世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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ビジネスと文化

最近の若者は日本の文化を殺そうとしているのではないか

ビジネスと文化の話は、分けて考えたほうが良いのではないかと思う。
文化にお金を払うということと、商品に対価を払うこととは違う。
個人的には、商品に文化的価値を訴えてお金を払ってもらうようになったら、ビジネスとしてお仕舞いだと思う。
そうなってしまった「文化」は、伝統芸能みたく、国からお金を貰ったり有志の保存会で保存に努めたりして存続させるしかないだろうな。

「音楽はタダでいい」というのは、ビジネスの枠組みで考えるなら、要するに「胡椒一粒に黄金一粒の価値はなくなった」ということだろうと思う。
昔は胡椒はなかなか手に入らない貴重品だったので高い値がついたけど、技術の発達により容易に手に入るようになって稀少性が失われてしまった、と。
あるいは、「塩の専売」のたとえのほうがいいかな。

要するに、技術的進歩により、音楽をCD等にパッケージングして販売するという商売が時代遅れになってしまったということだ。
音楽の、たとえばアルバム1枚3000円という値段設定は、インターネット以前のCDによる供給ということでの価格設定である。
決して、それが音楽そのものの価値というわけではない。
大航海時代に船で胡椒を運んでいた価格設定のまま、今の時代に据え置きでいられるはずがないのと同じことだ。

「違法コピー許すまじ」というのは、それはそれで正しいと思う。
いくら胡椒の価値が下がっているとはいえ、海賊行為で積み荷を奪ってよいわけではないからね。
が、その一方で、もはや「胡椒一粒、黄金一粒」の時代ではなくなったことも認めねばなるまい。

だから、もしまだ音楽をビジネスとして残したいならば、考えるべきはCDに代わる音楽の新たな商品化のアイデアだろう。
しかしながら、おそらくは、ビジネスとしての音楽は縮小せざるを得ないだろうなぁ。
でも、それで音楽文化が死ぬとは思わないけどね。
今までの音楽ビジネスが過剰だったのだと思う。

少なくとも、いつの時代も、消費者は文化的価値を鑑みてお金を払ってくれるわけではないと思う。
そんなものはあてにしちゃいけない。
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by kude104 | 2009-03-09 23:59

刹那的人生

昨日の話題とちょっとつながっているような感じなので、ついでに。

生きている意味が圧倒的にわからない

「いずれ死んで無に帰す」ということは、ぼくにとっては虚無感よりも、もっと絶望的な恐怖として脳みその片隅に絶えずあります。
いい歳をして未だに、ふと油断すると死んじゃうこととか考えて、うわぁぁぁぁぁと叫びたくなることがあったりするくらい。
いまこうして「無に帰すって怖いよね」と考えているぼくというモノが、何十年後かにはマジで跡形もなく消滅しているってのは、超怖い。
あ、やべ、いまちょっと本気で怖くなりかけた。

ただ、ぼくの場合、だからこそ「生きてるって素晴らしい」と思うのです。

どうせ、やがてすべてが無に帰すのだから、何をやろうがやるまいが無意味だという。
そうかな?
たしかに、結果はそうかもしれない。
でも、ぼくにとって重要なのは、結果じゃなくて過程です。

マンガにしろ映画にしろ、物語はどうせエンディングを迎えて終わる。
だからつまらないのだとこの人は言うだろうか?
でも。
2時間で終わる映画なら、その2時間が面白ければそれでいいとぼくは思う。
それだけが、映画にとって重要なことじゃないだろうか。

メシを食ってもどうせ排泄物として出るだけだけど、食ってるそのときが美味しければいいじゃないか。
どうせぼくは死んじゃうけど、生きているその間が楽しければいいじゃないか。
(本音のところは、「せめて生きているうちに楽しまにゃ損だよな、どうせ死んじゃうんなら」だけど)
死ぬ間際に、「まぁ、良い人生だったかな」と思えればよし、と。

ぼくが死んだ時点で、ぼくの世界はすべて終わる。
人類とか宇宙とかDNAとか関係なく、ぼくの世界はたかだか数十年で消滅する。
(ああ、怖い)
ぼくにとっては、圧倒的な無意味の中の刹那的な意味ある数十年だから、それだけで十分価値がある。

