世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

カテゴリ:未分類( 310 )

収入学歴はあるけど恋愛経験が皆無の男へ。アラサー女子と和解して幸せになりませんか? - 結婚・恋愛ニュースぷらす
ここらで一歩ずつ譲歩してお互いに幸せになりませんか?
収入学歴はあるけど恋愛経験が少ないアラサー男子はアラサー女子に育ててもらうぐらい
の謙虚な気持ちで仕事や趣味彼女との付き合いを通じて自分を成長させる努力をする。
アラサー女子は多少幼いところには目をつぶり成長意欲があり努力の姿勢が見られるので
あれば多少現時点で未熟なところには目をつぶり長い目で育てる。
名付けてアラサー男女の幸せのための和平交渉。どうですか?
婚活と言いつつ恋愛経験がどうのこうのと言っている時点で間違っている。
結婚相手に「恋愛経験」の豊富さなんて必要ないだろ。
それが「人として幼い」という意味ならば、恋愛経験関係ない。
「人として幼い」のと「女性あしらいが幼い」のとを混同しているなら、まずそれがダメ。

収入学歴はあるけど人として幼いから結婚出来ない男性に対して、女性が母親がわりになって育ててやろうということなら、発言の趣旨はわかる。
アラサーにもなって「人として幼い」ってのはかなりのキズアリだと思うけど、他に相手がいなくて、どうしても結婚したいならそれもしょうがない。

一方、「女性あしらいが幼い」ことに対してどうのこうの言っているのだとしたら、自分自身が「人として幼い」のだということに気がつけ。
[PR]
by kude104 | 2010-12-03 17:53
努力すればなんとかなると思っているキミへ

なんかハイテンションで読みづらい文章だけど、要するにまぁ、「努力したって無駄。今を楽しめ」ってことが言いたいのだろう。
「努力すれば夢は叶う」って言いたがるひとと同じだけ、こーゆーこと言いたがるひと、いるよねー。

「今を楽しむ」を本気で実行するなら、宵越しの銭など不要なわけで。
明日のことなど考えず、持てるお金は今日すべて使ってしまえ。
そうして今日を精一杯楽しんで、明日飢え死にするなら本望だろう。
それができないなら、そりゃ嘘なんじゃない?
自分ができないことを他人にアジテートするのはよろしくない。
(いや、ほんとに宵越しの銭を持たない生き方してるなら天晴だけど)

「努力すれば夢は必ず叶う」ってのも、「努力しても夢は叶わない」ってのも、目くそ鼻くそ。
五十歩百歩。
表裏一体の嘘だね。
正しくは、面白くも何とも無いけど、「努力して叶う夢もあれば、叶わない夢もある」ってだけ。

努力したって叶わない夢に向かって努力するのはたしかに馬鹿だけど、努力すれば叶う夢を努力しないで諦めるのも馬鹿に違いない。
つまりなにが馬鹿かって、努力すれば叶うか叶わないか、その見極めができない人を馬鹿という。

配られたカードでは絶対にロイヤルストレートフラッシュなどできないのに、やろうとするのは馬鹿だ。
でも、配られたカードでどうにかできる役を考え勝とうと努力するのは馬鹿じゃない。
結果的に役ができずに負けてしまったとしても、それすなわち馬鹿ということにはならない。

未来は不確定(あるいは未知)なのだから、役ができるかできないかも不確定だ。
ならば人間にできることは、役ができるほうに賭けるか(賭けるならいくら賭けるか)、降りるか、その決断でしかない。
勝算の見積もりと、どの程度の勝算があればいくら賭けるか、その判断の良し悪しが頭の善し悪しと言えるだろう。
なんでもかんでも勝負するギャンブラーと、なんでもかんでも降りるギャンブラーは、等しく馬鹿だ。

だいたい、なんでみんなそんなに無駄なことを嫌うのだろう。
無駄というなら、生命というもの自体が壮大な無駄じゃないか。
どうせ人は100年くらいで死んじゃうし、人類だっていずれは絶滅するだろうに。
ほんのいっとき楽しいからって、それに何の意味がある?って気持ちにはならないのだろうか。
あるいは無駄な人生だと思うから、せめてうたかた楽しい気分でいたいのだろうか。
[PR]
by kude104 | 2010-11-23 19:16

