世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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麓で孤立を嘆くオタク

オタクがオタクのなかで孤立する時代。 - Something Orange

道が整備されて五合目まで登れるようになった――のではなく、そこはたぶん「平地」なんじゃないかという気がする。
せいぜい、「小高い丘」レベルじゃないかな。

オタクの定義はよく分かりませんが、「ライトオタク」とライトを付けてオタクカテゴリーに含めているその人たちは、たぶんオタクじゃないと思う。
オタク文化が好きな人=オタクではないですよね。

普通の人々がオタク文化の五合目まで登ってきているのではなく、オタク文化のすそ野がメインカルチャーに広く薄く広がっていると考えたほうがいいのではないかな。
「ライトオタク」な人々の立ち位置には、さほど変わりはない、と。
普通の人々が「ライトオタク」になって近づいてきてくれているのではなくて、たぶん、そうした人たちと正真正銘の「濃い」オタクな人たちとの距離は、今も昔もさほど変わっていないんじゃないかと思います。

それと、オタクな人たちが普通の人たちの中で孤立するのは、単に頂上を目指しているからという理由ではないだろうと思います。
端的に言うと「コミュ力の欠如」なんだだけど、もう少し具体的に言うなら、頂上から見える素晴らしい景色を麓にいる人たちに語る言葉を持たないからじゃないかと。

ディープでマニアックな話というのは、語る人が上手く語れば、めちゃくちゃ面白い。
マニアックなアニメどころか、誰も興味ないだろうフナムシの話だって、語る人が語ればめちゃくちゃ面白いに違いない。
なのに孤立するということは、やっぱり、話が面白くないからというのに尽きるんじゃないでしょうか。

ここは険しい道のりだから、登って来られる奴だけ登ってくればいい。
頂上から見る景色は登ったやつじゃないと分からないから、登れる者たちだけで、てっぺんで話そう。
って気持ちや態度でいたら、そりゃ孤立するよね。

そうじゃなくて、自分のマニアックな知識で、いかにオタクじゃない聞き手を楽しませられるかを考えればいいと思う。
てっぺんで仲間内にしか語れないなら、麓では「空気読めよ」と。
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by kude104 | 2009-08-24 23:59

結婚への「高望み」心理

不倒城: 結構本音で、いわゆる「結婚への高望み」の中身について聞いてきた

ふむ。
「結婚によって発生するデメリット(あるいは気乗りの無さ)を考えると、自分の場合、このくらいの条件でなければ結婚するメリットがない」という判断のもとに条件を「高望み」に設定するというのは、「理にかなっている」と思います。
そして、「だから婚活ゲームには(積極的に)参加しない」という行動であれば、理にかなった判断のもとに、理にかなった行動であるよと思う次第です。

問題は、それでもなお、婚活ゲームに参加しようとすることでしょう。
高望みくらいでないと釣り合わない(でも、高望みゆえに叶わない)と思いながら、それでも参加しようというのは、ちょっと理にかなった行動とは思えないから。

その参入が「私なら勝てる!」という判断のもとに成されたものならば、まるで矛盾しているので、「身の程知らず」と笑われるのもしょうがないと思うのだけど。
それはそれで良いとして。

ここで述べられているのは、本人も「勝てるわけない」と分かっていながら、それでも婚活ゲームに参加せざるを得ない状況があるのだ、ということですね。
「多くの」なのか「一部の」なのかは分かりませんが、ある女性たちにとって、婚活というゲームは、降りたくても降りられないのだと。

そうした状況が発生するのは、女性にとって、結婚というものがかなりの社会的ステータスを意味するからでしょうか。
たしかに男性でも、結婚できるやつが社会的に上、できないやつが下、という価値観はありますもんね。
女性の場合は、仕事で社会的ステータスを上げにくいのと、やはり「子どもを産む」という能力によって、男性以上にそれが強くなるのかもしれない。