自分の人生という名の物語を読み終わったときに、「あー、面白かった」って言いたい。
それだけ。
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by kude104 | 2009-03-04 23:59
先日の「大学院に進む人の10割は生きてていい」に頂いたyyさんからのコメントに対する返信というか、yyさんのコメントをもとに、元ネタについてもう少し考えてみたことを。
元ネタはこちら → 大学院に進む人の9割は死んでいい

まず。
そのことだけに打ち込んで、すべてを捧げて、それで挫折した場合、死にたくなるというのはまぁ分からないではない。
だって、それがすべてだったんだもの。

でも。
そのことの他に、普通に遊んだりテレビ観たりゲームしたりデートしたりして楽しく過ごしていたのなら、死にたいというのは分からない。
だって、別にそれがなくても楽しく生きていけるってことじゃない。

「科学への関心とか情熱とかは一切関係ない」って言っているけど、はたしてそうだろうか?
彼は全身全霊をかけて研究に打ち込んで、でも才能の無さゆえに挫折したのだろうか?
だとしたら、死にたいというのも分からないではないけど。

もし人並み程度の努力で挫折して、それで死にたいっていうのなら、それは単に自分で自分を悲劇の主人公にしたいだけじゃないかと思ってしまう。
だって、そんな人並み程度の情熱しか抱かなかった対象のために命を捨てるなんて。

それでもまぁ、「自分」が死に「たい」というのは良いとしよう。
でも、「自分たち」は死ぬ「べき」という物言いは嫌いだ。
自分の正義を押しつけて他人を巻き添えに死にましょうって、いつの時代だなんの宗教だと思ってしまう。

「こうすれば、日本の科学は飛躍的に発展する」とか「大学院生はきちんと社会にお詫びしながら死んでいくことができる」とか、こうした物言いの裏側に、ある種の傲慢さが伺えるように思う。
屈折したエリート意識のようなものを。
挫折したとはいえ、自分は社会をリードする優秀な人材たろうとした。
そのへんの平凡なやつらとは違う。
武士が誇りのために死ぬように、エリートは無能であることを恥じて死ぬべきだ──みたいなね。
それが凡人たちとの違いなのだと。

博士課程が「進むも地獄、退くも地獄」という話は、まぁなんとなく目にし耳にする。
でも、たとえば、挫折したミュージシャン。
たとえば、挫折したスポーツ選手。
たとえば、首を切られた派遣社員。
たとえば、リストラされたサラリーマン。
などなど。
たぶん、世間には似たような地獄がたくさんある。
そのすべてに「死ねばいいのに」で答えて行くのだろうか。

まぁ世の中、ファンだったミュージシャンが自殺しただけで命を絶っちゃう人もいる。
はたから見ていると「そんなことで」と思うことでも、当人にとってそれが世界のすべてであったりする。
逆に言えば、自分にとって「世界のすべて」であることも、他人にとっては「そんなことで」に過ぎない。
だからたぶん、この人が無能を悔やんで自殺したところで、他人にとっては「そんなことで」になるだろう。

同じことは、自分自身についても言えるかもしれない。
今の自分にとって「世界のすべて」であることも、未来の自分にとっては「そんなことで」になるかもしれない。
過去の自分の「世界のすべて」が、今の自分にとって「そんなことで」であるように。
「あなたがいないと生きていけない」と言っていた娘が、別の男を好きになるように。

そう思うから、ぼくには、本当にそれがために命を捨てるほどの物事がこの世にあるということが、なかなかピンとこない。
その人にとっては「世界のすべて」なのだろうなぁとは思うけれど、でも、ぼく自身の価値観としては「そんなことで」と思ってしまう。
だから、せいぜい「自分が死にたい」までだな。
他人に対して「死ぬべき」という発想は分からない。

まぁ、元ネタは「はてな」だし、「死んでいい」もいわゆるネットスラング的な「死ねばいいのに」程度の意味合いなのかもしれないけど。
どうもネットじゃ、みんな死ぬ死ぬ言いすぎちゃうのって思う。
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by kude104 | 2009-03-03 17:41
大学院に進む人の9割は死んでいい