神の善悪、人の善悪

ぼくなりに聖書を眺めていて感じるのは、神様にとっての善悪というのは、とどのつまりは、「自分を信仰するか否か」であるという気がする。

もし神様がいるとして終末の日に人類を救ってくれるなら、救うべき人間と罰するべき人間との選別は、その人が善人であるか悪人であるかによってなされるだろうと考える。
これは多分そうだろう。
で、ならば自分はさほど悪人ではないから、別に神様を信仰していなくったって救われるんじゃねーの?と考えてしまうのだけど、これが大きな勘違いで。
神様にとっての善人悪人の判断基準は、「自分を信仰するか否か」なのだと思う。

ぼくらが一般的に思い描く「善い行い」というものは、神様にしてみれば、神様を信仰し神様の言い付けを守って生活をしていれば、結果的にそうなるだけのものでしかない。
ここのところを、信仰を持たないぼくらは勘違いしてしまう。

通常、「神様の言い付け」はほぼ一般的な道徳基準に重なっているので、神様の善悪観と人間のそれとが同じであるように錯覚してしまう。
だから、たまに神様が異教徒を虐殺したりすると、ハテナ?と思ってしまうのだけど。
神様の善悪観を「自分を信仰するか否か」で理解すると、そうした違和感は解消される。

「異教徒だからといって殺すなんてひどい」と思うのは人間の善悪観。
「異教徒であることが最大の罪」というのが神様の善悪観だ。

そんな絶対君主的な神様、ぼくは好きになれないんだけど、「全力で従えば全力で幸福にしてくれる王様」というものに憧れる気持ちも分からなくはない。
[PR]
by kude104 | 2010-05-23 17:34

ぼくは元気です

明けましておめでとうございます――と書くには時すでに遅しな感じですが、ま、いちおう新年一発目なので。

ずいぶん長らく更新していなかったもので、友人に「元気ですか?」と心配されてしまいました。
このとおり、ぼくは元気です。
更新しなかったのは、単に更新するのが面倒くさかっただけです。
一旦面倒くさくなると、どんどん書く気が失せてこの有様ですよ。
でも、さすがに生存を心配されたとあっては申し訳ないので、これからはまた以前のように更新しようと思います。

でまぁ、更新が面倒くさくなっていた理由のひとつとして、いま新しいアプリケーションを作ってまして。
そっちが面白くてですね、ブログがお留守になっていたってのもあります。
ブログを書くのもプログラムを書くのも、まぁ同じ「書く」というアウトプット作業ではあるので、「なにか書きたい」という欲求をどちらにどう配分するかという感じになってしまいます。
で、いまはプログラミングが楽しいので、どうしてもそちらが優先になってしまうというわけです。
どんなアプリケーションを作っているのかといったことは、いずれまた追々に。

そんな感じで、今年もあと11ヶ月ほどどうぞよろしく。
[PR]
by kude104 | 2010-01-30 22:14
バナナマン日村がマジ切れ、「俺は傷ついている」という悲痛な叫び - 無農薬有機お笑いブログ
バナナマンのラジオの件について、自分なりに考察する。 - 無農薬有機お笑いブログ

「お笑い」と「いじめ」の関係はよく言われることだけど。
ぼくとしては、結局、「笑わせるのはいいけど、笑われるのはイヤだ」というところに尽きるのではないかなぁと思う。
まぁこれにしたって、「ここまでが笑わせる」「ここからは笑われる」と区別できはしないのだけど。
最終的には、本人の気持ち次第ということになるね。

上記の日村さんの例で言えば、事前にこういうのをやりますよという打ち合わせがあれば、気持ち的には「よーし、それをネタに笑わせてやる」という姿勢で臨めるのだろう。
でも、いきなり不意打ちのようにネタにされては、ただ笑われるだけになってしまう、と。

ここで、もし瞬発的な対応能力の持ち主であれば、不意打ちのネタに対しても瞬時に「それをネタに笑わせてやる」という姿勢に持っていけるのだろう。
でも、日村さんは、ちょっとそういうタイプではないように思う。
反射的なリアクションで笑いをとるタイプじゃなさそうに見えるので。

