくですが、「読む」ほうの面白さは実感するところです。

Twitterと言えば、「いま何してる?」という問いに答えて、いま自分がしていることや思っていることをつぶやくサービスといった感じで説明されます。
で、それを見ている友だちからリアクションが寄せられて面白いよ、と。

それはそれで正しい――というか、Twitterとはもともとそうした目的のサービスなのですが、Twitterがこのところ急激に存在感を増しているのは、そうした本来的な使われ方ではなく、メディアとしての使われ方によってであると思います。
最近よく目にする「tudaる」という言葉は、なにかイベントなどの内容をTwitterでテキスト中継することだそうですが、これなんかは、「tudaる」なんて言葉ができちゃうくらい、Twitterのメディアとしての威力にみんなが驚いた、ということじゃないかと思います。

今後おそらく、ビジネス的にTwitterが注目されるのは、このメディアとしての側面でしょう。
企業や個人や団体などが、Twitterで自らイベントの中継を行ったり、宣伝や広報活動を行ったりするようになるんじゃないでしょうか。
社会的な影響力としては、本来的な「つぶやき」のミニブログとして以上に、メディアとしてのTwitterが中心になるような気がします。

なので、Twitterを「followすると、その人や企業の最新ニュースが自動的にリアルタイムで配信されるサービス」として捉えるのも悪くないのではないかと思います。
「いま何してる?」につぶやくサービスと捉えるだけでは、メディアとしてのTwitterを見落としてしまいかねないので。

ちなみに、そうは言ってもTwitterは本来「つぶやき」サービスとして設計されていますので、メディアとして見た場合、かゆい所に手が届かない感も多々あります。
よって、Twitterよりもメディアとして使いやすいサービスが登場した場合、それがTwitterに取って代わる可能性は十分あるんじゃないでしょうか。
Twitterは本来の「つぶやき」サービスが足かせとなって、メディア機能のみに特化することはできないだろうと思うので、隙があるとすればそのあたりでしょうか。
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by kude104 | 2009-07-11 23:50 | PC&ネット
少数精鋭のテクノロジーベンチャーは企業が支払うべきコストをどこに付け替えるのか - Future Insight
それぞれサービスを終了させたエントリー、もしくは終了後のエントリーの中で、一様に組織のサイズを話題としていることが非常に印象的でした。僕は大企業の中でしか仕事をしたことがないので、なぜこうも小さな組織を志向するのか、という点が非常に興味深いです。
身も蓋もない言い方をするなら、「ネットサービスは儲けが少ないので、少数精鋭でやるしかない」ということじゃないかと思います。

基本無料のサービスの場合、イメージとして、収益は線形に増えて行くのではなくて、ある一点を越えるまではほぼゼロ、その代わりそれを越えれば大儲け!みたいな感じになるので、その時が来るまでいかに必要最小限のコストで持ちこたえるか、という戦略になるのではないでしょうか。

となれば、無駄な人材を抱えている余裕はないので、少数精鋭にならざるを得ません。
従業員を増やせば売上が上がるという類の商売じゃないですしね。

普通の――というか、実社会で物を販売するような商売の場合、事業の規模を拡大しようと思ったら、どうしても人を増やさざるを得ません。
人が増えると必然的に組織を整えざるをえなくなるので、事業規模の拡大とともに会社組織が固められていくのだろうと思います。
言うなれば、会社としての組織が整うのと事業規模の拡大とが、ある程度連動して行われる。

対してネットサービスは、極端な話、出来立てほやほやの組織で、明日から急にドカンと世界規模でビジネスが展開されるなんてこともあり得ます。
なので、「企業として対応が未熟」ということが起こりやすいのかな、という気がします。
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by kude104 | 2009-07-04 22:17 | PC&ネット
「ネット失望の時代」がやってきた: 歌田明弘の『地球村の事件簿』

つまり、「オープンなネットへの幻想」というものから、そろそろ醒めてきたということじゃなかろうか。
「やっぱりネットであろうと、ニンゲンを無作為に集めればヘンなのが雑じって荒れる」という、残念だけど当たり前の結果になったよね、と。

繁華街のど真ん中で、知的で生産的な議論が行えると思う人はいないだろう。
なのに、不特定多数が集まるネットで、どうしてそれができると思っちゃったんだろうね。
やっぱり、まだインターネットに接続できる人間が限られていた時代の残滓だろうか。
いまじゃ小学生でも使っているのにね。

