なぜ大人になるとゲームがつまらなくなるのか
2008年 03月 30日
せめて、彼らのゲームの思い出がいつまでも色褪せませんように。 - シロクマの屑籠(汎適所属)
まさに。
ぼくもゲームに飽いた者の一人ですが、その最たる理由は、「ゲームで遊ぶのがしんどくなったから」ですもん。
「昔のゲームは面白かった」という物言いは、正確には、「俺にとって、昔のゲーム体験は面白かった」ということになるでしょうか。
つまり、「昔のゲームと今のゲームを、昔の自分が遊んだらどっちを面白く感じるか」ではなくて、「同じゲームを昔の自分と今の自分が遊んだら、どっちの自分のほうが楽しめるか」という話なのでしょう。
かつては最高に面白かったゲーム体験が、成長するとともに色褪せていくのはなぜか――
1.飽きる。
基本的に、人間とは飽きる生き物なので、仮に、ゲームの面白さの絶対値がずっと同じレベルであったとしても、飽きが入る分、ぼくの中での娯楽としてのゲームの相対的な面白さは低下します。
2.他の新しい娯楽が登場する。
たとえば、ネットやケータイとか。
ぼくでいえば、ネットが登場しなければ、今もゲームを遊んでいたかも知れません。
3.趣味や嗜好の変化。
ゲーム以外にも面白いことが増える。
たとえば、異性とのデートやおしゃれなどは子供の頃にはまるで関心がないけど、大人になると興味を持つことのひとつでしょう。
新たに興味対象が増えると、そのぶん、古い興味対象への関心が薄れてしまう。
4.友人との会話のネタがゲームから別のものになる。
子供同士の会話で、仕事の愚痴とか誰々が結婚したらしいとか昔の思い出話とかで盛り上がってたら、いやだろう。
政治の話とか経済の話とか、そういうのも大人になると面白くなってくるんだよね。
5.時間と気力が少なくなる。
大人になると、自由時間が圧倒的に目減りする。
やることなくて時間が有り余っていた子供の時のようには遊べなくなる。
――と、そんなところでしょうか。
基本的には、娯楽に費やすことができるエネルギーの総量は減るのに、娯楽の数は増えるという傾向があって。
それで、娯楽の取捨選択が行われる結果、ゲームが次第に切り捨てられていく・・・と。
でも、そこで切り捨てられるのが、なぜゲームなのか。
たとえばぼくなら、読書なんかは昔も今もずっと面白いです。
世間的にも、「昔の小説は面白かった」とか、あんまり聞きませんよね。
小説なんて、娯楽としての発展は多分もう止まっちゃってると思いますけど、でも、ぼくはまだまだ読書という娯楽に飽きる気配はありません。
「なぜゲームなのか」という理由を考えると、やはり、5.の影響を一番受けるのがゲームだからということになるでしょうね。
ゲームって、「楽しい」と感じるまでの手間暇が多いんですよ。
たとえば本なら、ページ開いて読めば終わりです。
これがゲームなら、ゲーム機引っ張り出してきて、ゲームソフトセットして、テレビつけて、ゲーム機起動して、タイトル画面が起動するのを待って、メニュー選んで・・・みたいな。
実にめんどい。
本一冊読み終わるのとゲーム一本遊び終わるのとでも本のほうが早いだろうし、本のほうが安いし、本のほうが手軽に持ち運べるし、ぱっと読んでさっと止められるし。
もちろん、ゲームはゲーム、本は本、それぞれの楽しさがあるわけですが、「どの娯楽を削るか」という一点で比較する場合、ゲームの手間暇の多さは不利だと思う。
得られる娯楽満足度を費やしたエネルギーの量で割った数値がもし計算できたら、多くの大人にとってのゲームの値は、他の娯楽と比べてそんなに高くないんじゃないかな。
「昔のゲームは面白かった」という物言いがそのままの意味で理解できるとしたら、一点、昔のゲームは「楽しい」と感じるまでの手間暇が少なかったから、というのはあるんじゃないだろうか。
カセット差して電源入れればすぐタイトル、スタートボタンですぐゲームが始まって、キャラクターを動かすとすぐそのゲームの醍醐味が味わえる。