日本の科学を飛躍的に発展させたいんなら、カネとヒトを集めてくりゃ済むだけの話で。
というか、それが一番重要な事柄で。
べつに大学院生の9割が自殺したって、なんの意味もないだろうさ。
「死ぬ気で研究しろ」という精神論は、たしかに日本人お得意のものだけど、戦前じゃあるまいし。

優秀な1割の人間だけをピンポイントで集めることはできなくて、10人集めて研究させてみて、優秀な1人が見つかるかどうかだろう。
10人しか集められなければ優秀な人材は1人しか見つからなくて、100人集められれば10人見つかる。
つまりは、いかに母数を大きくするかが重要なわけで。

となれば。
9割が自殺してしまうようなところに人が集まるはずがない。
そんなやり方はダメに決まっている。
自分が命懸けで事に臨むのは良いけど、他人に命懸けを強要するのはダメでしょ。
そんなやり方で上手くいった例を、歴史上ぼくは見たことがない。

それと。
「結果」の出せなかった研究であっても、「この方法では望む結果が出ない」という結果を残すことはできる。
たしかに自分には望む結果を出すことはできないけれど、後に続く研究者のために、ひとつ間違いルートをつぶしてあげることはできる。
そうした積み重ねで科学は進歩していくんじゃなかろうか。

企業なら結果結果にならざるを得ないだろうけど、せめて大学くらいは、ひとつひとつ間違いルートをつぶすような研究をやってほしいと思う。
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by kude104 | 2009-02-25 23:54

恋愛は面倒くさい

「恋愛は面倒くさい」、低体温なアラサー女子たち:日経ビジネスオンライン

2ページ目以降は読んでいないけど──というか、ほぼタイトルだけを読んで。
コンピュータゲームのことが思い浮かんだ。

昔はあんなに面白かったのに、最近じゃまるでゲームに興味がなくなった。
いや、興味がないわけじゃないんだけど、いざ遊ぶとなるとどうにも面倒くさい。
一度遊び始めたら面白くて熱中するんだろうなとは思うんだけど、電源を入れるまでが面倒くさい。
時々「お、このゲーム面白そうだな」とトキメクことはあるけど、でもすぐに、どうせ毎度のパターンでレベル上げしてアイテム集めて世界を救うんだろうなと思うと、面倒くさい。
昔はゲームが一番楽しい娯楽だったけど、いまはゲーム以外にもやりたいことややるべきことがたくさんあって、昔のようにゲームにばかりエネルギーを注いでいられない。
もし、本当に心ときめくゲームに出会えば、いままで面倒くさいと言っていたのがウソみたいにゲームにのめりこんだりするんだろうけど、でも、そんなゲームに出会うために、いちいちファミ通買ったりゲームショップに通ったりなんかしていられない。

──みたいな?

「恋愛」をゲームに見立てるならば、「恋愛」もゲームと同じように近年どんどんフクザツになってきているのではないかな・・・と思う。
テレビや雑誌なんかで理想な恋愛スタイルを年々年々積み上げてきたものだから、いまさら喫茶店でお茶して手をつないだだけでぽっと赤らむような恋愛などしていられない。
デートはおしゃれなどこそこで、ファッションはおしゃれな何それで、記念日にはあれしてこれして、うんぬんかんぬん。
好きな人とあれをしたいこれをしたいじゃなくて、あれをしてこれをするのが恋愛のお約束みたいになっちゃっうと面倒くさいよね。

ま、個人的には、恋愛を無理やりする必要性を感じないので、べつに低体温で良いと思う。
高体温って、それつまり発情?って感じだし。
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by kude104 | 2009-02-19 22:47
asahi.com(朝日新聞社):小学校に「学級委員長」不在の鳥取県、20年ぶり復活へ - 教育

ん?
一読して「平等の意味をはき違えているんじゃなかろうか」と思ったのだけど、よく読んでみると、ここで言っている「学級委員長」は、ぼくの思っている「学級委員長」とは違う存在なのだろうか。

昭和40年代ごろまでは勉強ができる子などを先生が指名して決める形が全国的に多かった。それが、「民主的な教育」が唱えられた昭和50年代以降、クラスのみんなに役割を経験させようという考え方が広まったという。

