世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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カテゴリ:時事・社会( 203 )

まっとうな男女交際って、それなりに修練しないと無理じゃね? - シロクマの屑籠(汎適所属)

まっとうなコミュニケーションのスキルがあれば、男女交際も大丈夫なんじゃね?
根本は人と人との付き合いなわけだから、恋愛とて、そう特別なものではないように思うんだけどなぁ。

恋愛のテクニックを磨いて行けば、たしかにスマートに恋愛できるようになるだろうけど、それがなに?って気がする。
スタイルとしての恋愛をするには、それは役立つスキルだろうけど。
“まっとう”に付き合って、お互いの関係を築いていく過程においては、結局一般的なコミュニケーション能力が物を言うんじゃないかなぁ。

なので、男女交際を義務的に教育する必要はないとぼくは思う。
それより、広く一般的なコミュニケーション能力を磨く教育のほうが望まれるんじゃなかろうか。
ある程度は自然と身に付くものであるとはいえ、社会生活を送る上で極めて重要な能力である割には、その習得が自然に任せられているのはどうにも心許ない。

一般的なコミュニケーションの学習であれば、「修練のために、とりあえず友だちになる」とか「教育機関が推奨する友だち付き合い」とかいうのも、さほど抵抗ないだろうしね。
それで学習したことを、あとは個々人で恋愛に応用してもらえばいいんじゃないかと思う。
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by kude104 | 2009-09-27 17:32 | 時事・社会
アテンションとエコノミーの間 - アンカテ
「アテンションエコノミー」とは、アテンションとお金が連結されることではない。
「シェアできないもの」はお金(エコノミー)で回り、「シェアできるもの」はアテンションで回り、両者が無関係に並立することだ。
うーむ。
商品をお金に換えて、そのお金をまた商品に換えられることで、エコノミーシステムは回るのだろうと思います。
でも、アテンションシステムは、「情報」をアテンションに換えたら、それで終わりじゃないのかな。
それとも、なにか上手くすれば回せるんだろうか。

集めたアテンションを「情報」に換えるというのは、「情報」はシェアできるという前提ゆえに、成り立たないでしょう。
アテンションがなければ手に入らない「情報」というのは、シェアできない「情報」なので、エコノミーシステムに乗せることができます。

同様に、アテンションを何らかの方法でお金に換えるというのは、結局、アテンションをエコノミーシステムに乗せることなので、「アテンションとお金を切り離す」というここでの話に反します。

たとえば。
ある人の時間を1秒間消費させることを「1アテンションタイムの消費」とすれば、人は一日に活動時間分のアテンションタイムを生産していると考える事ができます。
そして、アテンションタイムの総量は一人当たりの活動時間×人口となり、アテンションシステムは、このアテンションタイムの資源配分システムになると考えられます。

エコノミーシステムでは、資源は究極的に食料だとすれば、それは生きるために必ず消費しなければならないものです。
必ず消費されるから、コストをかけて生産され、それによってエコノミーシステムが回ります。

一方、上記のアテンションタイムは、放っておいても自然と生産される一方で、必ず消費されなければならないものではありません。
ゆえに、そのままではアテンションシステムを回すエネルギーが湧きません。

このエネルギー。
エコノミーシステムに当てはめて考えるなら、アテンションシステムというのは、必ず生産されるアテンションタイムを、コストをかけて消費するのが正しい姿なのかもしれないですね。
(ここでのコストは、エコノミーシステム的なコストです)

もし、集めたアテンションを何も交換しないなら。
たとえば「名声欲を満たすため」など、自分で消費するためにアテンションを集めるのなら。
アテンションを集めるためのコスト(金銭的なことだけじゃなく、何かを作るための労力など)は、アテンションを自分で消費するために支払うコストと見なせましょう。
つまり、アテンションシステムでは、コストを支払ってアテンションを消費するのだ、と考えられます。

「情報」の消費者がコストを支払うのが旧来のエコノミーシステムなら、「情報」の提供者がコストを支払うのが来るべきアテンションシステムなのかもしれないですね。
無関係というより、ふたつは反転した関係になるのかもしれない。
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by kude104 | 2009-07-26 23:59 | 時事・社会