「別け隔てなく、多くの人に見てほしい」と思うなら、受け手の「大衆化」は覚悟するしかない。
それはネットに限ったことじゃない。
テレビだって雑誌だってそうだろう。
ネットはたしかに、いわゆる「バカ、暇人、貧乏人」がテレビ局や出版社を通さずダイレクトに絡んでくるからしんどいけど、それはこちらだって、テレビ局や出版社を通さずダイレクトに発信しているんだから、合わせ鏡のようなものなのだろうと思う。

「英語圏のウェブ」というものをぼくはよく知らないのだけど、それがオープンなまま「知的ツール」として機能しているのなら、もしかしてそれは、いわゆる「バカ、暇人、貧乏人」がまだ十分ネットになだれ込んでいないからじゃないだろうか。
たとえば、パソコンやネットの接続料金が安くない社会では、ネットユーザはある程度富裕層に限られるので「大衆化」しないでいられるだろう。

あるいは、「英語圏のウェブ」では実名で活動するユーザが多いという。
そうすると、ネット上における人間関係と実社会における人間関係とが、かなりの部分で重なるのではないだろうか。
つまり、実社会で上流階級層の人間と下流の人間とが交流しないように、ネット上でも自然とそうなるのではないか・・・と。

閑話休題。
コミュニティの質を保つためには、どうしたって、参加者の質をある程度保たなければならない。
理想としては、社会全体の質が高ければ、別段何もしなくても保たれるのだろうけど、現実的にそれを期待するのはちょっと無理だろう。
となれば、コミュニティにおいて、希望する水準に満たない参加者を教育するか、排除するしかない。
言い換えれば、コミュニティの質を保つためには、参加者を教育したり排除するための仕組みがコミュニティになければならない、ということだ。
でも、オープンなネットには、そうした仕組みはない。

いまさらネットの利用に資格や実名利用を義務付けるとか、そうした法的な網をかけるのは抵抗が大きいし、個人的にも好かん。
なので、ネット全体をひとつのコミュニティと見て質を保つのは無理と諦めよう。
代わりに、ネットの中にクローズドな空間を作り、棲み分けを行うのがいいと思う。
会員制のサイトとか、もっともっと作られてもいいと思うのだけどな。

ま、会員制コミュニティの場合、どうやって参加者を集めるかという点が問題になるのだけれど。
基本的には、実社会などですでに有名な人が、ネット上に自分の私塾であるとか勉強・交流の場を作るケースが主になるだろうね。
無名なやつが会員制コミュニティを作っても、人集まらんからね。
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by kude104 | 2009-06-30 23:57 | PC&ネット
今日は「オープンソース」と「バザールモデル」の違いについて調べてみよう。

「世の中をより良い方向に導くと思われるテーマがネット上で公開されると、そこに無数の知的資源が集結して課題を次々に克服していく」というのは、「オープンソースじゃなくて、バザールモデルだ」というけれど、バザールモデルって何?という話。

ひとことで言えば、「オープンソース」はソフトウェアの在りよう、「バザールモデル」はソフトウェアの開発手法って感じでしょうか。

バザールモデルの説明としては、バザール方式 とは:ITproによると、
参加者が,独自性を尊重された環境において自由に開発を行い,その成果を街頭市場(バザール)のように持ちより,よいものを残しながら1つのソフトウエアを作り上げていく方式
だそうです。

言葉の登場の順番としては、「フリーソフトウェア → バザールモデル → オープンソース」の順になるのですね。
フリーソフトウェアのひとつであったLinuxが開発事例として非常に成功したので、Eric Steven Raymond氏がその開発手法を分析し「バザールモデル」と名付け、論文にした。
その論文に影響を受けたNetscape社が自社ソフトウェアの開発にバザールモデルを採用し、それにあわせて(?)「オープンソース」という用語が作られた。
――というのが、「オープンソース」と「バザールモデル」の関係になるでしょうか。

バザールモデルを実現させるためのソフトウェアの在りようを「オープンソース」としてまとめたと考えるならば、バザールモデルで開発されるソフトウェアは必然的にオープンソースになりますね。
一方、オープンソースだからと言って、必ずしもバザールモデルによる開発がなされるわけではない。
なぜなら、オープンソースであっても、「その成果を持ちより、よいものを残しながら1つのソフトウエアを作り上げていく」という部分がなければ、バザールモデルにならないからです。

とはいえ、誕生の経緯を見れば、もともとのオープンソースはバザールモデルによる開発を目的としたソフトウェアであったと言えるでしょうし、現在でも、バザールモデルでない「伽藍方式」を採用するオープンソースはほとんどないと言っていいんじゃないでしょうか。