それをもって、日村さんの能力不足であるとか芸人としての姿勢を責めるのは酷だ。
バナナマンといえば、基本コントだよね。
日村さんの能力が、仮にコントに特化したものだとしてもそれでいいし、日村さんが「俺はコントがやりたくて芸人になったんだ。だから、こういう笑われ役はイヤだ」と思っていたとしても、それはそれでプロの心構えだと思える。

また、「それをラジオで言うのはどうか?」「(笑いとして)面白くない」といった意見も、たぶん当てはまらないんじゃないかと思う。
ぼくは聴いていないから知らないけど、この番組はこういう回もありな番組なんじゃないかな、たぶん。
これがテレビの普通のお笑い番組での出来事であったら、「放送事故」だと思うけど。

むしろ、一緒に仕事している人たちは、そうした日村さんの性格やら能力やらを理解して番組作りをするべきなんじゃないだろうか。
日村さんの「叫び」も、「俺を理解してよ!」という叫びだろう。
一回こっきりの仕事相手がしたことなら、たぶん黙ってビンタされたに違いない。

バナナマンと言えば、深夜にやっている「バナナ炎」は好きで観ているのだけど、あれなんか「いじめ」はなくたって「笑い」は作れるといういい例だと思うけどな。
ホームグラウンドの番組で無理に日村さんの嫌がることやらなくても、バナナマンの笑いはあんな感じでいいんじゃないかと思う。
[PR]
by kude104 | 2009-12-14 23:26

『天体観測』の歌詞世界

『天体観測』の歌詞を分析するその1 - くりごはんが嫌い
『天体観測』の歌詞を分析するその2 - くりごはんが嫌い

すごく単純な――イメージそのまま、天体観測の情景を唄った歌だと思っていたので、そんなに解釈が『謎』とされているとは知らなかった。

ぼくとしては、歌詞の中に出てくる『君』は、素直に(昔の)友だちだと思うんだよね。
『君』を恋人としてイメージしたくなる気持ちも分かる。
星は恋人と観るほうがロマンチックだし、なにより、「手を握る」という行為が男同士だと気持悪いから。

でも、「震える手を握る」というのは、本当に手を握る行為というよりも、心と心の触れ合いとして「寄り添う」とか「支える」といったことのメタファーと解釈するべきだろう。
「ここで 今 君の手を 掴むためのメロディーフラッグ」の「掴む」なんかと同じだね。
と考えれば、別に男同士で手を握りあっても気持悪くはない。

なので、前半はそのまま。
友だちと二人で望遠鏡を担いで天体観測に行った、という歌だろう。
ただ、「深い闇」や「君の震える手」というのは、天体観測をするその場所が真っ暗で怖いという、そうした叙事描写であるとともに、友だちが何かしら心に不安や悩みを抱えていたという抒情描写にもなっているのだろうと思う。

きっと『僕』は、友だちが悩んでいることを察していて、なんとか力になってあげたいと思い、天体観測に誘ったんじゃないかな。
一緒に星を眺めながら、悩みを聞いてあげようと。
でも、果たせなかったわけだ。
それが『僕』の痛み――後悔になっている、と。

『予報外れの雨』というのも、実際に雨が降って天体観測を中止せざるを得なくなったという叙事に重ねて、友だちの「震え」が「予期せぬ雨」によってもたらされたものであるというメタファーと解釈できる。
PVで言えば、転校なんかは、子どもにとってはまさに『予期せぬ雨』ではないかな。
天候(転校)だけに・・・なーんちゃって。

『ほうき星』は、おそらくこれも叙事とメタファーとをあわせもったキーワードだろう。
実際にほうき星を観に行ったのと、「今」の象徴として。
きっと、普通の星じゃなくて『ほうき星』なのは、それが今日も明日も明後日も見られるものじゃなくて、「今」しか見られない刹那的なものだからだろう。
だったら『流れ星』でもいいじゃないかと思うけれど、「追いかける」には、周回軌道のほうき星でなければならないからこその『ほうき星』なんだろうね。

