世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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カテゴリ:時事・社会( 203 )

「火の鳥は近親相姦があるけど規制?」 猪瀬副知事「されません」「傑作であれば、条例なんてないも同然」 - 痛いニュース

東京都の青少年健全育成条例改正案については、いわゆる「子どもに悪影響を及ぼしそうなものは、一般の販路とは別になるよう規制しましょう」という部分については、そりゃもっともなことであるよと思う。

もちろん、有害なものをすべて隠した無菌室のようなところで育った子どもは大丈夫か?という思いはある。
でもまぁそのへんは子どもってたくましいから、どこからともなくエロを仕入れてくるだろうという気もするから、まぁいいか――と。

問題は、有害無害の線引きを誰がどのように決めるのか?というところだろう。
条例の反対派の多くも、この点を強く懸念していたように思う。
結局、条例の改正案は成立してしまったわけで、結果的には反対派の敗北と言えるだろう。
なぜ反対派は敗北したのか?

争点は、「子どもの目に触れさせない」という規制の必要不必要の部分と、「線引きをどうするか?」という規制を実施する場合の運用についての部分と、ふたつあるとする。
反対派は、運用についての部分に問題があるから、規制反対というふうに論を運んだわけだけど、これが駄目だったのではないだろうか。
もしこれを、規制には賛成だけど、運用に問題があるというふうに運んでいたらどうだったろう。

本音を言えば、規制などされたくない。
それはそうだ。
それで世間の賛同を得られるなら何も問題はないわけだけど、世間ではおそらく「規制やむなし」のほうが優勢だ。
ならば最も守らなければならない本丸は何かと言うと、「線引きをどうするか?」だろう。
ここさえ守れたならば、敗北ではなく妥協で済む。

どうせ完璧な線引きなどできるわけがないのだ。
行政側が恣意的に線引きする危険性があるということは、裏をかえせば、出版社側が自分たちの都合のいいように線引きできる可能性もあるということじゃないだろうか。
「誰がどのように線引きするか?」というルールが未確定ならば、そこを自分たちの都合のいいルールにしてしまえば、規制などあって無しが如しである。
いやむしろ、自分たちの都合のいい線引きをして行政のお墨付きをつけられるならば、それは願ったり叶ったりじゃないか。

「運用に問題があるから規制に反対」と主張してしまっては、「規制に反対」の部分だけを取り上げられて、賛成派を敵にまわす。
そうではなくて、「規制には賛成。でも運用には問題があるから」ということで、運用についてだけ反対する。
しかも、ちゃんと対案となる(自分たちに都合のいい)運用ルールを提案する。
そうすれば、賛成派反対派双方の賛同を得られた可能性はないだろうか。

たとえば、行政が線引きすると戦前の検閲のように利用される懸念があるから、民間の有識者で作る審査会で判断する、と。
そのメンバーは行政の息のかからないところで選出する。
すべての出版物を事前に審査するのは困難であるから、基本的には出版社側の自己規制としておいて、発売後等に消費者からクレームの付いたものを対象に審査し、問題があればペナルティを課す形にする。
審査にかかる費用は都が負担する。
・・・みたいな感じにしておけばどうだろう。

あとは新聞やテレビに協力してもらって、「民間によるクリーンな線引きを」という線で押せばいい勝負できたんじゃないかな。
もしこれで成立したなら、実質的には規制反対派の勝利じゃない?
あわよくば賛成派が二分されて、話がまとまらず結局見送りってことになったかもしれないしね。
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by kude104 | 2010-12-17 20:36 | 時事・社会
<石原都知事>「テレビなんかにも同性愛者が平気で出る」 都青少年健全育成条例改正に意欲 - Yahoo!ニュース