用語が持つ元々の意味として、フリーソフトウェアが、自由なソフトウェアであることを目的としてソースコードを公開するのに対して、オープンソースは、バザールモデルによる開発を目的としてソースコードを公開する、と言えるのかもしれません。
たとえば、「伽藍方式」で開発されるオープンソースソフトウェアは、オープンソースではなく、フリーソフトウェアと呼ぶほうがしっくりくるように思います。

ということは。
「オープンソース・ライセンス」にはたしかにバザールモデルを意味するものは含まれませんが、「オープンソース」には、目的として、「バザールモデルによる開発」が含まれていると見るのは、実はそう間違った話ではないのではないか・・・という気がしてきました。
梅田さんの「オープンソース的」という発言も、あながち「誤用」ではないのではないか・・・と。
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by kude104 | 2009-06-25 18:36 | PC&ネット
梅田望夫氏をめぐる騒動について - Rails で行こう!
最近、梅田望夫氏がネットで何を言っても叩かれる、という現象が目立っている。いちばん最近は、梅田氏の「オープンソース」という用語の使い方がおかしいんじゃないかという批判。あまりに多くの人が発言しているんで、いちいちソースのリンクは出さないけど・・・。この件について、私なりの感想を書いてみる。

一言で言うと、「なんでみんな騒いでいるのかわからん」という感じかな。
「オープンソース」に関する梅田さんの発言に対して、好意的な人は「言葉の使い方が正しいか間違っているかはともかく、言わんとするところは正しい」と言い、否定的な人は「言わんとするところが正しいか間違っているかはともかく、言葉の使い方は間違っている」と言う。
そういう平行線が引かれているように思います。

ぼくの立場としては、後者でしょうか。
知らずに間違ったというケースであれば「まぁ、しょうがないかな」と思うのですが、梅田さんのオープンソースについての「間違い」は去年の3月ごろから指摘されていることなので、ご本人が知らないはずがありません。
それでもなお改めないということは、梅田さんは意図して「誤用」していらっしゃると考えるべきでしょう。
嫌がる人がいると知って敢えてそうしていらっしゃるのであれば、そうしたやり方は賛同できないなーと思うのです。
言わんとするところが正しいか間違っているかはともかくとしてね。
(「やり方に賛同できないから、言わんとするところにも賛同できない」とは思っていません)

オープンソースに関わる人が言葉の使い方に敏感なのは、前回オープンソースについて調べていて、なんとなく分かる気がします。
ひとつには「ライセンス」であるので、使っているほうとしては、当然あいまいに扱えないということ。

次に、オープンソース、ひいてはフリーソフトウェアのライセンスというのは、思想を含むということ。
数あるソフトウェアライセンスの中から、「自分はこのライセンスを」と選択するということは、そのライセンスの思想やコミュニティが好きである、賛同するといった感情を伴う意識的な行動であるケースが多いかと思います。
「好きなもの」「支持するもの」に対して間違った発言がなされたり、雑に扱われると心穏やかでいられないのは、心情としては理解できるところです。

そして、オープンソースについて間違ったイメージが広まると迷惑だということ。
オープンソース自体が、もともとフリーソフトウェアに染みついた「無償」のイメージを払しょくするために作られた言葉であるのに、今またオープンソースに「無償」のイメージを植えつけられては迷惑するとか、オープンソースライセンス、あるいはオープンソースソフトウェアを間違って理解し使う人が現れたらどうしてくれるんだとか。
現場の我々には大問題なんだぞ、と。
(かく言うぼくも、オープンソースについて、いろいろ間違ってました)

フリーソフトウェア思想はよく「宗教」にたとえられたりもしますけど、たとえば「キリスト教的なもの」として、キリスト教の教義と違った内容を広められることは、信者にしてみれば迷惑だし、無礼であると。
良識ある大人なら、そうした信者さんたちの神経を敢えて逆なでするような言動は慎みますよね。
べつに宗教にたとえなくても、人が大切に思っているものに対しては、できるかぎりの敬意を払うのが紳士であろうと思います。

「オープンソース的」という言葉の使い方がオープンソースに関わる人たちの反感を招いているようなら、別の言葉を探すか、せめて「ソフトウェアのオープンソースとは異なる意味で使っています」といった断りを付けておくべきだろうと思います。
「そんなの別にいいだろ、たいしたことじゃないし」というのであれば、そこに敬意は感じられませんし、意図してイメージの塗り替えを図っているのであれば、それはオープンソースに対する攻撃ととられても仕方ないんじゃないでしょうか。

ということで、オープンソースに関わる人が怒るのは、それがいいかわるいかは別として、理解はできます。
ぼくが理解できないのは(推測はできるのですが)、それでも「オープンソース」という言葉を使い続ける梅田さんのほうですね。
「揚げ足」を取られると知って、なお敢えて足を揚げて見せるのは何ゆえか、と。
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by kude104 | 2009-06-23 22:22 | PC&ネット

オープンソースとは?

