世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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ポストされた宗教冊子を読んでみた2

前回の続き
めげずに冊子を読み進めているわけですが、遅々として進まん。

読んでいて「話が通じない」感覚を覚える理由がなんとなく分かった気がする。
神の偉大さは聖書によって証明されていると冊子は言う。
で、その聖書に嘘偽りのないことは、神によって保証されているという。
・・・えーと、それって“堂々巡り”じゃないですかね?

「Aさんは嘘ついてないよ。だって、Bさんが証言してるもん」
「じゃ、そのBさんが嘘ついてたらどーすんの?」
「Bさんは嘘つかないよ。だって、Aさんが一番信頼している人だもん」
みたいな。

数学で言えば、あらゆる定理や法則がすべて「神は全知全能として存在する」という公理によって導かれ、証明されている感じ。
彼らにとっては、その公理は真理で疑いを挟む余地はない。
そして、この公理が成り立つと仮定すれば、たしかにすべての数式が矛盾なく成り立つ。
(なにしろ、この公理ってば0の掛け算みたいで、どんな値であっても掛けると0にする強力なパワーを有しているんだもの)

つまり、「神の存在」の公理のもとでは、彼らの論理に破綻はない。
「なにか綻び見つけて論破しちゃおっかなー」と思っていくら読んでも、「神の存在」の公理で説明できてしまう。

でも、この公理を疑うぼくにしてみると、それはなんの説明にもなっていないのと同じです。
では、公理が間違っていることを証明しようと思ってみても、これも難しい。
正しいと証明することもできなければ間違っていると証明することもできないし、そもそも彼らにしてみたら証明する必要すら感じないくらい、それは絶対の真理です。

公理を共有しない者同士がいくら理路整然とお互いの考えを述べたところで、「なに言ってんだ、こいつ」となるのは当然ですよね。
でも、逆に言えば、相手が前提としている公理が分かれば、共感できるかどうかは別にして、思考は理解できる。
自分と違う思考回路の働きを見るのは、それはそれでなかなか面白いです。

ところで、冊子などで引用される聖書にある一節――神の偉大さを証明する記述というのは、「神の偉大さを説いたAさんの言葉を聞いたBさんの言葉」をCさんが編集したもの、じゃないかと思います。
良く知らないけど。
公理を持たないぼくには、そこに伝言ゲームのような不確かさの可能性を感じなくもない。

誰かが嘘をついたり、間違えたり、改竄したり、取捨選択したり、そうする余地は十二分にあり得ましょう。
もしこれが聖書でなければ、たとえば裁判での証拠だとしたら、甚だ心もとないと言わざるを得ないのではないか。
Dさんが無罪である根拠として、Dさんは無罪だというAさんの話を聞いたというBさんの話をまとめたCさんの報告書を採用するようなもので、しかも、AさんもBさんもCさんもDさんの友人であるようなものでしょう。

そして、やたらと「神の偉大さは聖書のこれこれの記述によって証明されているのです」というくだりが出てくるのは、翻って考えると、それだけ証明されなければ疑わしいということでもあるのかな、と思ったりもします。
繰り返し証拠をあげて説明される真理って、なんかスケール小さく感じる。
まぁ、これに関しては、あるいは「すげぇ! ここにも、ここにも、ここにも神の偉大さの証明がある!」ってな感じでテンション上がってしまって、思わずあちこちに書いてしまったということかもしれない。
そういうのは微笑ましくて嫌いじゃない。
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by kude104 | 2007-10-13 14:38