この記事しか読んでないからかも知れないけど、なぜこの流れから「同性愛者」が出てくるのか分からん。

同性愛に対する嫌悪感というものは、たぶんキリスト教的価値観じゃないかと思う。
日本も昔はふつーに同性愛があったようだし、外国だって、たとえば古代ギリシャとかふつーに同性愛あるしね。
キリスト教が同性愛をことさら禁じているのは、思うに、旧約聖書に相当する教えに民族宗教の色合いが強いためだろう。
一族の者にはどんどん子どもを作ってもらって勢力を拡大しなければ、いつ滅ぼされるとも限らない。
そんな時代に、子どもができない同性愛は危険極まりない。

・・・という流れで考えれば、この都知事の発言も、少子化が危惧される時代性が言わしめたものなのだろうか?と思ってみたりして。

いずれにしても。
同性愛者がテレビに出ることのモラル性で言えば、「同性愛者」であること自体を問題視すべきではないように思う。
ぼくの印象として、同性愛者がテレビに出るときというのは、どうもピエロ的な役回りを割り振られて出ているように感じる。
オモシロオカシクというか。
たとえば、男性が女性に同じことを言ったりやったりするとセクハラとして問題視されそうなことを、オカマの人が男性にやると笑いとして許容される、みたいな感じがぼくは嫌いで。
「同性愛者=そうしたキャラクター性」という図式が出来上がってしまうと、「そうした言動」が問題であるということが、「同性愛者」が問題であるということに、イコールで繋がってしまいかねない。

青少年健全育成条例についても、同性愛だろうが児童ポルノだろうが「普通のポルノ」だろうが、本来なら関係ないように思う。
ひとまとめに、「ポルノ」で語ればいいのではないか、と。
同性愛はダメで、異性愛はオッケーということでもないだろう。
ポルノはまとめてダメなんじゃないのか?

とまぁ、ポルノを規制することの是非は置いておいて、殊更「同性愛」がクローズアップされていることの違和感についての感想でした。
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by kude104 | 2010-12-06 22:12 | 時事・社会
どうも選挙というシステムは、現状あまり上手く機能していないんじゃないかと思えてしょうがない。
選挙が有効に機能するためには、適正な規模というものがあるような気がする。

有権者が候補者について、能力や人となりをある程度把握できる規模というのは、どうも「町の選挙」くらいが限界であるように思う。
政策の良し悪しやその軽重についても、きちんと判断できるのは、どうしても「身近な問題」に限られるだろう。
天下国家百年の計でもって国政を考え投票するというのは、無理がある。

きちんとした判断材料を持ち得ない中で行われる投票は、決め手がフィーリングにならざるを得ないので、要するにまぁ人気投票みたいなものになってしまうだろう。
あるいは、「親の地盤を引き継いで」「うちは代々〇〇党支持」みたいに固定化する。
これで有能な政治家が選出されることを期待するのは、無理な話だ。

政治家に必要な能力というものがあるとして。
おそらく、それと選挙に勝つ能力とは全く別のものだろう。
選挙が有能な政治家を選出するための仕組みであるならば、当落は政治能力の有無によって決まるべきだが、当落を決める有権者が候補者の政治能力をきちんと判断できないので機能しない。

よって、選挙を行うにあたっては、候補者の政治能力についての情報を可能な限り有権者に提示しなければならないものと考える。
「それは有権者が自ら判断してください」というには、こと国政選挙は「規模の限界」を超えているのだ。

今あちらこちらで日本の問題点がさまざま指摘されているが、それらを抜本的に改革するには、結局のところ良い政治を行う他なく、そのためには良い政治家を選出する他なく、そのためには選挙制度を改革する他ないのではないかと思う。
良い政治家さえ選出できれば、時間はかかっても、さまざまな問題は解消されていくだろう。
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by kude104 | 2010-04-16 22:32 | 時事・社会
痛いニュース(ノ∀`):「子ども手当を。母国に子供4人」→年間62万4千円(母国の年収15年分)支給 …小倉智昭「詳細詰めずにスタート?」

笑い事じゃないけど笑うしか無い、みたいな。
言っても、政治家(もしくは官僚)の皆さんはプロというかそれなりの頭脳の持ち主だろうから、いくらなんでもそんな欠陥だらけの間抜けな制度作らんだろうって思うんだけど、作っちゃうのねー。
システムを作る者は、自らそのシステムの隙について考え、不測の事態に備えねばならないって黒崎さんも言ってたのに。