いずれにせよ。
結婚など別にそんなにしたくないのに、婚活ゲームから降りられないから、参加しているふうを装う。
で、結婚したくないゆえに条件は「高望み」に設定してあるから、不本意にも、「身の程知らず」と笑われてしまう・・・ということなのかもしれない。
だとしたら、女性もいろいろ大変なんだなぁと、なんだか同情してしまう。

あるいは、そこまで合理的な「高望み」設定じゃなくて。

どうせ結婚するなら、そりゃ誰だって、できるだけ好条件で結婚したいと考えるのは普通です。
でも、自分のレベルで現実的に考えるなら、このくらい妥協しないと無理だろうなぁというラインがあって。
そのラインが、自分にとって、ひどく惨めなものであると思えば思うほど。
それを認めることは、自分が惨めであることを自分で認めることになる。
それはやはり、哀しいことですよ。

妥協した結婚をすることが、自分にとっての負けを確定させることならば。
理想の結婚を目指して無理を承知で走り続けるしかないわけだ。
走り続けている以上、負けを認めないでいられるからね。
そうして結婚適齢期を完全に過ぎて、タイムアップでゲームが終了するまで走り続ければ、少なくとも、「理想の相手と出会えなかった」という言い訳が立つ。
自分で自分の負けを認めないでゲームを終えることができる。
だから、そのときが来るまで、笑われながら走り続けるつもりなのかもしれない。

そう考えると、なんだかとても切ない話だなぁ。
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by kude104 | 2009-07-25 23:42
On Off and Beyond: アメリカのロースクールに留学して弁護士になった堀本さんの話

自分のことをよく知っている人に意見を求めると、通常彼らは、自分(=相談者)の今の状態が続いた方がリスクが少ない人たちなので、とりあえず現状維持がいいのでは、というアドバイスを受けがち。(上司やら、配偶者など)

だから、そういう「信頼おける人」にアドバイスを求めても意味がない、と。
たぶん、意味がないのは、「自分のことをよく知っている人」に意見を求めることではなく、「相談対象のことをよく知らない人」に意見を求めることではないかな、と思います。

たとえば、海外で働いたことのない人に「海外で働きたいと思うのだけど、どう思う?」と尋ねたら、十中八九、「やめたほうがいい」と答えるでしょう。
なぜなら、「自分が海外で働きたくない理由」を言ってしまうから。
逆に、海外で働きたいと思っている人に相談すれば、「ぜひそうするべき」というアドバイスが得られるでしょう。
なぜなら、「自分が海外で働きたい理由」を語ってくれるから。

それならば、今まさに海外で働いている人、もしくは過去に働いたことのある人に相談すれば、賛成するにせよ反対するにせよ、その人の経験に基づいた意見が聞ける分、参考になるかと思います。

アドバイスといっても、その人の知識や経験の範囲内でしか答えられないのだから、アドバイスをくれた人のプロフィールを念頭に置いて話を聞くことが重要かと思います。
あくまでも、その人の知識と経験をもとに考えた場合は・・・、という意見のひとつとして聞くのが正しいアドバイスの聞き方ではないでしょうか。

もしも自分の中で「やる」とすでに決めているのなら、「上手くやっていくために気をつけるべきことは何ですか?」というふうにアドバイスを求めるのがいいのではないかと思います。
「やるか、やらないか」のアドバイスは要らん。
もうこちとらやると決めたんだから。
つきましては、成功の可能性を少しでも高めるアドバイスがもしあればください。
なければ黙ってろ、と。

だいたい、先のことについてのアドバイスを求めてもあまり意味がないように思います。
先のことなんて誰にも分かんねーもん。
たとえば、5年前や10年前に、今の世の中をどれだけ予想できていた?