この機にオープンソースについてきちんと理解しておこうと、オープンソース - Wikipediaを読む。

まず、オープンソースと言うと、ビジネスを志向しない非営利なイメージを思い浮かべてしまうけれど、そもそもの始まりは、フリーソフトウェアをビジネスの場に浸透させるために作り出されたプロモーション用語、というのが面白いですね。

オープンソースとはなにか?というと、「オープンソース・ライセンス」に表されるソフトウェア思想である、と言っていいかと思います。
登場の経緯から言うと、フリーソフトウェアをビジネスの場に売り込むための「ブランド名」と言うのが正確かもしれませんが、そこに確かな思想が存在していると思うので。
ライセンスの正確な定義はThe Open Source Initiative: オープンソースの定義(日本語)をご覧いただくとして、主な特徴について見て行きたいと思います。

オープンソースと言うと、やはり、「ソースコードの公開」が一番の特徴として思い浮かびます。
ソースコードというのは、まぁ、家電製品なんかにたとえて言えば「設計図」の類でしょうか。
設計図を公開すると、他所にまねされたり、ノウハウが流出したり、製品の欠陥をついて悪用されたりと、様々なリスクが考えられるので、普通は秘密にされるものです。

しかし、そうしたリスクは裏を返せば、多くの人にまねされ共有されることで、技術の利用応用が加速度的に進み、進化していくことにもつながります。
オープンスースとは、言うなれば、ソースコードを公開することによるデメリットよりも、こうしたメリットのほうが大きくなることを信ずる思想であると言えるかもしれません。

そのために、オープンソースは、その「利用」についても規定しています。
ざっくり言えば、オープンソースで作られたソフトウェアは、誰もが自由に利用できるし、自由に複製できるし、自由に派生物を作ることができるし、自由に改変できるし、自由に再配布できることを保証しなければなりません。

たとえソースコードが公開されていても、「利用には別途契約が必要です」とか、「特定の団体や個人、分野では利用できません」とか、そうした制限のあるものは本来的な意味でのオープンソースではない、ということですね。

こうした、ソースコードの公開と自由な利用は、フリーソフトウェアと思想を同じくするところです。
では、フリーソフトウェアとオープンソースとの違いはどこにあるのかというと、むずかしいところですが、結局は「思想にある」というほかないでしょうね。
そもそも、一言に「フリーソフトウェア」といっても、そこには様々なライセンス形態があります。
幹となるフリーソフトウェア思想については共通していても、枝葉の思想に違いがあり、その数だけ異なるライセンス形態が存在しています。

オープンソースとは、まず、フリーソフトウェア思想の共通部分をまとめたもの、と言えるかと思います。
そしてそれに、「ビジネス分野への浸透」という思想を付け加えたもの、と言えるでしょうか。
大きくは、もちろんビジネス分野に限らず「あらゆる分野への浸透」を目的としていますが、誕生の経緯からすると、特にビジネス分野への浸透を目的とする思想があったと考えられますので。

もっとも、いまではより広い意味で、あるいは別な意味でも、「オープンソース」という言葉が使われるようになってきているみたいですけど。
それだけ言葉として浸透したということでしょうね。

とまぁ、ざっと調べた感じでは、こんなところでしょうか。
もしなにか間違っていることなどありましたら、教えてください。
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by kude104 | 2009-06-22 17:43 | PC&ネット

中と外

かみつく相手が違うのでは - Tech Mom from Silicon Valley

そもそも、「オープンソース的」という表現が摩擦の原因のようにも思えるのだけど、とりあえずそのへんは置いておくとして。
その中から誰かがちゃんとリーダーシップをとって組織化して動き出して
この一文を読んで、そうか、日本のウェブが海外から見て残念に映るのは、日本人のリーダーシップで組織化され、海外に知られているケースが少ないからじゃないだろうか・・・という視点が頭に浮かびました。