立候補を募ったり、輪番制で回したりといったやり方が進む中で「学級内のヒエラルキーが薄まり、新聞係、生き物係といったその他の担当と『同格』になる学校が増えた」
という記述を逆算すると、ここで言う「学級委員長」とは、立候補を募ったり、輪番制で回したりといったやりをせず、勉強ができる子などを先生が指名して決める、他の担当とは別格の役職ということになるね。
・・・うん、そりゃ問題あるかもしれんね。

『運動会の徒競走で、児童の能力にあわせてコース内に「近道」を作ってゴール付近で接戦になるように調整する』というのも、一読すると、なにやらエセ平等主義のように読めるけど、もしかしたらパラリンピックで障害の程度に合わせてハンデを付けるがごとく、個々の生徒の能力に合わせたハンデを設定しているということなのかもしれない。

たしかに、重要なのは足の速さを競うことではなく、子どもたちが自分の持てる力の精一杯で頑張ることにあるのだから、運動能力の優れた子供は優れた子供なりに、運動能力の優れない子供は優れない子供なりに、全力を競い合うルール設定は教育的に悪くないように思う。

実際のところがどうなのか分からないですけど。
一読して「平等の意味をはき違えているんじゃなかろうか」と思ったけれど、よくよく考えてみれば、実際のところはどうなのか分からないよなぁと思った、というお話です。
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by kude104 | 2009-02-10 17:59

それぞれにとっての神様

asahi.com(朝日新聞社):神は多分いない…英国で走る「無神論バス」 - 国際

一口に「神」と言っても、ひとそれぞれに思い浮かべる「神」は違うのだろうと思う。

たとえば同じキリスト教でもさまざまな宗派があって、宗派ごとに信仰に大なり小なりの違いがある。
ある宗派では神様はこうだと信じていても、別の宗派では違うと信じているかもしれない。
それは厳密にいえば、同じ神様を信仰しているように見えて、実は完全に一致した神様を信仰しているわけではない。
つまり、異なる「神」を信仰しているのだと言えなくもない。
反対に、ある宗教と別の宗教とは、一見異なる神様を信仰しているように見えて、実は同じ「神」を信仰しているということもあるだろう。

あるひとは「神などいない」と言いつつも、「運」を信じているかもしれない。
別の人は「運」のことを「神」として信仰しているかもしれない。
あるひとは、それを「偶然」と呼ぶかもしれない。
あるひとは、それを「宇宙人の仕業」と呼ぶかもしれない。

聖書に書かれた神は、かつて実際にいたかもしれないが、今はもういなくなっちゃったかもしれない。
いや、じつは今もいるけれど、人類を救うつもりは失せたのかもしれない。
いやいや、じつは聖書に書かれた神はいるのだけど、聖書自体が神の嘘で、実際は全知全能などではないのかもしれない。
本当は、神がサタンで、サタンが神なのかもしれない。

ぼくにとっては、神様がいようがいまいが、あまり関係ない。
たとえ神様がいるとしても、明示的にぼくの人生に介入してきていない(介入してきたとしても、それが神の仕業であると分からない)以上、いないのと同じです。
とはいえ、いないと証明できるわけではないので、いるかもしれない。

神様がいるからよい行いをしようとも思わないし、いないから悪い行いをしてもよいとも思わない。
神様に祈らないと救われないというなら、別に救われなくてもいいし。
死後の復活は魅力的だけど、復活の条件として信仰を強要されるんだったら、べつに復活できなくてもいいやと思うし。
もし神様が愛に満ちた存在なら、信じていなくても救うだろう。
救う救わないの基準が「自分を信仰すること」なんて神様は、そもそも信仰する気にならないし。

その一方で、神様を信仰することでよりよく生きられるのであれば、信仰すればいいと思う。
ぼくには今のところ神様は必要ないけど、心の支えや生活の糧として必要な人もいるだろう。
そういうひとから神様を奪うこともなかろうと思う。
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by kude104 | 2009-01-25 18:44

非コミュ > 非モテ

最後に残された差別 - Hopeless Homeless

「非モテ問題」の多くが、恋愛に限らずコミュニケーション全般に対する劣等感問題であるという捉え方は、なるほどと思います。
では、「コミュニケーション全般に対する劣等感問題」がなぜ「非コミュ問題」ではなく「非モテ問題」という、いわば「恋愛」にスケールを落として語られるのかという点についてですが。