もしくは、誰か「埋伏の毒」的なやつがいるんじゃねーの?
「日本の国力を削いでしまえ」と願う外国勢力が送り込んだ刺客に「子ども手当で支持率アップ間違いなしですぜ」とかそそのかされて、みたいな。
じゃなきゃ、「外国の子どもでもオッケー」なんてしないだろー。
子ども手当の目的って、きっと少子化対策でしょ?
じゃ、外国の子どもにあげても日本の人口増えないじゃんね。

「外国の恵まれない子供に愛の手を」とかやっているひとはさー、ホントに養子縁組して子ども手当を活動資金に使えばいいのに。
詐欺的な話じゃなく、それで本当に真面目に人道支援したらどうなるんだろうね。
「腹立つんだけど、やっていることは素晴らしい」みたいな、気持ちのもやもや感が面白い。
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by kude104 | 2010-04-03 22:27 | 時事・社会
今更感があるけれど、なんとなく「東京都青少年健全育成条例改正問題」が気になったのでつらつらと。
といっても、あまり良くわかっていないんだ。

改正の目的はなんだろう。
なんとなく、大筋は児童ポルノへの対策強化であるように思える。
その象徴的なものとして、「非実在青少年」という話が出てきているのだろう。
マンガやアニメなどの架空のキャラクターでも児童ポルノと見なすぞ、と。
「子どもに見えるけど設定上は18歳以上なんです」という言い訳は通用せんぞと。

ぼくとしては、架空のキャラクターを児童ポルノに含めるのは、やはり違和感を覚える。
児童ポルノ自体は根絶して良いと思うのだけど、それは実在の生身の子どもがポルノの対象となるのを防ぐためだ。
ロリコンという性癖を罪悪とせんがためではない。

ロリコン自体は、まぁ個人的にはキモいと思うのだけど、それこそバーチャルな世界で楽しんでいるぶんには構わんだろう。
ロリコンもマザコンも、バーチャルな世界ではどちらも同じく趣味嗜好という扱いで良いと思う。
「キモいから犯罪」というのは、気持ちはわかるけど、やっぱり通らんだろう。

考えようによっては、ロリコンは実在の世界では絶対にその欲望を満たすことが許されないのだから、むしろバーチャルな世界に活路を求めてもらったほうが良いではないか。
よくアニメ好きな方々が、「女は二次元が最高」などと仰るけれど、そんなふうに、「二次元のロリこそが最高!三次のロリなど要らん!」というくらいまで洗脳できればそれに越したことはない。

一方、表現者側も、表現は確かに自由なんだけど、でも、発表の場はやっぱりそれなりに配慮せなアカンよね。
「子どもに見えるけど設定上は18歳以上なんです」みたいなエロ作品が、PTAのおばちゃんたちの目にとまるような状況は、やっぱりダメだろ。
世の中には棲み分けってもんが必要だ。

表現者(というより主には出版者か)が18禁だなんだとゾーニングをきっちりやっていれば、まぁ、こんな話もそうそう出てはこないわけで。
テメエらには任せておけないから、条例でゾーニングやるよってことでしょ?

表現の自由を守るために表現者は戦わなければならないのだけど、戦う相手というのは何も「規制」だけではないという話だ。
野放図に表現の自由を行使したくなる己の欲とも戦わなければならないという話でもあろうと思う。
自由自由というけれど、自由って何かね?と。

本来であれば、アニメだろうと漫画だろうと表現の自由だろうとなんだろうと、エロい作品はきちんとゾーニングして販売すべし、という話であると思うのだ。
「ロリコンキモイ」という感情が紛れ込んでややこしくなっているけれども。

表現者側が自分たちできちんとゾーニングするんで、「非実在青少年」とかバカなこと言わんでくださいと、それで決着できればそれがベストなんだろうけど。
「テメエらには任せておけないから、条例でゾーニングやるよ」って流れだと思うので、きちんとやるったってなかなか信じてはもらえないだろうね。
そのへんは身から出た錆。
なので、条例でゾーニングしますということでの決着は、おそらく避けられないだろう。