アドバイスは、いま解決すべき具体的な事柄について求めるのがよろしいかと思います。
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by kude104 | 2009-05-28 23:59

信仰と宗教

「救われない魂」を、信仰を持たずに救うことが、どういうことなのか分からない - どんなジレンマ

信仰を持たない人間の魂も救われることはあるのだろうか。
おそらく、「ない」だろうと思います。
なぜなら、「魂」が「救われる」ことを願う時点で、それはある種の「信仰」だろうと思うからです。

「魂」という漠然としたものを救うためには、「魂」を定義する「世界観」が必要になります。
そして、それを「救済してくれるもの」を求める時点で、これはもう立派な信仰でしょう。
もし、そうした信仰を微塵も持たない人間ならば、「魂」というものを「救済してほしい」などと、そもそも考えもしないのではないでしょうか。

もしそれが信仰であるなら、救われるためには「納得すること」が必要になるかと思います。
どんな無茶苦茶なロジックでもいい、「そういうものか」と納得することでひとは救われるのだと思います。
逆に言えば、なぜ救われないかというと、納得できないからでしょう。
なぜだか分からない、どうしてだか分からないから、心のもやもやが収まらず、救われない。
それを誰かに「それは、こうだ!」とすぱっと快刀乱麻を断ってもらえれば、「なるほど、そうだったのか!」と心が晴れて救われる。

宗教というものは、そうした「もやもやした信仰」をロジカルに体系化し説明したものであると考えます。
なので、納得できさえすれば、信仰の対象は宗教でなくても構わない。
科学に救われる人もいれば、愛に救われる人もいるでしょう。
そうした人たちは、科学を信仰し、愛を信仰するのでしょう。

「1+1=2」というルールを「そういうもの」として飲み込んで、世の中のあらゆる数式を理解することと、「神」というルールを飲み込んで、世の中のあらゆる事象を理解することと、信仰のレベルとしては、それほど大きな違いがあるとは思えない。
魂の救済を求めて苦しむことも、解けない数式を前に悩むことも、どちらも「解き方」としては同じなのではないでしょうか。
片や公理から定理を導き計算して答えを出し、片や神から教義を導き信仰して答えを出す。
数式を解くのには数学が適していて宗教が適さないように、魂を救済するには宗教が適していて数学は適さないでしょう。
そうした違いはあるけれど、どちらも「世界の成り立ちを説明するための体系」であるのは同じじゃないでしょうか。

そう考えれば、たぶん、信仰を持った人が強いのではなくて、「式の解き方を知っている」ひとが強いのだろうと思います。
信仰だけあってもダメで、それによって問題が解けないと救われない。
その解き方が正しいか間違っているかはどうあれ、本人が「解けた」と思っているならば、心は晴れやかでいられましょう。

解き方は、何度も言うように、宗教である必要はありません。
ですので、冒頭の問いを「宗教を持たない人間の魂も救われることはあるのだろうか」とするならば、それはYESと言えましょう。
YESはキリスト教だけのものではないですよ、と。
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by kude104 | 2009-05-23 15:54
誰がこんな事を教えるんだ!(植松) カムイスペースワークスブログ-CURURU

こないだ、こんな意見をもらいました。

仕事は収入のためにするものです。
自分の好きなことを仕事にするとか、人の役に立ちたいとか、きれいごとです。
夢を持って成功した人はいいですが、失敗したらどうするんでしょうか?
夢に向かって努力して、失敗して、何もかも失ったら、どうするのでしょうか?
現実を考えれば、夢をかなえるのは不可能なはずです。
理想ばかりを追ってはいられません。
こうした意見は実のところ

私にとって、仕事は収入のためにするものです。
自分の好きなことを仕事にするとか、人の役に立ちたいとか、私にはきれいごとです。
夢を持って成功した人はいいですが、失敗するのは私はいやです。
夢に向かって努力して、失敗して、何もかも失ったら、私はいやです。
現実を考えれば、私が夢をかなえるのは不可能です。
私は理想ばかりを追ってはいられません。
主語を「私」にすると、意見としてはまったく正しいわけで、「あなた」がそう考え好きなことを仕事にしなかったのは全く正しい選択だったと、そう思うわけで。
「そうですか、今のお仕事がんばってください」としか答えようがない。