「祭り事」の政治

最近政治についてモヤモヤと考えるのだけど、「国民一人一人がきちんと候補者を選んで投票すれば政治はよくなる」というのは、結局のところ幻想なんじゃないかなーという気がする。
絵に描いた餅とでも言おうか、「みんな仲良くすれば世界は平和になる」ってのと似たり寄ったりなんじゃないかなぁ。

集団の中に、そもそも理知的に判断して行動できる能力を持ったひとって、いったいどれくらいいるのだろうね。
加えて、そのひとが理知的に判断して行動できるだけの情報なり状況なりが整っているケースってどのくらいあるのだろう。
そう考えると、やはり冒頭のように考えてしまう。

ならば。
すべてのひとが――覚悟としては大多数の人が、理知的に候補者を選ぶ/選べるわけではない、ということを前提に選挙というものを考えたほうがいいのではないだろうか。

大衆というものを考えた場合、大多数の人は理性ではなく感情で行動すると捉えるなら。
選挙というものは、理知的に判断しうる(と自認する)少数が、いかに大多数の感情に訴えるか、という戦いなのではなかろうか。
つまり、理知的な政策を、どのように感情的なコトバに変換するか。
下手をすればヒトラーみたいなのが生まれちゃうのだけど、マツリゴトというのはやはり本質的に「祭り事」なのだろうと思う。

で、感情に訴えるには、共同体に、その共同体意識を刺激する言葉を投げかけるのがたぶんもっとも効果的で、だから、共同体が解体されて個人個人がバラバラに投票するようになればなるほど、選挙への関心が低下するのだろう。

よって、いまの時代に政治を活性化させようと思ったら、よい政策を掲げ、その政策の支持者となる人々を組織化し、その共同体の感情を刺激してやる必要があるだろう。
そこまでしないとダメなんじゃないだろうか。
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by kude104 | 2009-07-17 23:59 | 時事・社会
不況影響…「婚活」新時代、キーワードは“共働き”(産経新聞) - Yahoo!ニュース

ふーむ、たしかに、婚活は女性のほうが大変そうだなぁという印象。

男性は、裏を返して言えば、カネさえ持っていれば結婚できそう。
その「カネさえ持っていれば」がすごく難しいというのはあるけれど、ステージクリアのための条件は分かりやすい。
年収600万くらいあれば結婚できる、なければ諦める、みたいな。

女性の場合は、年収が高ければ結婚できる、というものでもない。
ま、いずれは、「主夫ゲットだぜ」的な働く女性の結婚が珍しくなくなる時代も来るでしょうけど、まだ10年は先じゃないかな。
性格の良し悪しは、男性だろうと女性だろうと、「婚活」ではアドバンテージにならないし。
となると、やはり、女性の武器は「美貌と若さ」ということになるでしょうね。
ってことは、女性の「婚活」は20代のうちが勝負ってことになっちゃう。

20代のうちから婚活市場に参戦して、稼ぎの良い男を探し、あの手この手でアプローチをかけ、ライバルたちを蹴落としつつ、ものにする。
稀少価値の高い「裕福な男性」を戦略的にゲットしようと思ったら、女性はますます「肉食化」して行かざるを得ないよなぁ。
下手をすれば、高校卒業くらいで婚活市場に参戦するのが、最強戦略かもしれない。
婚活する30代40代といった女性たちは、そうしたライバルたちと戦っていかなければならないのだから大変だ。

男性の場合は、言うなれば、仕事のことだけ考えていれば結婚も付いてくる(要するに、年収を上げればよい)けど、女性の場合、仕事と結婚が別だからなぁ。
仕事は仕事で、今の社会じゃ男性並みに出世するのもなかなか大変だろうし、結婚は結婚で、結局「若さと美貌」が決め手なら努力のし甲斐も難しい。