問題は、じゃあ条例ならきちんとゾーニングできるのか?ってところだろう。
言うまでもなく、無理だ。
それがエロかそうでないかの判断基準を明確に規定することは不可能だから、本質的に、自主規制はゆるゆるになりがちだし、他者による規制は過度になりがちだ。

ならば。
条例によるゾーニングが避けられないとしたら、その対抗というか救済として、当局によって不当に不健全図書に指定されたと思う場合には、表現者側がきちんと異議申し立てできる制度を合わせて整えるよう主張することが有効なんじゃなかろうか。
当局の規制が不適切に行われた場合は、それによって被ったであろう損害を賠償すべきだ。
そういう制度を整えておけば、ある程度規制する側とされる側がフェアな立場に立てるし、過度な規制への抑止にもなるだろう。

ただただ規制反対!では「ロリコンキモイ」という世の大半のお母さんがたの支持を集めるのは難しそうなので、規制はかまいませんけど、公権力が好き勝手自由気ままに規制できるとしたら表現の自由とか脅かされて怖いんで、その防止策として同時に異議申立制度を整えさせてくださいねと訴えれば、どうにか対抗できないかなぁ。
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by kude104 | 2010-03-24 22:29 | 時事・社会
ニュー速で暇潰しブログ 朝日 「朝鮮学校が北朝鮮と繋がってることは事実だ。が、除外はやはりおかしい。差別する理由はない」

高校無償化法案の目的が、「高等学校等における教育に係る経済的負担の軽減を図り、もって教育の機会均等に寄与する」ことにあるのなら、「北朝鮮とつながりがあるから」といって除外するのはおかしかろうと思う。

とはいえ、予算の都合上、地球上のすべての子どもの教育の機会均等に寄与することはできない。
なので、どうしても、どこかに「適用する」「除外する」の線引きをしなければならない。
問題は、その線引きをどのように行うかだ。
線引きをすることが差別なのではなく、差別的な線引きをしてはいけないと言うことだ。
それで言えば、「朝鮮学校だから」という線引きは、ぼくの印象としては少々差別的に思える。

高校無償化法案の目的には、「誰の」という部分が明示的に書かれていないが、これはおそらく、暗黙的に、「日本国民の」と考えて良いだろう。
であれば、公立だ私立だ朝鮮学校だということではなく、「日本国籍を有する子どもの学費を無償化する」という方向でまとめればよいのではないかと思う。
これだと、議論の焦点が「北朝鮮人差別」ではなく「外国人差別」になる懸念はあるけど、大きな枠として、日本政府(そして日本国民)が費用負担して支援しましょうという対象が日本国民に限られることは、別段おかしなことではない。
日本国憲法の対象が日本国民であるのだから、日本国憲法に基づく「教育の機会均等」が日本国民に対して成されるのは理にかなっているように思う。

心情として朝鮮学校を除外したい気持ちはわかるが、それを行うのに、まんま「朝鮮学校だから」というのでは、あまりに幼稚すぎるだろう。
たとえば、対象を「学校教育法で定める1条校」とするだけで朝鮮学校は外れるんだから。
「それだと中華学校も外れるから」みたいなことは、知らん。
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by kude104 | 2010-03-08 18:36 | 時事・社会
山陰中央新報 - ゲーム漬けの子どもたち 読書や会話のある生活を

言いようには、たぶん作為的な(あるいは思い込み的な)嘘・大げさ・紛らわしいが含まれているけれども、問題提起としてはわりと真っ当なのかな、と思う。
思うけれど、「ノーテレビ・ノーゲーム」でどうにか出来るとも思えんのだなぁ。

問題の核は、「子供の学習経験をいかに豊かにするか?」というところにあるだろう。
学習経験の元が「ゲームばかり」「メールばかり」になっていては、そりゃ健全な発育は期待できない。
ただ、ここで重要なのは、おそらく「ゲームばかり」「メールばかり」もまた、原因ではなく結果なのだということだろう。