この『ほうき星』を追いかけているという表現を、歌詞の順に並べると、

君と二人追いかけていた
今も一人追いかけている
今も一人追いかけている
君と二人追いかけている

となる。
最初が「過去」であるのは明らかだ。
つまり、歌詞の構成として、「今も一人追いかけている」『僕』が、過去の「君と二人追いかけていた」ときのことを回想する形になっている。
実際に叙事的な意味で天体観測をしたのも、おそらく「君と二人追いかけていた」ときだけだろう。

で、歌詞の中で唄われているように、「今まで見つけたモノは全部覚えている」「そうして知った痛みが 未だに僕を支えている」わけだ。
だから、今は『僕』一人であっても(二分後に君が来なくとも)、思い出の中であの日のフミキリに戻れば、「君と二人追いかけている」ことになるわけだね。

実に「スタンド・バイ・ミー」的な歌詞世界だと思う。
[PR]
by kude104 | 2009-11-12 22:10
人を信じるだけムダなんだと思う

「人を信じても裏切られるだけ」みたいな言説に対していつも思うのだけど、それ、ちがうやろ。
「裏切る人を信じた」だけやろ。

この手の人に多いのが、100%信じるか、まったく信じないかどちらか――みたいな。
ゼロかイチか。
なんでそうなるかというと、結局、楽をしたいからなんだろう。

すべての人間が一律に信用できるとかできないとか、そんなわけないじゃない。
一人の人間に対しても、いついかなる時も、あらゆる事柄に対して、一律に信用できるとかできないとか、そんなわけない。
Aさんは、こういうときこういう事柄に対しては、これくらい信用していいけど、こういうときこういう事柄に対しては、これくらいしか信用できない、とか。
信用できるかどうかなんて、本来、その時々に個別個別に見極めて行かなければならないものだ。
当然、それはすごく難しいし、手間暇かかる作業だ。

だから、もうまるっと一律に信じるか信じないか、どちらかだっていうふうにして、楽がしたいだけなんじゃないの?

「疑う自分が嫌だ」っていうけど、それ本当に?
単に、『理想の相手像』を押し付けたいだけとちがうの?
相手を見極めるというのは、相手の善いところも悪いところも含めてお互いの距離感を図っていくことだ。
相手の人となりを理解して行くのが面倒だから『理想の相手像』を押し付けて、それを信じることで関係性を築いた気でいるだけならば。
そういうのは、「信じる」とは言わん。

本当に人を信じるというのは。
「この人なら裏切らない」と信じることじゃない。
「この人に裏切られるなら、しょうがない」と覚悟することだ。
だから、人を信じることは気高くて美しんじゃないか。

「信じたのに裏切られた!」とわめいて非難するくらいのことは、誰にでもできる。
裏切られてわめくぐらいなら、信じちゃダメなんだよ。
裏切られること前提で、それでもいいと思えるなら、それが本当に「信じる」ということだ。

そして「信じる」ことにも、当然、レベルがある。
たとえば、ひとにお金を貸すとき、いくらまでなら貸せるか、みたいに。
それはもちろん、返ってこないこと前提でだ。
あいつなら、100万円まで貸せる、とか。
あいつには、100円でも無理だ、とか。

自分の命まで懸けて、裏切られたら笑って死ねるような、そんな信じるに足る相手は、人生でまぁひとりいるかいないかだろう。
ジャンプ漫画じゃねーんだから、そんな友情や愛情のバーゲンセールみたいに何人も何人もいるわけがない。
でも、100円や1万円くらいの信じるに足る人はたくさんいる。
そういう小さな信じる心で、世の中はつながって成り立っているんだろうと思う。

「人を信じるだけムダ」なのではなく、無駄に信じてもムダなだけなのよ。
[PR]
by kude104 | 2009-11-11 17:12
島国大和さんの「恋愛資本主義と愛と働き蜂の話」について - tyokorataの日記
それ故、「皆が平等に『幻想』を享受できるはずなのにどうして俺は」と忸怩たる思いを抱く人が出てくるわけです。