「非モテ」という言葉が実際にどのような使われ方をしているのかをぼくはよく知りませんが、イメージとしては、自称で使われることが多いように感じます。
コミュニケーションに劣等感を抱えている人が、自らを評して「どうせ自分は非モテだから」といった具合に。

で、自らを評すときに「非コミュ」ではなく「非モテ」を選択したということを、多少うがった見方をするならば、自らの劣等感問題を「恋愛問題」として語ることで、ある種の自己防衛をしているのではないでしょうか。

「友だちがいない」というのと「恋人がいない」というのと、どちらが精神的にキツいかと考えてみれば、ぼくなら前者のほうがキツいです。
恋人がいないことは、ぜんぜん平気にネタにもできる。

なんというか、恋人がいないことには、言い訳と言うか逃げ道が立つんですよね。
コミュニケーション能力が高くても恋人のいない人はたくさんいるし。
そもそも自分は恋愛に興味などないと嘯くこともできるし。
恋人のいない人はたくさんいて、その人たちと思いを共有することができる。
でも、友だちがいないってのは、現状、表面的には、恋人がいないことよりもマイノリティーです。

多くの場合、「非コミュ」は「非モテ」だけど、「非モテ」は「非コミュ」とは限らないという非対称性が成り立ちます。
この非対称性──つまり、「非モテ」を自称していても「非コミュ」とは限らないという逃げ道──が、「非コミュ」ではなく「非モテ」を自称する動機になりうるのですが、同時に、この非対称性によって、「非コミュ」な人々も「非コミュ」ではない人々もひとまとめに「非モテ」で語られるという事態をも招くこととなります。
それが混乱のもとになっている気がしますね。

ま、実際のところはどうか知りませんけど。

とりあえずぼくのイメージでは、「非モテ」にそれほど強い差別意識は感じません。
どちらかというと、「非コミュ」のほうがきつい気がしますね。
なので、自らを「非モテ」と称する人に「あなたは非モテじゃない、非コミュだ」と教えてあげることは、せっかく鎧った自己防衛を無理やり剥がしてしまうことのようにも思えます。

「非コミュ」をもう少しやわらかく自称する言葉が、「非モテ」以外になにかあるといいのにね。
たとえば、「リア充」に掛けて「リア貧」とか──と書こうとして、その響きになんだかすごく悲しくなった。
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by kude104 | 2008-12-14 16:52
日本の議員達に言う 間違った歴史認識(村山談話)で日本の国民や国家を代表して欲しくない|デヴィ夫人オフィシャルブログ「デヴィの独り言 独断と偏見」by Ameba

「俺は悪くない、世間が悪い。世間がよってたかって俺を貧困に追い込んだんだ。
 追い詰められたら、人間生きるために多少無茶なことはしちゃうでしょ。
 無茶って言っても、たかだか隣の家に乗り込んだだけじゃん。
 それだって、ちゃんと当人の同意を得たよ。
 そりゃ、なかなかウンと言わないから2,3発殴ったけど。
 みんなで協力して貧困に立ち向かおうという俺の崇高な理念を、理解しないあいつらが悪い。
 黙って俺の言うこと気いて資源と人員差し出せば、俺が豊かな暮らしを恵んでやろうってのに。
 反抗するから、しつけのつもりで多少殺したり犯したりもしたけれど、そんなことは俺の功績からすれば微々たるもんだろ。
 感謝されこそすれ、責められるのは納得いかん。
 だいたい、そんなことは他の奴らもやってたじゃん。
 なんで俺だけ責められなアカンわけ?」
みたいな。

歴史にはもちろんさまざまな見方や解釈があるのだけれど、基本的に、歴史は勝者が作るものです。
敗者は正義を語れない。
その覚悟がないんだったら、戦争なんかするなって話です。
戦争に負けるというのは、そういうことだろ。

たとえば、「日本」を「北朝鮮」に置き換えてみますか?
もし北朝鮮がこの先戦争をして負ければ、彼らはきっとこういうでしょう。

> 戦争前、北朝鮮は経済制裁を加えられていたのではなかったのですか?
> 資源も原料も無い北朝鮮は外に出て行くしかなかったのではないですか?
> 一か八か、北朝鮮の存続の為の問題ではなかったのですか?
> 自衛自存ではなかったのですか?