子どもがメディア漬けになるのは、メディアが“ある”からではなく、メディアの他に娯楽なりコミュニケーションが“ない”からメディア漬けになるのだと思う。
だから、ただ「ノーテレビ・ノーゲーム」を実行したところで、大元の原因である“ない“ものがないままなら、意味はない。
まずは、親が子供の相手をするのをさぼって、メディアに任せっきりにしていやしませんか、と。
そこを問うところから始めなきゃならんだろう。
で、「確かに任せっきりにしていたわ」と親が自覚して初めて、「じゃあ、メディアへの依存を減らしてみましょう」というのが意味を持つのだと思う。

それと、テレビやゲームの娯楽性の強さを甘くみてはいけない。
これらは、その道のプロたちが「どうすればもっと夢中にさせられるか」を日々研究して研究して世に送り出している代物だから。
そんなに簡単に「ゲームやケータイより、家族や友だちと外でいっぱい遊んだ方が楽しい!」なんて子どもが言うと思ったら大間違いだ。
娯楽なめんなよ、と。

なので、テレビやゲームに対抗するのではなく、テレビやゲームをコミュニケーションのネタとしてうまく活用することを考えた方がいいだろうと思う。
子どもがゲームが好きなら、一緒にゲームをやってみるのはもとより、一緒にゲームのキャラクターの絵を描いてみたり、「次、どんなゲームを買うか」を一緒に考えたり、ゲームのごっこ遊びをしてみたり、一緒にオリジナルゲームを考えてみたり。
ゲームで遊ぶ時間を制限する一方で、こうした遊びを行うことで、ゲーム好きの子どもの世界を上手に広げてやれるんじゃないだろうか。
相手の好きなことに興味と関心を持つのはコミュニケーションの基本だと思うので、子どもの好きなことに親が興味と関心を持つのは必要なことだと思う。

ま、そうは言っても面倒くさいからね。
お手軽に「ノーテレビ・ノーゲーム」で良しとしちゃうのも、分からないではない。
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by kude104 | 2009-12-08 17:56 | 時事・社会
「普通の結婚」が、手に入りにくくなった理由 - 日経ビジネス Associe(アソシエ)

動物番組なんかを観ていたら、自然界においてはパートナーを得て子孫を残すということが、どれだけ過酷な競争であるかが良く分かる。
もちろん人間は動物とは違うけれど、あれを観ていると、そんな誰しも当たり前のように「普通の結婚」ができるほうがおかしいという気がしてくる。

それをやろうと思ったら、自然なカップリングではなく、強引に組み合わせないと無理だろう。
実際、かつての結婚は、そうした感じだったんじゃない?
で、それを「普通の結婚」と呼ぶかというと、違うだろう。
なら、「普通の結婚」って何かね?と。

たとえば、かつては「普通の結婚」があり、「普通の幸せ」がありました、と。
それが今は手に入り難い世の中になっています、と。
それを事実とするとして。

でも、思うに、「普通の幸せ」を手に入れるために、かつての人たちは、おそらく「普通の不幸」や「普通の苦労」や「普通の我慢」なんかを、同時に引き受けていたのだろう。
「普通の結婚」が「強引な組み合わせ」によって行われていたように。

結婚に限らずとも、たとえば上記の対談で「いまは日常生活の中にセーフティーネットがない」といったことが語られているけれど、近所付き合いはしない、親戚付き合いも希薄、親との同居は嫌、職場の上司同僚とは会社だけでの付き合いですと。
それで、困った時にだれも助けてくれないって、当たり前だよね。

かつての「普通の幸せ」だって、なにも当たり前に享受できたわけではなく、「普通の不幸」や「普通の苦労」とワンセットになっていたはずなのだ。
それを「普通の幸せ」だけ取り出して享受したいと願う、そのこと自体は間違っていない。
社会を良くしていくということは、不幸や苦労をなくしていくということだからね。
ただ、それはもう「普通」の幸せではないよ、ということだ。