島国大和さんの希望やら夢は労働させて搾取する為に使われるだけだから、自分の価値判断で行動した方がいいさ。という考え方は、自分の価値観を「会社」や「周りの価値観」などに合わせる事で安心している、「運」に恵まれなかった「大衆」に求めるのは酷なわけです。
人が生きるために『幻想』を必要とするのは、たしかにそうだとして。
恋愛至上主義の弊害は、生きるための『幻想』として恋愛を至上のものとするあまり、恋愛できないと生きる意味を見失ってしまうことじゃないかと思う。

「自分は(まだ)恋愛できる」と信じていられる間は恋愛至上主義もいいのだけど、当然、皆が皆恋愛できるわけではない。
恋愛至上主義を価値観として抱えながら、自分には恋愛はできないのだと気付いてしまった人は、いったいどうすればいいのだろう。
恋愛至上主義を捨て、つまり「恋愛は至上でも何でもない」という価値観に切り替えて、他の新たな『幻想』を獲得するしかない。

「自分の価値判断で行動した方がいい」というのも、そうした恋愛できない恋愛至上主義者たちに向けられた「逆洗脳」のひとつだろうと思う。
「酷」なのではなく、「優しさ」ではないかな。
『幻想』などなくとも幸せに生きていけるよ、という言葉もまた『幻想』として機能するのだ。

ただ、現状、恋愛を「至上」の座から引きずり降ろせるほどの力を持った『幻想』は、ないと言っていいんじゃないだろうか。
個人個人に対してはあるんだけど、これほど不特定多数の大衆に一律に効く『幻想』は、それこそ宗教くらいしか思い当たらない。

なにしろまず、恋愛はおそらく子孫を残すために必要な事柄として、生理的なレベルで脳内麻薬とかドバドバ出ているだろうから、生半可なものでは太刀打ちできない。
恋愛の至上性は、遺伝子レベルで後押しされている気がする。

それでも、恋愛が単に「性的」なだけのものならばまだ付け入る隙もあるけど、それに加えて「聖的」なイメージまでもがまとわりついているのだから、お手上げだ。
恋愛がもっと俗なものだったら、もっと軽く扱えもするのだけど、人によっては人間の欲望の中でもまさに「至上」に奉られたりしているものだから。

そして、純粋にエンターテインメントとしても強力だ。
恋愛自体が優れたエンターテインメントというだけじゃなく、他のすべての娯楽を飛躍的にドラマチックにする効果まであるのだから。

そして、希望性。
たしかに恋愛できない人は大勢いるし、自分は恋愛できないと絶望するひともたくさんいる。
だけど、恋愛はある日突然見知らぬ誰かに「あなたが好きです」と告白されて、いきなり手に入る可能性が、希望として捨てきれない。
それこそメディアが盛んに作り上げた、一番たちの悪い『幻想』なのだけど。
希望として捨てきれないから、諦めたつもりでもふっ切れなくて、いつまでも縛られる。

それは、変身願望にも通じるものがあるだろう。
好きだと言ってくれる王子様が現れてくれさえすれば、その瞬間から何もしなくてもお姫様になれる。
小説の一本も書かずに、ある日突然作家になれると思う人はいないのに。
出会いの機会も作らず、異性的な魅力も磨かずに、でもある日突然恋愛できると思う人はけっこういて、恋愛さえすれば自分もヒーローやヒロインになれると思う人は多いのではなかろうか。

そこれほど強力な『幻想』が他にあるだろうかと考えると、まず思い浮かばない。
人間に『幻想』が必要であるならば、その『幻想』として恋愛が用いられるのも致し方なし、と言わざるを得ないだろう。
「恋愛だけが人生じゃない」といった『幻想』では、とうてい勝ち目はない。
大衆を幻惑するには弱すぎる。

ならば、できることは、恋愛の難易度をもっと下げてやることではないだろうか。
レベル1でいきなりドラゴンに挑まんとする(それでやられたり、ビビって逃亡する)人が多いように思うので、まずは装備を整えて――それも最初は竹のやりとか棍棒とかから初めて――スライム相手に経験値稼ぐような手引きが世の中に必要なのではないだろうか。

併せて、恋愛の神聖さをもっとぐっと下げて、一度に複数人との交際可、交際期間は平均1年ほどって感じにすれば、回転率が上がるので、多くの人間にチャンスが広がる。
なんというか、将来の伴侶を選ぶステディな恋愛は30歳前後くらいから、それまでは友だち以上恋人未満的なノリで、経験値稼ぎな恋愛が当たり前な風潮を広めればよい。