かたや、どだい好きなことを仕事にしようという人間は、「他人がどうだろうと自分だけは成功する」と思っている自信家か、「たとえ失敗してもやる」と思っている情熱家だから。
そういう人たちに上のような意見を、主語を「あなた」もしくは「世間一般」にして言ったところで、「だが、俺は違う」「それでもいい、俺はやる」くらいの反応しか得られないんじゃなかろうか。

個人的には、好きなことを仕事にするかしないかは、単に「戦略」の違いと見る。
ガチガチの本命に賭けるか、大穴に賭けるか、そもそも賭けなどしないか。
配られたカードのよし悪しや、目標として掲げる勝利条件の違いでもって採るべき戦略も変わってくるのだけど、それ以上に、そのひとの性格というものも大いにかかわってくる。

どんなにいいカードが配られても攻めないひともいれば、ゴミ手でも盛んに攻めるひともいる。
どっちが勝つか負けるかは結果でしか語れない。
統計的や確率的に語ることはできるだろうけど、理論は結果を越えないから。
さらに、どの戦略がいいか悪いかは、結果でも語れない。
結果は客観的に測れるけど、その結果をよしとするかどうかは、本人の主観にゆだねられるから。

なので、本人が自分の掛け金で勝負している限りは、他人の賭け方にあーだこーだ言うのは、おせっかいというものだろうと思う。
どのみち、「あなたの戦略を私の価値観で測ると──」という話以上はできないもの。
もちろん、心から相手のことを思っての助言であるとか、「私はこう思いますがあなたはどう思いますか?」という議論であるとか、そうした意図ならいいけどね。
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by kude104 | 2009-05-16 21:42
On Off and Beyond: 海外で勉強して働こう

最近、原丈人さんの「新しい資本主義」を読んだこともあって、「日本はもう立ち直れない」という感じは、ぼくにはあまりありません。
もっとも、原さんの「日本は希望の大国だ」という見方にも、それはそれで「ちょっと大げさでは」という気はするのですが。
楽観はできないにしても、そう悲観したもんじゃないでしょ、という思いはあります。

そもそも、今の日本って、そんなに閉塞感漂っていますでしょうか。
たしかに、ニュースなどを見ていると、政治も経済も澱んでいる感はありますが、それでも諸外国に比べればずいぶんましなほうだと思うのだけれど。

たとえば、貧富の差は、アメリカのほうが深刻なイメージがあります。
上記エントリーで挙げられている「貧富の差は激しく、一部の著しい金持ちと、未来に希望を持てない多くの貧困層に分離、金持ちは誘拐を恐れて暮らす」というシナリオなら、日本よりもアメリカのほうがあり得る気がするのは、ぼくが彼の国をよく知らないからでしょうか。
現地の雰囲気は違うのかな。


とはいえ。
これからのことを考えると、日本だけにしがみついていてはダメだというのは、まったくその通りで。
日本人がどんどん海外に出て学び働くのは、とてもいいことだと思います。

ただ、「日本はもうダメだから海外に逃げましょう」というメッセージには、なんというか、志がない。
みんな、なんだかんだいって、やっぱり自分の国が好きだと思うんですよね。
親兄弟や友だちなどなど、全員は連れてはいけませんよね。
ならば、そうした多くの人たちを沈みゆく船に残して、自分たちだけ逃げましょうと言われても、なかなか心は奮い立たないでしょう。
上記エントリーを読んで、「よし、自分も海外に行こう!」というひとを、ぼくはあまり好きになれそうにない気がします。

そうじゃなくて。
もし日本が本当にやばいなら、なんとかして救うべきだと訴える。
そのためには、日本の中にいてはダメだ。
一度海外に出て、そこで広い視野を得て、知識と経験を蓄えよ。
そうして力を得たのちに、日本に戻って、あなたの大切な人たちのために力を使いましょう、と呼びかけるならば、心奮わす人も多々現れるんじゃないかなぁ。