恋愛結婚と婚活市場で需要の高い人以外は、もはや結婚しない・できない時代になったのではなかろうか、と思います。
あとは、試験管ベイビー的な、結婚しなくても子供持てます的なシステムが整えば、苦労して妥協してそれでも結婚する意味合いってあるのかなぁという気がしますね。
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by kude104 | 2009-06-16 17:25 | 時事・社会
自己責任論再考 - 狂童日報
そもそも「自分で決めたことだからしょうがない」という、世の中に広く存在する思考様式そのものが私にはよくわからない。自分が自分の人生に誇りをもつという意味ではまだわかるが、自分が選択した道で不幸になった人は救済する必要が(少なくとも相対的には)ない、という理屈になってしまうのはさっぱり理解できない。
たしかに。
「自己責任」であることとと、「救済」とは、別の話ですよね。
失敗したのは「自己責任」だと、批判するなり反省するなり、それはそれでやればいいけど、そうして失敗の総括が済んだならば、「自己責任」の話はそれでおしまいであるべきだ。

失敗したらそれでジ・エンド、社会復帰はできませんって世の中では、リスクが大きすぎてチャレンジャーが現れず、やがて社会は硬直化して衰退していくことでしょう。
そうならないためにも、チャレンジャーは奨励すべきで、ならば、失敗した者にも「その失敗を糧として、次がんばれ」と言うような世の中であるほうが望ましい。

それは別にチャレンジャーだけの話じゃなくて、普通の人でも、失敗してそのまま脱落されるよりも、復帰して再び社会の生産と消費の輪の中に戻ってきてもらったほうがいいに決まってる。
なんか、人間って無料で生産供給されるみたいに思っちゃうけど、実は、人一人を生み育て世に送るためのコストは膨大だ。
ならば、捨てるより再利用したほうがきっと経済的で合理的に違いない。

「自分が選択した道で不幸になった人は救済する必要がない」という理屈は、おそらく、コスト計算によるものだと思うのです。
つまり、救済するためにはコストが必要で、費やすコストに見合うリターンが見込めないだとか、手持ちのリソースではとてもすべての人を救えないから、救済に優先順位を付けましょう。ということで、「自業自得」なひとは後回しね、とか。

そういう考えの人は、もし救済したほうが経済的にお得になるなら、きっと、「救済する必要がない」じゃなくて、「無理やりにでも救済すべし」となるに違いないと思うのです。

また、救済のありようについても考える必要があるでしょう。
一口に「救済」と言ってもいろいろあります。
ここでぼくは救済を「復帰支援」的なイメージで考えていますが、そうではなくて、「生活保護」的なイメージで捉える人もいるでしょう。
「復帰支援」と「生活保護」とでは、内容も目的もぜんぜん違いますから、それを同じ「救済」で議論しても噛み合いませんよね。

「救済する必要がない」という人の中には、救済を「生活保護」的なイメージ----しかも、ずるがしこい怠け者に食い物にされるイメージで捉え、それゆえに「必要なし」と考える人もいるでしょう。
そうした不備のある救済や、却って対象者をダメにするような間違った救済が必要ないことは、たぶん多くの人が同意するところでしょう。

逆に言えば、「正しい救済」であれば、多くの人が賛同してくれるに違いない、と。
人々に対して、それくらいの信頼は寄せてもいいでしょう。
賛同が得られないなら、そこにはやはり何がしかの見落としや問題点があるのではないか。

「自己責任だから救済したくない」という主張がなされるとき、「自己責任だから」という主張に引っ張られがちだけど、本当に注目すべきは「救済したくない」のほうではないでしょうか。
「救済したくない」と思わせる救済案しか提示しえていないのではないか?と。

「自己責任だから救済したくない」という人に、「なるほど、これなら救済してもいいな」と思わせる救済案は作れないものでしょうか?
もし「最善の救済案」があるとしたら、それはきっとそうした期待に応えてくれるに違いないと思うのですが。
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by kude104 | 2009-06-12 23:59 | 時事・社会
解説委員室ブログ:NHKブログ | 時論公論 | 時論公論「議員世襲 制限は必要か」