たとえば、ソフトウェアのオープンソース活動にしても、日本でももちろんけっこう盛んに行われているのですが、ただ、オープンソース活動を組織化して国際社会で存在感を示している日本人、という例で言えば、世間的な印象としては、あまりないように思います。
そもそも、オープンソース自体ほとんど知られていない中で、さらに日本人が・・・ってことですからね。

一方、オープンソース活動を行っているひとから見ると、当然、日本人もたくさんいるよ、と。

ただ、見ているものが違うのですね。
大げさに言うなら、外の人にとっては、日本人がいくらオープンソース活動を行ったところで、海外で評価されなきゃ知らないよ、と。
あるいは、いくら兵卒として活躍したとしても、評価されるのは率いている武将だけですよ、と。
これはまぁ、外からの評価としては、正しくはある。

一方、中の人からしてみれば、べつに外の人に評価されるためにコードを書いているわけじゃないので、「日本人のリーダーシップで組織化され、世界に知られているケースが少ない」と言われても、「だからなに? そんな暇があったらコード書くぜ」といった感じでしょう。
中の世界では十分評価されたり楽しかったり満足しているので、それだけで活動する理由としては十分なわけですから。

でも、そうすると、外の人には「国際社会で存在感のない日本のオープンソースは残念」と映るわけだけど、中の人にしてみれば、自分たちの活動を外野に残念呼ばわりされて気分悪いということになって、衝突する、と。

こうしたことは、きっと、オープンソースに限ったことではないでしょう。

中の人間がいくらがんばってよい成果を上げていたとしても、それが外の世界に知られていなければ、外の世界では評価されない。
一方、外の世界に伝わっていないからと言って、中の世界に何もないわけではない。

たとえば、テクニックとして、外から見て「残念」に思える時は、「良いものもあるのだろうけど、それが上手く外に伝わっていないのが残念だ」といったニュアンスで語れば、摩擦も少なくて済むのではないかと思います。
中の人も、外の人に正当に評価されていないと感じるときは、「中にある良いものを、上手く外に伝えられていないのではないか」というところに気をつければ、良いのではないでしょうか。

そうしたことを、日本の「オープンソース的なるもの」について考えれば、日本には、中の成果を上手く外に伝える役回りのひとがあまり目立たないのかもしれませんね。
オープンソース的に言えば、コーディネーターですか。

日本人は(と、てきとーな国民性論を語るならば)、なまじ能力がある分、有能な配下タイプに育ってしまって、君主タイプがなかなか育ちにくいところはあるのかもしれませんね。
劉邦がごとく、将に将たる能力に優れた人材は、なかなか現れにくい気がします。
なまじ能力があると、兵に将たる方向に進んじゃうのでね。

なので、マジメにオープンソースやってる人、あるいは社会的な仕組みさえ整えば自分もやってみたいと思っている人は、誰かに対してかみつくよりも、いいコーディネーターを探すと良いと思うな。
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by kude104 | 2009-06-20 13:23 | PC&ネット
日本のweb環境では個人は幸せになれない - non title
何故か日本ではアメブロなどにブログを開設し、なんの個人収益にもならないにも関わらず、せっせとブログ更新されている方が多い。それによってブログ主個人は利益にならないが企業は儲かるというシステムとなっている。
日本は、『個人の幸せ』より『法人の幸せ』に重きが置かれる感じがします。
多くの人にとって、ブログを書くのは趣味だからね。
趣味というのは、たいていお金をもらってやるのではないからね。
むしろ、お金や時間や労力を費やしてやるものでしょう。

アメブロなどの運営企業の儲けは、ブログサービスの運営による収益と考えるべきでしょう。
本来なら有料で提供するサービスを、無料にする代わりにここから上がる広告収入はうちが頂きますよ、という「売買取引」になっていると考えるべきです。
有料アカウントなのに広告が表示されるとか、ブログの内容を書籍化販売されて、その収益を全額もっていかれたとか、そうした話ならば「搾取」と感じもしますけれど。

ブログの更新作業をお金に変えることと、ブログサービスの運営をお金に変えることとは、まるで別と考えたほうがいいのではないかと思います。
極端に言うと、野球選手と、野球の試合を放送するテレビとの違い・・・かな?