人を動かすには、嘘でも、何かしらの「大義」が必要だろうと思います。
自分自身のことだけでもって海外に行こうという人は、なにも言わなくても行くでしょう。

そうか。
みんなダメだダメだというばかりで、誰も大義を語らないから閉塞感が広がるのかな。
ぼくもはやく何がしかの力をつけて、「日本は希望の大国だ」とか言えるようになりたいです。
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by kude104 | 2009-04-28 19:10
戦争を知らないぼくたちに戦後責任は存在するか? - Something Orange

この記事で言及されている山本さんの発言の要旨は「日本とか中国とか在日とかそういったラベリングの集団論で片付けていると、『個人の責任』を見失いますよ」というところにあるのではないかと思います。
ただ、その話の枕に「日本は中国に謝罪すべきか?」というデリケートな話を持ってきてしまったがために、本題よりも枕のほうがメイントピックになっちゃった感がありますね。

少なくとも、「謝罪する必要はない」とする山本さんの発言は、言うならば「戦中責任」について述べたものであり、kaienさんの仰る「戦後責任」とは、また別のお話になるように思います。


それはそれとして。
この記事を読んで、「戦後責任」についてのぼくの考えはというと。

国家として、今の日本に「戦後責任」があるかというと、あるでしょう。
国家にあるということは、その主権者である国民たる我々にも「戦後責任」がある、ということでよいかと思います。

今の日本という国が、大日本帝国、あるいはそれ以前と「同一」であるかというのは、厳密なところはよく分かりませんが、まぁいちおう日本は大和朝廷くらいからずっと天皇家が治める単一王朝ということになっているのかな。
別の王朝が打ち建てられたわけでもないし、異民族の国家に変わったわけでもないし、まぁ諸外国の扱いとして「同じ」と考えるべきだろうと思います。
せいぜい、政権や政治体制の交代レベルの認識でしょう。
われわれの意識としても、「日本」の誕生が戦後からという感じではありませんし。

だとすると、日本という国家には戦争を行った過去がある、ということになります。
ならば当然、今の日本に「戦後責任」はあるだろうと思うのです。

ただ、ぼくの思う「戦後責任」というのは、「過去の戦争で犯した罪に対する直接的な責任」ではなくて(それはまた別の責任のお話)、「かつて戦争をした」ということを踏まえて、今、そしてこれから、日本という国家がどうあるべきかということについての責任、という意味です。
kaienさんの仰る「戦後責任」というのも、たぶん同じ意味だろうと思います。

「戦後責任を持つ」=「謝罪と賠償」ではない。
戦後責任というのは、そんな小さなものではない。

ある人にとっては、「もう二度と戦争を起こさない」ことが戦後責任になるでしょう。
またある人にとっては、「もう二度と負ける戦争はしない」ことが戦後責任であるかもしれません。
言論の自由を守ることが戦後責任である人もいるでしょうし、参政することが戦後責任である人もいるでしょう。
国際貢献であるとか、そうしたことも戦後責任とは無関係ではありません。

要するに、あの戦争を教訓として、これからの日本にどう活かすかということですね。
何も学ばず、同じ失敗を繰り返すなら、それこそが「無責任」な行為じゃないでしょうか。

なので、戦後責任のまず第一歩は、あの戦争について知ること、考えることであろうと思います。
今回のこの記事も、戦後責任のひとつなのだ。
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by kude104 | 2009-04-25 22:23
男たちの反乱が始まった こういう女はやめとけ

先日、ある女からこんな事を言われた。

「女は、恋愛におけるアプローチ、誘うことも、デートのセッティングもする心づもりがある。もちろんワリカンで。しかし、女からの積極的なアプローチには、男は引いてしまう。結局、『男は女を養わないと』『女をリードしないと』といった『男らしさ』『男役割』に、男は自らしがみついているのだ」
はたしてそれは「女」から「男」に限った話なのだろうか?