原則論としては、世襲であろうがなかろうが、能力のあるなしで語ればよいということになる。
が、そうはいっても実際問題として、能力のあるなしとは別のところで当落が決まってしまう。
もし、有権者が候補者の能力をきちんと測って、それをもとに票を投じ、当落が決まるのであれば、世襲であろうが無かろうが大した問題にはならないだろう。
ということはつまり、世襲議員の問題というのは、「有権者は正しく候補者を選ぶことができません」という認識の上に生じる問題であるといえるのかもしれない。

だが、そもそも政治家に必要な資質や能力とは何だろう。
それらは選挙期間中に見極められるものだろうか?
また、それらの違いが、政治家としての活動成果の違いとして、どれだけ現れ得るものなのだろう。
つまり・・・概ね誰を選んでも大差ない、ということであるなら、世襲であろうとなかろうと大差ない、と言えるかもしれない。
あるいは、大差ないなら、世襲である弊害のほうが大きいと言えるのかもしれない。

あるいはもし、政治家に必要な資質や能力が、「地盤、看板、かばん」であるなら、世襲議員こそが正しい選択になるだろう。

考えてみれば、政治家に必要な資質や能力というものが不明のままに、われわれは民主主義政治というものを運用しているような気がする。
それらが不明であるために、優れた政治家になるための教育やトレーニングというものが確立しないままなのではなかろうか。
もしかしたら、それらは政治家を志す人々の間では自明であり確立しているのかもしれないけど、世間一般に知られるほどには至っていないだろう。
経営者にとってのMBAのような、あるいは英検何級みたいな、能力を示す分かりやすい「肩書」があると便利な気がする。

いっそ、選挙活動をバラエティ番組みたいにしてみるとか。
選挙区ごとに候補者を一堂に集めて、政治家常識クイズ対決とか、朝まで生討論とかやるの。
もちろん、その模様はテレビでお茶の間に届けます。
名前を連呼するだけの選挙活動などより、よっぽど一票を投じる参考になるだろう。
番組としても、けっこうスリリングで面白いと思うけどなー。


とまぁ、なんだかとりとめのない話になったけれど。
「世襲制限」というのは、現行の選挙システムの根本に不備があるのだけど、そちらは手直しできないので、とりあえず対処療法的に世襲だけ制限してはどうか、という話のように思える──と。
だからどうすりゃいいというアイデアもないのだけどね。

とりあえず、世襲制限はやってみてもいいとは思う。
少なくとも害はなかろう。
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by kude104 | 2009-05-11 22:20 | 時事・社会
日本の政治をよくするために必要なただ二つのこと - Tech Mom from Silicon Valley

前回「日本って、そんなに閉塞しているのか」を書いたあとで、例のブログエントリーに対して寄せられている様々な発言を読んで感じたのは、日本の政治に対する見事なまでの諦めムードです。

今の(そして未来の)政治家たちに対する期待値もゼロならば、「自分たちの手でそれを変えて行こう」あるいは「自分たちの手で世の中を良くしていこう」といった意識も、限りなくゼロに近いんじゃないかという印象を受けました。
ま、あまり「自分たちの手で!」という意識が強いと「憂国騎士団」みたいなのが現れてきそうなので、それよりはましだと思いますけど。


ぼくもそうですが、政治というものはなにか自分とは縁遠いところにあって、自分とは無関係な誰かがどうにかしているもの、という認識があるように思います。
政治家になろうなんて思ったこともなければ、誰か政治家なり候補者を応援したこともない。
ロビー活動をしたこともなければ、政治集会に参加したこともない。
政治献金なんて、悪いお金くらいのイメージしかない。
やることと言えば、せいぜい選挙に行くくらいですが、それだって自分の一票が政治を変えるなんて信じちゃいない。
国民主権とは言うものの、実際問題、信じている人どのくらいいるんでしょうね。

だから、このままでは日本はダメだと言われても、誰かがどうにかしてくれるのを待つだけだし、それが期待できないとなると逃げるか諦めるしかないわけです。
そりゃ、閉塞感も漂うよなぁという気がします。

というわけで。
「日本の政治をよくするために必要なただひとつのこと」と銘打って考えるなら、いかにして国民の政治への参加意識を高めていくか──ではないかと思います。
以下、その観点からつらつらと。