きっと、「普通」なんてどこにもなくて、自分なりの幸せを探していくしかないのだろうと思う。
そして、幸せは「平凡な日常」の中に時々あるから「幸せ」なのであって、「幸せな日常」を追い求めると不幸ばかりが増えて行くのだろうな。
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by kude104 | 2009-11-28 18:36 | 時事・社会
「頭のない騎馬男」と「事業開発の職人」と「優秀な人をたくさん働かせること」 - Tech Mom from Silicon Valley
会社の機能の中で「頭脳」というか、「前頭葉」にあたる、将来の企業戦略を考えたり、具体的に新事業をはじめたりする、例えば「経営企画」とか「事業開発」といった機能が抜け落ちている、または弱くなっている、ということが気になっているのだ。
企業が成長して組織が大きくなると動きが鈍るのは、日本の企業に限らず、というか企業に限らずあらゆる組織で起こり得るのだと思う。
日々のルーチンワークは個々がルーチンに従って行動すればよいので、組織が大きくなっても影響はさほどない。
でも、「経営企画」とか「事業開発」といった事柄は、事業の規模に応じて考慮すべき要因が増え、組織の規模に応じて関係者が増えるため、組織が大きくなればなるほどコストがかさみ難しくなる。

こうしたことは、人間の在りようとも似ているように思える。
身体が大きくなればなるほど敏捷性は失われがちだし、歳をとればとるほど成功体験により保守的になっていく。
基本的に、企業や組織も人間と同じように、成長~老化~死亡のサイクルをたどるのだろう。

ここで挙げられている「大手日本企業」とやらも、おそらく、成長のピークを過ぎ、老化のフェーズに入っているのではないかと思う。
そうした老いた企業に若返りを期待するよりも、若い企業への世代交代を期待するほうが、生命サイクルとしては健全なのではないかという気がする。

皮肉的に言えば、そうした老いた企業において飼い殺されている優秀な人材というのは、多くの場合、自身が「頭のない騎馬男」なのだろうと思う。
「うちの企業は将来を見据えていない」と愚痴りながら、将来の見えない企業に居続ける様は、まさに鏡を見て嗤うかのようだと思わないでもない。
もちろん、敢えてそこに留まり運命を共にしようというケースもあるのだろうけど。

「日本の企業から画期的なモノが出てこなくなった」のではなく、「日本人から画期的な企業が出てこなくなった」という見方をするならば(もちろん、実際に出てこなくなったわけではないが)、その理由のひとつは、「優秀な人材」が老いた企業に引き寄せられるからではないだろうか。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」と思ってはいても、ついつい人は牛の大きさに安心を見てしまうもの。
であるならば、そうした企業はやはり「定年退職」して頂いて、次代に活躍の場を譲って頂くのが良いのではないかと思う。
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by kude104 | 2009-10-13 23:58 | 時事・社会
絶望生産国日本。(『子どもの貧困―日本の不公平を考える』) - どんなジレンマ

資本主義社会というのは、実は身分制社会であると思うことは多々ある。
貴族の身分制度と違って「貧富」は血筋や家柄に固定的ではないけれど、富を増やすには元手となる富が必要で、富は相続できるという仕組みにより、実質的には身分制として機能しているように思う。
貴族的な身分制度よりも公平感がある分、実に巧いこと考えられた制度だなと感心する。

富裕層の子どもが親の富を受け継ぐのはいいとしても、貧困層の子どもが親の貧困に縛られ、そこから抜け出せないのはよろしくない。
それはアンフェアだし、社会にとっても望ましくはないだろう。
一度貧困に陥ったら、子孫代々抜け出せないような社会が発展するはずがないものね。

では、どうすれば貧困の連鎖を断てるのか。
政治に頑張ってもらうのはそれとして、民間でできることはないだろうかと考えてみる。
とりあえず核となるのは、いかにして貧困層の子供により良い教育の機会を与えるかということだろう。