携帯ゲームやカジュアルゲームが人気なのも、やはり手軽さゆえだと思うわけで。
まさに。
ぼくもゲームに飽いた者の一人ですが、その最たる理由は、「ゲームで遊ぶのがしんどくなったから」ですもん。
「昔のゲームは面白かった」という物言いは、正確には、「俺にとって、昔のゲーム体験は面白かった」ということになるでしょうか。
つまり、「昔のゲームと今のゲームを、昔の自分が遊んだらどっちを面白く感じるか」ではなくて、「同じゲームを昔の自分と今の自分が遊んだら、どっちの自分のほうが楽しめるか」という話なのでしょう。
かつては最高に面白かったゲーム体験が、成長するとともに色褪せていくのはなぜか――
1.飽きる。
基本的に、人間とは飽きる生き物なので、仮に、ゲームの面白さの絶対値がずっと同じレベルであったとしても、飽きが入る分、ぼくの中での娯楽としてのゲームの相対的な面白さは低下します。
2.他の新しい娯楽が登場する。
たとえば、ネットやケータイとか。
ぼくでいえば、ネットが登場しなければ、今もゲームを遊んでいたかも知れません。
3.趣味や嗜好の変化。
ゲーム以外にも面白いことが増える。
たとえば、異性とのデートやおしゃれなどは子供の頃にはまるで関心がないけど、大人になると興味を持つことのひとつでしょう。
新たに興味対象が増えると、そのぶん、古い興味対象への関心が薄れてしまう。
4.友人との会話のネタがゲームから別のものになる。
子供同士の会話で、仕事の愚痴とか誰々が結婚したらしいとか昔の思い出話とかで盛り上がってたら、いやだろう。
政治の話とか経済の話とか、そういうのも大人になると面白くなってくるんだよね。
5.時間と気力が少なくなる。
大人になると、自由時間が圧倒的に目減りする。
やることなくて時間が有り余っていた子供の時のようには遊べなくなる。
――と、そんなところでしょうか。
基本的には、娯楽に費やすことができるエネルギーの総量は減るのに、娯楽の数は増えるという傾向があって。
それで、娯楽の取捨選択が行われる結果、ゲームが次第に切り捨てられていく・・・と。
でも、そこで切り捨てられるのが、なぜゲームなのか。
たとえばぼくなら、読書なんかは昔も今もずっと面白いです。
世間的にも、「昔の小説は面白かった」とか、あんまり聞きませんよね。
小説なんて、娯楽としての発展は多分もう止まっちゃってると思いますけど、でも、ぼくはまだまだ読書という娯楽に飽きる気配はありません。
「なぜゲームなのか」という理由を考えると、やはり、5.の影響を一番受けるのがゲームだからということになるでしょうね。
ゲームって、「楽しい」と感じるまでの手間暇が多いんですよ。
たとえば本なら、ページ開いて読めば終わりです。
これがゲームなら、ゲーム機引っ張り出してきて、ゲームソフトセットして、テレビつけて、ゲーム機起動して、タイトル画面が起動するのを待って、メニュー選んで・・・みたいな。
実にめんどい。
本一冊読み終わるのとゲーム一本遊び終わるのとでも本のほうが早いだろうし、本のほうが安いし、本のほうが手軽に持ち運べるし、ぱっと読んでさっと止められるし。
もちろん、ゲームはゲーム、本は本、それぞれの楽しさがあるわけですが、「どの娯楽を削るか」という一点で比較する場合、ゲームの手間暇の多さは不利だと思う。
得られる娯楽満足度を費やしたエネルギーの量で割った数値がもし計算できたら、多くの大人にとってのゲームの値は、他の娯楽と比べてそんなに高くないんじゃないかな。
「昔のゲームは面白かった」という物言いがそのままの意味で理解できるとしたら、一点、昔のゲームは「楽しい」と感じるまでの手間暇が少なかったから、というのはあるんじゃないだろうか。
カセット差して電源入れればすぐタイトル、スタートボタンですぐゲームが始まって、キャラクターを動かすとすぐそのゲームの醍醐味が味わえる。
携帯ゲームやカジュアルゲームが人気なのも、やはり手軽さゆえだと思うわけで。
by kude104
| 2008-03-30 23:59
| ゲーム