ぼくはこれでけっこうネットの可能性を信じている人間ですので、政治もインターネットの活用によって変わりうるという期待を持っています。
情報と思考を共有することで、人々の知的レベルというのかな、社会の認識水準は向上すると思っているので、政治においてもそれを実現できればよいのではないかと考えます。

たとえば、政治家についてのデータベースがあると面白いんじゃないか、とか。

過去・現職含めて、プロフィールはもとより、どのような活動を行い、どのような成果を挙げたか。
どのような立場でどのような発言をし、どの政策にどういう態度を示したか。
そうしたデータベースがあると、選挙の際に、新人候補者は無理としても、再選を狙う候補者に対しては、事前にささっとデータベースをチェックして、その良し悪しを判じることができるのではないか。

現状では、そうした情報へのアクセスが不便すぎますよね。
それで有権者に正しい判断をせよと求めるのは、ちょっと無茶じゃないかなーと思います。

政治家を選ぶ投票だって、言うなれば国の未来に対する「投資」なのだから、株式市場と同じかそれ以上の「投資家保護」の観点があってよいと思う次第です。
会社に有価証券報告書の提示を義務付けているみたいに、政治家にも活動報告書のようなものを義務付けてもいいと思うけどなぁ。
会社四季報みたく政治家四季報とかあったら読んでみたい。

そうした体制を国に作れと言ってもあまり期待できそうにないので、民間でやれないものかと考えます。
NGO的な組織を作って。
うーん、とりあえず資金力と組織力が要りますね・・・。


あるいは、ネットを活用し、ロビー活動をエンターテインメントにするというのはどうでしょう。

解決を目指す問題──なんでもいいですけど、たとえば雇用問題であったり年金問題であったり、とりあえずなにかひとつ解決を目指す問題を掲げます。
で、その問題を解決するにはどうすればいいか、ネット上で議論していきます。

もっとも、議論自体はネット上じゃなくてもいいですけど、解決策を導く過程をオープンにし、それに対する人々の意見を広く募りながら解決策を練り上げて行くという過程、それは立派なエンターテインメントになり得ると思うので。

そうして練り上げた解決策を持って、議員なり官僚なりに面会を申し込みます。
そして、「これを実行してくれませんか」とお願いしようという作戦です。

協力してもらえればいいですが、世の中そんなに甘くはないでしょう。
門前払いを食らうかもしれませんし、適当にあしらわれたり、ダメ出しをされるかもしれません。
でも、そうした様子を克明にレポートすれば、コンテンツとして十分面白いと思うのですね。

話をすることで、議員なり官僚なりの事情、考え、人となり、そういったものが分かります。
素人目で良しと思った解決策でも、専門家の目から見て、その問題点が明らかになることもあるでしょう。
そうしたレポートによって、政治というものが少しずつ分かってくるのではないかと思います。

そうして、まかり間違って見事解決策を通すことができたなら、その成功体験は人々の政治意識を変えるのに十分な役割を果たすのではないか・・・。

これなら目的意識を共にする数人のグループで実行できそうですから、政治に興味のある学生さんとか派遣村の方々とか、よかったらチャレンジしてみて欲しいなー。
自分でやるには、ちょっとぼくのモチベーションが足りてませんので。


──などと、結局他人任せを露呈して夜も更けて行くのでした。
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by kude104 | 2009-05-06 21:38 | 時事・社会
【家裁GJ】息子への輸血を「宗教上の理由」から拒んだ両親に対し、即日審判で親権を停止:アルファルファモザイク

ぼくも教義を重んじ輸血を拒否して死ぬのはバカらしいと思うくちですが、ここに寄せられているコメントの多くは「偏見」であるように思います。
ぼくもそうですが、コメントを寄せている多くの人も、おそらくその宗教に対してきちんとした知識を持っての発言ではなかろうと思います。
無知な批判は無知な信仰と五十歩百歩ではないかな。

ということで、無知なぼくの素朴な疑問を少々。
だれか答えご存知の方はいらっしゃいませんか?