たとえば、「女からの積極的なアプローチには、男は引いてしまう」という発言から性別を表す単語を抜いてみると、「積極的なアプローチに引いてしまう」となる。
「積極的なアプローチ」というのがどれくらいのレベルかにもよりますが、男女に限らず、恋愛に限らず、こちらにとって興味のない相手からぐいぐい来られたら、そりゃ引くよね。
男も女も関係ないと思うのですが。

それとも、男からの積極的なアプローチには、女は引かないのでしょうか?
・・・ほんとかなぁ。
それって「ただしイケメンに限る」とか、単にちやほやされるのが嬉しいだけとか、そういうことじゃなくて?

ワリカンは──まぁたしかに、ちょっと「ここは俺が払うから」ってカッコ付けたくはなるね。
たとえばいいレストランとかそれなりの場所で女に払ってもらうのはカッコワルイという価値観は、たしかにある。
相手が同じくらいの稼ぎで、しかもワリカンでいいっていうなら、強いて「俺が払う」を貫こうとも思わないけど。
個人的には、「今回は俺が払うから、次は君が払って」って感じで、交互に奢り奢られるのが好きだけどね。


J-CASTニュース : 好きな男性は「俺についてこい」型 女性は意外に「上から目線」が好き?

まぁ、世間にはこーゆー情報があふれているので、お互いに相手の価値観を探り探りしている段階では、とりあえず「男がリードする」ということで進めるのが一番スムーズにことが運ぶだろうとは思います。
「あなたがリードする? それとも私がリードする?」という探り合いをやらなくていいぶん、楽でしょう。

でも、そうして第一段階をクリアしたら、あとは「対等に付き合いたい」という意思表示をすればいいんじゃないかと思います。
それに対して相手が「いや、俺がリードする」と主張するなら、そこから先は、お互いの価値観の違いにどう折り合いをつけるかという話でしょう。
恋愛に限らず、人と人との付き合いというのは、相手の価値観をどう尊重するか、自分の価値観をどう尊重してもらうかという、そのすり合わせだろうと思います。
それがうまくできない相手とは、どの道うまく付き合えないのですから。

そこで、「男って」「女って」などと男女論に逃げて価値観のすり合わせを放棄すれば、そりゃ上手くいかないのは当たり前じゃないでしょうか。
なのに、恋愛になると、そういうひと多いですよね。
愛があればどうにかなると思っちゃうからかな。
それこそ「恋愛らしさ」にしがみついているだけじゃなかろうか。

あなたが相手にすべきなのは、「男(あるいは女)」じゃなくて「○○さん」という個人ですよ、と。
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by kude104 | 2009-04-18 23:40

できない自分を認める

出来ない自分を認める人達|ヨコオタロウの日記

なぜ、できない自分を認める事で気持ちが楽になるのかをぼくなりに考えてみると。

ブログ主さんも書かれているように、「出来ない自分を認めると、気持ちが楽になる」という言葉の裏には、「なんで俺は出来ないんだろう!苦しい!」という状況がある。
では、なぜ苦しいのか?という点について、ブログ主さんは「周囲に謎のプレッシャーでもかけられているんだろうか?」と考えておられますが。

「なんで俺は出来ないんだろう!苦しい!」という言葉の裏をさらに読み解くと、そこには「俺ならできるはずだ!」という思いが隠れているように思う。
できるはずだと思うのにできないから苦しいのだ。

できるはずなのにできない。
なぜだ?
運が悪いから?
あいつが悪いから?
もしかして、本当は、俺が無能だからじゃないのか・・・?
いやいや! そんなはずはない!
俺はできるはずだ!
今回はたまたま運が悪かっただけだ!