そのための場として、「託児所」に注目してみる。
貧困層の親ともなれば、共働きかシングルマザー/ファザーであるケースが多いだろうから、単純に託児所を用意することが彼らの支援になる。
安心して子供を預けられる場があれば、そのぶん働けるので、少しでも貧困脱出の助けになるだろう。

で、その託児所で、子どもに勉強を教える、と。
イメージとしては託児所と塾を合わせたような感じだけど、受験勉強だけじゃなくて、もうすこし広く子どもの将来の就労支援的な教育を目指したい。

こうして、親の就労環境を支援することで貧困からの脱出を助けつつ、子どもに教育の機会を与えることで貧困の連鎖を断つという二段構えの作戦だ。

問題は、託児所の運営資金をどう集めるかだ。
まずは順当に親から徴収するわけだけど、貧困者支援である以上、彼らが支払える金額でなければ意味がない。
そこで、料金は収入に応じて徴収することにしよう。

金額的には、多少負担かなと思うくらいに設定するとして、その代わりに食費込みとする。
働くお父さんお母さんの何が大変かって、やはり食事の用意だろう。
食事の準備や後片付けから解放されれば、働く時間の自由度が上がるし、浮いた時間に資格の勉強でもしようかしらといったことも可能になる。
また、大人数分を一括して作ったほうが安上がりになるから、食費の節約にもなるしね。
もちろん、子どもにとっても、きちんとした食生活は健やかな成長に必要不可欠だ。

とはいえ、親からの徴収だけでは、とても足りない。
なので、子どもにも「出世払い」してもらおう。

つまり、子どもが成長して収入を得るようになったら、その収入に応じた額を託児所に支払ってもらおうというアイデア。
きちんとした契約の形にできれば強いのだけど、子ども相手に契約を結ばせるのは無理だろうから、「善意の寄付」的な形を取らざるを得ないだろうけど。
自分が立派に稼げるようになったら、次の世代の同じ境遇の子どもたちを支援する。
そうしたリレーが上手くつながれば、金銭面で大きな支えになるのではないか。

それでも、ただ寄付をしてくれというだけでは心許ないので、なにかしらメリットを用意しよう。
とりあえず賛助会員的な立場として、会費を支払ってもらう形をとる。
そして、もし会員が失業などにより生活が困窮した際には、託児所による再就職支援などのサポートが受けられるというのはどうだろう。
つまり、賛助会員になってお金を出すことは、託児所を支援する意味合いだけでなく、本人にとってもある種の保険として機能するわけだ。

当然、託児所は子どもと賛助会員のための(再)就職支援センターのようにも機能することになる。
就職先のコネクションとして、まずは託児所の卒業生や賛助会員を当てにする。
仲間内のネットワークで助け合うイメージだ。
これを活用するために、託児所での教育では経営者を育てることに重点を置くとよいだろう。
一人の経営者を育てれば、10人単位の仲間の働き口が確保できるわけだから。

加えて当然、一般企業への就職もあっせんする。
このために、託児所の教育課程にビジネススクール的なものも含めておく。
これにより、企業が欲しがる人材を企業にあっせんできると謳うわけだ。
なにせ幼いころから面倒を見ているわけだから、その子どもの能力や人となりのデータを託児所は豊富に持っていることになる。
それをもとに適材適所に人材をあっせんするとなれば、下手に一般採用で人材を探すよりも、企業側としても少ない労力で良い人材の獲得が期待できるだろう。
託児所は、そのようにして人材あっせん料を企業から受け取り、運営資金に充てる。

法的に可能なら、運営はNPO法人として、賛助会員や企業からの支払いを寄付の形で処理する。
そうすれば、そのお金は税金の控除対象になるから、さらに積極的にお金を払ってもらえるだろう。
そんなふうにしてなんとか運営資金をねん出しつつ運営できないものか・・・と。

いずれにしても、孤立しているよりも集団でいるほうが生存確率が上がるのは自然の理なので、互助組織のようなものは有用だろうと思うのだが、いざ作るとなると難しいだろうなぁ。
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by kude104 | 2009-10-11 17:39 | 時事・社会