エホバの人たちが輸血を拒否する理由というのは、たしか、神様が「動物の肉を食べてもいいけど、でも、血の付いた肉は食べちゃダメよ」と仰ったと聖書に書かれているから、だったと思う。
いちおう科学的な理由づけとして、輸血の危険性を挙げたりもしているようだけど、本命は「聖書に書かれているから」だろう。

ま、ぼくが思うに、「血のついた肉を食べちゃダメ」ってのは、たぶん、「肉は生で食べると腹下すぞ」的な生活の知恵じゃないかな。
昔の宗教って、たぶん、そうした生活の知恵や共同体のルールを「神の教え」ということで皆に守らせる役目を持っていたんじゃなかろうかというのがぼくの考え。

それはさておき。
そうは言っても、「血が付いた肉は食べちゃダメ」から「輸血ダメ」までには、えらく飛躍があるように思う。
「血が付いた肉は食べちゃダメ」→「血を食べちゃダメ」→「他人の血を体内に摂取してはダメ」→「輸血ダメ」になるのだろうけどね。
でも、聖書で神が禁止しているのは「血のついた肉を食べちゃダメ」である。
ダメなのは「血のついた肉」であって「血」じゃないし、「輸血」じゃなくて「食べること」だ。

「聖書のどこに神様が輸血を禁じるくだりがありますか? 神様は一切輸血を禁じてなどいないですよね」と問えば、彼らはどうこたえるのだろう。
おそらく、「血が付いた肉は食べちゃダメ」のくだりを持ち出してくるだろうけど、じゃあ、「肉」はなぜ良いのだろうか。
「血のついた肉」というものの主体はどう考えても「肉」にある。
肉は良いとする根拠はなんだろう。
肉を良いとするロジックで、血も良しとできる気がするのだけど。
知識がないので、良く分からん。

もし神様が明確に「輸血ダメ」と言っているなら、分かる。
そんな神様を好きになれるかどうかは別として、神様がそう言っているから従うというのは信仰として分かる。
でも、神様が言ってもいないことを、「血が付いた肉は食べちゃダメ」→「輸血ダメ」と勝手に解釈するのは、神に対する不遜であると考えたりしないのだろうか。

仮に、なるほど聖書に輸血を禁止する記述があるとしよう。
でも、たしかイエスも言われているではないですか。
「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」と。
──などと、ぼくの半端な知識で論じても隙だらけかもしれないけれど。

戒律というのは人のためにあるのであって、人が戒律のためにあるのではない。
「神は愛です」と彼らは言うくらいだから、もし仮に神が輸血を禁じているとしても、生き死にの場面で戒律と人の命のどちらを神様が大切に思われるかといえば、「それはもちろん人の命です」と答えないと嘘でしょ。
たぶん、イエスさんなら「そりゃ人だろ常識で考えてw」って答えるだろう。
人の命より戒律を重んじる神様連れてきて「愛」を語らせるなと言いたい。

それでも、輸血禁止を貫くというのなら。
たとえばどうだろうね、もしものときのために、普段から自分の血をストックしておくというのは。
輸血に使用する血液の保存期間がどれくらいあるのか知らないけど、保存期間と献血(というか自分の血を抜く)量と周期とが釣り合うのならば。
教義的にも「自分の血なら輸血OK」くらいの譲歩はできるんじゃなかろうか。
自分の命をいたわることは、神の愛にもかなうんじゃないかな。

しょせん宗教だって解釈次第で白にも黒にもなるんだから(というと怒られるけど)、できる最大限で信者さんたちがハッピーになれるような解釈をしてあげてほしいものだと思う。
あの時代にそれをしたからこそ、イエスはメシアになれたんだろうと思う。
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by kude104 | 2009-03-15 23:59 | 時事・社会

対テロ戦争の勝利条件

asahi.com(朝日新聞社):社説「対テロ戦争―どこが間違いだったか」

「どこが」というなら、勝利条件が間違いだったのだろうと思う。

戦争というのは、始めるときよりやめるときのほうが難しい。
(戦争に限らないかな)
なので、これから戦争を始めようというときには、あらかじめ「勝利条件」と「敗北条件」を明確に厳密によくよく決めておかなければならない。