たとえばプロ野球選手なら、球団からお金がもらえます。
企業からお金をもらってブログを書く、といったことは、こうしたケースに当たるでしょう。
一方、草野球選手がお金を得ようと思ったら、自分で試合のチケットを売ったり、スポンサーを探したりしなければなりませんよね。
たいていは面倒くさくて、そんなことやってられない。
お金を得るためのコストより、得られるお金のほうが少ないでしょうし。

ブログシステムの用意やメンテは企業、スポンサー探しも企業、で、更新はブロガー。
そうした状況で、さて、発生した広告収入のうち、ブロガーの貢献度はどの程度なのか?
貢献度の高いブロガーはどんどんプロ化して良いと思います。
一方、貢献度の低いブロガー(つまり、趣味ブロガー)は、広告収入をすべて企業に渡すかわりに無料で利用させてもらいます、としたほうがお得になるかと思います。

なので。
日本のウェブで個人が儲けようと思ったときに、現状それが難しい理由を、日本人の「法人が儲けるのは良くても個人が利益を上げるのは許さないぞ!という精神」にあるとするのは、ちょっと違うのではないかと思う次第です。
「amazon無効化」ソフトなどが、企業は通すけど個人は通さないように作られているとかなら、それもあり得るかもしれませんけど。

広告収入のことは、単純に、ネット広告の規模が小さいからじゃないでしょうかね。
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by kude104 | 2009-06-08 19:16 | PC&ネット
梅田氏と「アテネの学堂」 - Tech Mom from Silicon Valley

ぼくは日本のウェブにおいても「アテネの学堂」はいずれ現れると思っています。

ただ、そのままのネット空間をポンと用意して、「はい、ここがアテネの学堂ですよー」といったところで機能しないのは当然で。
「アテネの学堂」を作りたかったら、まず、「学堂」として使える施設(システム)を作らないといけない。
次に、そこに知的エリートを志す人を集めなければならない。
そうして、そこが「アテネの学堂」として機能しはじめたならば、“知的エリートの世界に参加したいと潜在的に思っている人たち”が自然と集まってくるようになるでしょう。

そうではなく。
まず大衆を啓蒙して、それによって大衆の中に「アテネの学堂」を望む機運が高まり、その結果「アテネの学堂」が大衆の中より自然発生的に立ち現れてくる──と、そんなシナリオを期待しているならば、それこそ10年20年のスパンで観ていないと。
たかだか3年や5年で「アテネの学堂は現れなかった・・・」と失望するのは、ちょっと早すぎるんじゃないでしょうかね。

まぁ、ぼくは「大衆を啓蒙して」という方向性は好きじゃないので、「アテネの学堂」が欲しければ、そう思う人たちが作ればいいじゃない、と思います。
初めは小さくていい。
志を同じくする二、三人だけで始めればいいじゃない。
いきなり大学を作ろうとせず、まずは寺小屋からつくりましょうよ、と。

寺子屋作って、そこで楽しそうに学んでいれば。
それを見た別の誰かが「面白そうだな。よし、俺たちもやってみよう!」となる。
そうして小さな「学堂」が次々と生まれ、やがてそれらが結びつきあい、巨大な「アテネの学堂」へと成長していく──と、そういうアプローチでいいじゃない。

もし、そうならなければ──フォロワーが誰も現れないとか、そういう場合は、やはりなにか、どこかに問題があるということでしょう。
たいていは、システムに無理があるとか、そもそも需要がないとか、そんなところです。

サブカルには放っておいても人が集まるのは、楽しいからです。
「知的な議論」に人が集まらないのは、楽しくない(というか、楽しさを知らない)からでしょう。
だったら、「知的な議論」を楽しいものにすればいい。
「才能の無駄遣い」な議論がバンバン行われるようにすればいい。
楽しくないものをイデオロギーでやらせるようなことは、ぼくは好かんですね。


梅田さんを「残念」に思う人の気持というのは、ひとつには、「誉めよう誉めよう」と言っている人が、日本のウェブにはダメ出しする、みたいなところに、ダブルスタンダードめいたものを感じるからじゃないでしょうか。

そしてもうひとつは、「実行者」じゃないところでしょうか。
これは昨日書いた「コンサルタントだから」しょうがないとは思いますが、もし梅田さんご本人が先陣切って「アテネの学堂」を作らんと活動していらっしゃれば、やはり応援したくなりますよね。

ぼくが原丈人さんを「すげーなー」と思うのは、同じオプティミストでも、彼の楽観主義は「なぜなら、私が実現させるから」というところで発せられているからです。
好き嫌いで言えば、ぼくはそういう人が好きなので。


ところで。
本日、またひとつ歳をとってしまいました。

ぼくは日本のウェブにおいても「アテネの学堂」はいずれ現れると思っています。
なぜなら、ぼくが作るから──と言えるように、まだまだ成長しなければ。
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by kude104 | 2009-06-04 15:05 | PC&ネット