恋愛に臆病な人間にとって最大の要因となるのが見た目ならば、美容整形をもっとカジュアルなイメージにしてしまえばいい。
髪型を変えるように、顔も作り変えちゃえばいい。
手術代も、保険が効くようにしてさ。

恋愛市場主義にとって、恋愛の回転率を上げることは需要の拡大につながるのだから、大いに歓迎すべきことだろう。
政府にとっても、結婚~出産の前段階に男女のカップリングが必要になる以上、恋愛の難易度を下げることは少子化対策として悪くないはず。
個人にとっても、まぁ、ますます恋愛市場主義の奴隷になっていくわけだけど、その対価として、かように強力な恋愛の快楽性が得られるのであれば、リーズナブルと言えるのではないか。

あとは、恋愛を神聖視する人たちの反発が予想されるけど、それに対しては、神聖さを結婚の方にシフトさせることでごまかせばよい。
恋人付き合いと友だち付き合いとの境目を曖昧にして、その代わりに、結婚こそが神聖で、永遠かつ独占的な愛を誓うもの、という具合に。

美容整形に対する抵抗感は、「本当に大切なのは中身だから、外見はいじってもいい」ってな感じでごまかせばいいだろう。

そんな感じでメディアでばんばん流布してもらえば、5年と待たずに難易度下がってくるんじゃないだろうか。
どうせ恋愛至上/市場主義を推し進めるのなら、そこまでやってもらいたいものだ。
[PR]
by kude104 | 2009-11-06 16:36

無意識の差別者

今日は映画サービスデーなのに、映画を観に行けなかったなりよキテレツ。

http://anond.hatelabo.jp/20090927053232
『私は、なにも知らないままで人を傷つけるような人間になりたくない。もし差別者の立場を脱する方法があるなら、私はそうしたいし、もし無かったとしても、せめてその差別について理解して、なるべく他人を傷つけないように生きたい』
誰も傷つけずに生きて行くことなどできはしないだろうと思う。
どうしても他人を傷つけたくないなら、人とのかかわりを断って、山中で世捨て人として暮らすほかないだろう。

ぼくも無意識に誰かを傷つけているのだろうけど、正直、気にしてなんていられない。
だって、「無意識」なんだもん。
無意識だから傷つけて良いということではなく、無意識に傷つけることを意識して生活することは無理だということ。
「無意識に傷つけるかもしれない」と意識して生活したとしても、無意識に傷つけることを避けられるわけじゃないから(だって、「無意識」に傷つけるんだから)、結局、「無意識に傷つけたくない」と心がけたところで、それは「心がけ」以上のものにはなりえない。
その心がけでもってより良く生きていけるならいいけど、つらい気持になるだけなら、本末転倒というかむしろ害になってんじゃん、と。

「無意識の差別」は、基本的に、差別される側の問題であるとぼくは考える。
(「差別される側に問題がある」じゃないよ)
差別された人が「それ差別です」と訴えて初めて、「無意識の差別」が意識されるわけで。
意識されてようやく、その「差別」が、差別した側とされた側両方の問題になる。
ぼくが、誰かが、無意識の差別者であるとして、それが意識された時点で誠実な対応ができれば良しと、ぼくは割り切っている。
無意識のうちの差別は、もうしょうがないとして割り切る。

「無意識に差別していることを察しろよ」というのは、まぁ理想なんだけど、現実的じゃないよね。
何度も言うように、無意識なんだから。
「無意識の差別」を訴えることができずに苦しんでいる人がいるというのは、想像するとモヤモヤするけど、やっぱりどうしようもないよなぁ。
意識できたものについては、どうにかしようもあるけど。

誰でも簡単に無意識の差別者になってしまうというということは、きっと、差別というものが特別なものではなく、世の中にごく当たり前にあるものだってことだろう。
このひとはきっと、「当たり前にある」ということがいやで、根絶したいと願い、挫折したのかもしれない。
でも、そんなふうに当たり前にあるものならば、大切なのは「いかにして差別と付き合うか」ということだろうと思う。