たとえば、旧日本の対米戦争とか。
彼らが開戦時にいったいどのような勝利条件を設定していたのか、全然分からない。
まさかワシントンを攻略するつもりだったわけじゃあるまい(そこまでバカじゃないだろう)。
常識的に考えて、「アメリカに一撃を加えて戦意を喪失させ、有利な条件で講和する」以外に勝利条件を設定しようがないと思うわけだが、「講和する」をどれだけきちんと計画できていたか、はなはだ疑問だ。

「テロ根絶」を勝利条件に設定することは、ワシントン攻略と同じくらい無茶なことだと思う。
そんなもん、5年10年で根絶できるわけないじゃない。
下手をすると、永久に無理かもしれないくらいだ。
テロ根絶とかイラクの治安回復とかそんなこと考えずに、単に圧倒的軍事力で「敵」を一撃して、「アメリカ超こえー」と思わせる──というのを勝利条件にしていたら、アメリカ大勝利で終戦できていただろうにね。


それはそれとして。
じゃあ、テロとどのように戦っていけばいいかという点についても考えてみよう。

たとえば、資金源を断つとか。
テロ組織を直接叩くのは難しいので、テロ組織を支援している組織を叩くという戦略のほうが良いのではないかと思う。
たとえば、テロ組織を内部分裂させるとか。
組織内部の権力争いを煽るとか、テロ組織同士がいがみ合うよう仕向けるとか。

個人的には、アメとムチで言うところのアメに相当するものが、今のテロとの戦いにおいて欠けているのではないかと思う。
たとえば、一方のテロ組織に対して、他方に平和的なやり方で自分たちの権利を勝ち取っていこうという組織があるとして。
この組織に対して、多少なりともアメ的に譲歩して、彼らの主張を聞き入れてあげる、と。
そうすることで、テロ以外にも要求を実現させうる手段があるんだよと、提示することができる。
しかも、そちらのほうが要求が通る可能性が高いとなれば、「じゃあ、おれはテロじゃなくて平和的手段を選ぼう」という人が増えるのではないだろうか。

テロに走る以外に道がないという状況では、テロに走るしか道がないわけだから、他の道を作ってあげると良いと思う。
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by kude104 | 2009-01-21 17:04 | 時事・社会

派遣村バッシング

なにやら派遣村バッシングが流行っているみたいなので。

いわゆる自己責任論と社会保障というのは、それぞれ車輪の片側ずつで、両方揃ってはじめて社会は安定して進むのではないかと思う。
問題に対して、当事者がどのように解決を図るかという内から外へのベクトルと、周りがどのようにサポートするかという外から内へのベクトルと、両方が必要なんじゃないだろうか。

個人的には、ダメなひとも自業自得なひともフリーライダーもプロ市民も老いも若きも男も女も、生きとし生けるものはすべて、救えるものなら救えばいいと思う。
実際には、皆救うだけのお金がないから救えないけど、救えるものなら皆救えばいいと思うのだ。
「お前は怠け者だから、救えるけど救ってあげない」なんていじわる言わないで、救えるものなら救えばいいじゃんと思う。
実際には、救えないんだけどね。

たとえは少し違うけど、不用意に地雷原に入って爆死するやつはたしかに自業自得でバカだなぁと思うけど、でも、だからと言って地雷原を放置しておいてよいということではない。
地雷原があるという現状に対しては自己責任で身を守らなければならないけど、理想はあくまで地雷のない世の中だから、個々の自己責任に任せていないで、地雷の撤去は行わなければならない。
一方、爆死してから地雷があるとは知りませんでしたとか、撤去が遅いと文句を言っても後の祭りなので、本質的には自分の身は自分で守るしかない。

「地雷の被害をなくそう」という目的は同じなのに、「自己責任だ」「撤去が遅い」と非難しあうのってバカバカしいなぁと思う。
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by kude104 | 2009-01-09 22:07 | 時事・社会