できない自分を認めないということは、自分の能力不足ゆえにできない物事の理由が分からないということだ。
理由が変わらないから、何度やっても上手くいかない。
「俺はできるはず。なのにできない」という失敗を何度でも何度でも何度でも繰り返すことになる。
それはまさに、無間地獄。
苦しくなかろうはずがない。

そこでようやく、できない自分を認めることができたとしよう。
そうか、自分の能力値が足りていなかったんだと。
今までずっと「なぜダメなんだ、どうして出来ないんだ」と延々悩んできたけれど、なんだそんな簡単なことだったんだと。
分かってしまえば、いままであれだけ彷徨っていたのがウソのように、いともあっさりと無間地獄を抜け出すことができるので。
だから、楽になるのだろうと思う。

どうやって抜け出すか──諦めるのか、努力するのか、他人の助力を仰ぐのか──は、人それぞれで。
重要なのは抜け出す方法が「楽」かどうかではなく、いままでの堂々巡りが終わることにある。


もしくは、虚勢を張る必要がなくなるから、というパターンもあるだろう。

自分でも自分の能力不足は認識しているのだけど、相手にそう思われたくはないというケース。
思われたくないから、無理をするわけだ。
プライドの高い人に多いケースだね。

この場合「できない自分を認める」とは、「できない」と他人に評価されることを認める、ということだ。
認めてしまえば、虚勢を張る必要が無くなる。
ゆえに楽になる。

K-1のたとえで言うなら、本当は弱いのに「強い」と思わせるのは疲れる、ということだ。
八百長試合を組んだり、負けそうな試合はうまくスルーしたり、負けた時にはそれっぽい言い訳を用意したり、「いかにも強そうなやつ」を演じたり。
いつボロが出るかとびくびくしながら生きるのは、しんどいだろうと思う。


自己啓発っぽい話になってしまうけれど、結局はよくある「ありのままの自分を認める」という話になるのだろうなと思う。
自分を偽るとしんどいよと。
無意識に偽ると現実とのギャップに苦しむことになるし、意識的に偽ると偽ることにエネルギーを必要とするし。

でも、そうと分かっていても、なかなか偽ることをやめられないのが人間だよね。
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by kude104 | 2009-04-13 18:54

どうでもいい話

NHKを観ていると、環境広告と言うのでしょうか、「明日のエコでは間に合わない」というキャッチコピーとともに、芸能人の方々がひとことメッセージを述べるというCMが流れることがあります。

たとえば、「夜寝るとき電気を消します」とか、「水の無駄遣いをしない」とか、うろ覚えですけど、そういうちょっとしたエコを心がけていますというメッセージを芸能人の方々が述べられるわけですが。

そのCMを観るたびに、毎回心の中で、「そんなエコでは間に合わない」というフレーズが浮かぶ──という話。

いやね、「明日のエコでは間に合わない」という逼迫したキャッチコピーを掲げているわりに、やってることしょぼいなーという。
明日のエコで間に合わないものが、その程度のエコで大丈夫なの?と。

* * *

綾瀬はるかさんが主演する「おっぱいバレー」という映画がもうじき公開されます。
ぼく、この手の青春スポコンコメディ系ってけっこう好きなんですが、これはさすがに、観にいけない。
チケット売り場で、受付のおねーさんに「おっぱいバレー、大人一枚」って、恥ずかしくてとても言えない。

これってたぶん、ぼくだけじゃないはず。
思春期の男子とかも、まず無理でしょ。

ということは、この映画、チケットを買う段階で客が敬遠してしまい、結果、内容の良し悪しに関わらずヒットしないのが目に見えているのではなかろうか。
マーケティングの人とか、誰かそのへん考えなかったのかなぁ。

でも、おっぱいバレーのチケットを買えば、受付のおねーさんに「おっぱいバレー」と言わせることができる、というマニアックな楽しみはあるよね。
と期待して行ったら、受付のおにーさんに当たってしまうというオチが目に浮かびます。
オトコに「おっぱいバレー」って言われたくないよな。
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by kude104 | 2009-04-11 18:39