それは病気に対するのと似ているかもしれない。
病気を根絶できればいいのだけれど、そうも行かないから、そのつど対処療法を行うしかない。
大きな病気はきちんと手術して治療し、小さな病気は暖かくして栄養取って寝て治すような、そういう付き合い方しかないんじゃなかろうか。

そして、無意識に人を傷つけることを覚悟して、堂々と生きて行くしかないんじゃないだろうか。
[PR]
by kude104 | 2009-10-01 23:59
【レビュー・書評】現代人はキリスト教を信じられるか―懐疑と信仰のはざまで [著]ピーター・L・バーガー - 書評 - BOOK:asahi.com(朝日新聞社)
とくに著者がこだわるのが、罪のない子供が苦しみ死ぬことである。なぜこのようなことが起こるのか。これは神を信ずるキリスト教徒として、どうしても受け入れることができない現実である。著者は神自身苦しんでいるという学説も紹介しながら、そして「口ごもり」、躊躇(ちゅうちょ)しながらも、信仰を捨てないのであれば最後は神への信頼に賭けるしかない、と述べる。
ぼくは「キリスト教的な神はいない」と思っているのですが、もし仮にキリスト教的な神がいるとして、ではなぜこの世の不幸を放置しているのか?という問いに対する答えは、こうじゃないかと考えます。

人間にとって、自分たちの苦しみや死というものは、ある種絶対的な「不幸」です。
でも、神様にとっての人間の苦しみや死というものは、せいぜい心を痛める程度のものでしかない、と。

これは、神様が薄情だからということではなくて、そもそも神様と人間とでは生きている次元が違うのだから、神様が人間の苦しみを本当の意味で理解できるはずがないと思うのです。

たとえば、人間にとって死が絶対的な恐怖なのは、復活がない(かもしれない)と思っているからじゃないでしょうか。
死んでも必ず復活できると100%信じているなら、死ぬことはそう怖くないと思うんですよね。
セーブしたところからやり直せるなら、人は自分の命をもっと粗末に扱うことができるに違いない。

神様にしてみれば、最終的には、死んだ人間をすべて(と言っても、自分を信仰している者に限るのでしょうけど)復活させるつもりでいるわけです。
自分自身がやることだから、必ずそうするつもりだし、必ずそうなると100%分かっている。

であるならば、神様は人の死というものを「あとで必ず復活できるからね」という視点で観ていることになるし、逆に言うと、そういう視点でしか観られない。
ゆえに、復活できないかもしれないと怯える人の気持ちというものは、頭では分かるかもしれないけれど、心ではきっと分からないに違いないと思うのです。

人の苦しみというものも、おそらく同じように観ているだろうと思います。
なにしろ、神様は永遠を生きています。
人が苦しんでいる時間など、神様にとっては、瞬きする一瞬にも満たないくらいの感覚でしょう。

「死」の場合と同じように、神様にしてみれば、最終的にはすべての人間に永遠の幸せを与えるつもりでいるわけです。
神様にとって、人が今感じている苦しみというものは、この後に訪れる永遠の幸せの前の、ほんの一瞬の「悪夢」程度にしか映らないでしょう。
夢の中でぎゃ!と殺されて目覚めたら、そこは神の王国で、以後なに不自由なく幸せに暮らしましたとさ・・・みたいな。

そう考えれば、神様がこの世の不幸を何が何でも絶対取り除く!と思わないのも頷けるよな、と。
だから、もしも神様がいるとしても、たとえ一生懸命祈ったところで、神様が「この世で」助けてくれるとは思えないですね。
まぁ、気まぐれで助けてくれることはあるかもしれないですけど。
それを当てにして生きて行くわけにはいかんだろうなぁと思います。

それでもなお信仰を持てるかどうかは、結局のところ、幸せな「来世」を神様が与えてくれると信じることができるかどうかじゃないでしょうかね。


・・・最後にちょっと私信ですが。
J君、結婚おめでとう。
この世に神の祝福があるかどうかは分かりませんが、人の祝福はあると思うので、たくさんの人に祝福されて幸せになって欲しいなぁと思います。
[PR]
by kude104 | 2009-09-06 18:53