ほらね、そんなもんですよ。

たとえどのような事情があろうと、どのような正義があろうと、負け戦をしてしまった時点でダメだとぼくは考えます。
一か八かの戦争をせざるを得ない状況にまで追い込まれた時点で、ダメなんですよ。
それは「しょうがなかった」んじゃない。
もっと前の段階で、来るべき「しょうがない」状況を回避できなかったのが悪い。
だいたい、日本の戦前の政治なり軍事を見りゃ、恥ずかしくて「誇り、誇り」などと言えないって。

過去の敗北を「俺、悪くないもん!」と主張するのが誇れる行為だとは、ぼくは思わない。
むしろ、たとえどのような悪評を投げかけられようとも、ぐっと歯を食いしばって黙って耐えるほうが美しい。
もちろん、何でもかんでも「はいはい、おっしゃる通りです、私めがすべて悪うございます」などとへいこらするのも違うよ。
筋は通しつつも、悪評は甘んじて受ける。言い訳などしない。

そうして、今度こそ、本当に周りの国々を幸せにするように頑張る。
そうすれば、その姿を見た周りの国々から、日本を再評価する声が上がってくるわけですよ。
「先の大戦では、確かに日本は酷いこともしたけれど、良いこともした」と。
評価を変えるというのは、自分から声高に主張するのではなく、周りからそうした声が上がるのを待つのがいい。
そうした声が上がるように、尊敬され愛される日本になれるよう一生懸命努力するのがいいと思います。

国の威信であったり誇りと言うものは、そういうふうに作るもんだと思います。
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by kude104 | 2008-11-20 19:00
ささやかな楽しみ:美人とブスの周りの対応、反応の違い - livedoor Blog(ブログ)

ほんとにこんな露骨に差別されるものなの?
ぼくのこれまで人生では、あまり見聞きしたことないけどなぁ。

個人的には、そりゃ「恋人候補を探す」場合などでは相手の見た目も大きな要素となるけど、日常生活の一期一会やクラスメイトや仕事仲間などに対しては、べつに見た目などどーでもいいと思うのだけど。
よしんば気にするとしても、それを口や態度に出したりしないでしょ。
どんだけ民度低いねんと。

友だちに見た目の良さなど求めないように、普通、人付き合いに見た目の良さなど求めないでしょと思うのだけど、そうした人たちは

1)友だちであろうと見た目の良し悪しで選ぶ。
2)異性との人付き合いに、常にラブハンティング的な意識がある。

のいずれかなのだろうか。
ちょっと想像できない。

想像できないので、すべてとは言わないけれどいくつかは「単なる被害妄想なのでは?」という気もする。
たとえば、拒否される理由が、見た目ではなく態度であるとか他の何がしかにあるというケースも、あるのではないかな。
なのに、「私は見た目が悪いからだ」と、言うなればそこで思考停止をしてしまって本当の理由に気付こうとしないケースもありそうな気がする。

なんというか、現実をどのように解釈するかに、その人の心が現れるというか。
容姿に対するコンプレックスが彼/彼女の中に「見た目至上主義」的な価値観を作り上げ、それを通して世の中を見るから、多くの事柄が「世間は見た目で差別する」というふうに見えてしまうのではないかな。

もちろん、世間には見た目で差別する人もいるだろう。
見た目のいい人が得をするのも事実だろう。
でも、それはもうしょうがないじゃない。
自分の見た目が残念なことも、しょうがないじゃない。
「しょうがない」って割り切ってしまえば、世界はもっと違ったふうに見えるような気がする。

たとえば、もし見た目で差別されたところで、「こいつ人間としてダメだ」と思えばいいじゃない。
考えようによっては、残念な見た目も、他人の人間性を図るリトマス試験紙として使えるじゃない。
そうして他人を観察していけば、きっと、見た目でどうのこうの判断しない人もけっこうたくさんいるじゃないかと分かるんじゃないかな。

ぼくは世界をそのように見ているのだけど、甘いのかな。
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by kude104 | 2008-11-15 18:34