世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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表現の自由を守るとは

17日の風刺画問題についてのエントリーにトラックバックを頂いたので、このネタについて再度あれこれ考えてみたいと思います。

トラックバックを頂いた先のエントリー(「表現の自由」の範囲を決め直す:TIME ガイダンス)では、「表現の自由」が「秩序の維持」との間で新たな線引きを迫られているといった話題が取り上げられています。

ここで問題となるのが、「線引きされた自由は果たして自由と呼べるのか?」という問いかけでしょう。

厳密に言えば、線引きされた自由はおそらく自由ではない。
でも、現実的に考えれば、野放しの自由では社会が混乱するので、線引きされた自由を自由ということにしたい。
このあたりの、言うなれば理想と現実のせめぎあいのようなものが、「表現の自由」を巡る議論で行われているのではないかと思います。

そこで、我々がイメージする「自由」とは何かという点を考えてみると、おおむね「禁止事項がないこと」という答えになるのではないでしょうか。
何でもできる、何をやっても良い、それが自由だと。

しかし、これは非常に原始的な「自由」であるように感じます。
言うなれば、動物的な自由の捉え方です。
それをここでは「行動レベルでの自由」と呼ぼう。

それに対して、我々が尊重し価値を認める「自由」とは、もう少し文明的なものではないだろうかという気がするのです。
行動レベルでの自由に対して、言わば「精神レベルでの自由」というものがあるのではないかと思います。

行動レベルでの自由が「禁止事項がない」というルールの元での自由な行動であるとすれば、精神レベルでの自由はそのもう一段上に来ると考えればいい。
すなわち、精神レベルでの自由とは、「禁止事項を自ら設定する自由」であると考えられる。

「禁止事項がない自由」に自ら禁止事項を設ける自由とは、なんと高度な精神活動であることか。
そしてそれは、明らかに行動レベルだけの自由よりも一段自由度が高い。

自由というものをこのように考えると、「線引きされた自由は果たして自由と呼べるのか?」という問いに対する答えは明白です。
他人に線引きされることは自由を失うことで、自ら線引きすることは、それすなわち自由であると。

ではこのとき、「表現の自由を守る」とはどういうことか。
それはつまり、どんな表現でも許容されることではなく、表現における良し悪しの線引きを表現者自らが行う権利を守ることです。

ならばはたして、この権利は何によって守られるのか。

それはたとえば、我々が誰かに「自由にしていいよ」と言うとき、そこに何があるかを考えれば分かります。
そこにあるのは、「信頼」でしょう。

「自由にして良い」というのは、相手に対する信頼があって初めて言える言葉ではないかと思います。
いまいち信頼の置けない相手には、「あれはしないで、これはしないで」とあらかじめ釘をさしておかなければなりません。

そう考えると、「表現の自由」に規制を加えようという話が出てくる状況というのは、表現者が社会の信頼を失いつつあることの現れだと言える。
なぜ信頼を失いつつあるのか?
それは、なんでもかんでも「表現の自由」で守ろうとするからではないでしょうか。

良し悪しの線引きを間違った表現を「いや間違っていない」と言い張って守ろうとすることで、社会の信頼を失い、結果的に自ら「表現の自由」を危うくしているのだとすれば、なんと滑稽な姿でしょう。

表現者は本来、己の「表現の自由」を懸けて、命懸けで表現の良し悪しを線引きしなければならないのだ。
もし線引きを間違ったら、信頼を失い、表現の自由を失うのだから。
そういう命懸けの表現がいやなら、精神レベルでの自由を放棄して、決められたルールの枠内での表現に甘んじるしかない。

周りの表現者にしても。
ある表現が社会に混乱を招いたときに、その表現の線引きが適切であったかという点を、真剣に議論しなければならない。
適切であると思えば、表現者の判断を守るために声を大にして支持しなければならないし、不適切であると思えば、表現の自由への信頼を守るために声を大にして指摘しなければならない。
自浄作用を持たないシステムは、外からコントロールされても仕方がない。

表現の自由を守るとはそういうことで、それが守られていれば、社会とせめぎあうこともなく上手くフィットしていけるんじゃないでしょうか。
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by kude104 | 2006-02-24 22:42