世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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信仰と被害のはざまで揺れる被害者の信仰

牧師暴行、被害少女らメールで苦悩伝達…摘発の端緒に(Yahoo!ニュース:読売新聞)

構図としては、「強者が弱者を虐げる」という人類普遍の病巣ですよね。
強者を強者たらしめているものが、暴力か地位かお金か制度か、はたまた宗教かという違いはあれ、話としては残念ながらよくある話です。

ただ、「宗教」という人を幸せにするためのシステムを利用して、無垢に幸せであろうとする人々を虐げ不幸にするやり方は、やっぱり不快です。
それと同時に、どうにもモヤモヤしてしまうのは、信仰と被害のはざまで揺れる被害者の在り様です。

無宗教の人間にしてみれば、象徴としての神と規範となるべき教義があれば、それだけで信仰には十分に思えるのです。

学校の授業に置き換えれば、教義がテキストで牧師は教師だ。
テキストが「絶対」であれば、テキストと違うことを教える教師が「間違っている」なんてことは、子どもにだってわかる。
これが塾なら、「あそこはダメだ。別の塾を探しましょう」ってなるのが普通です。

なのにどうして、信仰と被害のはざまで揺れてしまうのか。
牧師や伝道師なんてのは布教活動を行う“信者”であって“神”ではないわけで。
信仰が強固であればあるほど、本当ならば、牧師の間違った言動を毅然と拒否できるはずなのにと思えてなりません。

おそらく、神の言葉を牧師の口を通してしか聞かないから、神と牧師を同一視するようになるのだろうけど、そういう信仰の仕方でいいの?って思うんですよ。
そんなだから、「宗教は思考放棄」などと言われるんじゃないでしょうか。

もちろん、それは布教する側に責任があることだろうと思います。
教会を通じて牧師を通してってシステムにすることで、金と影響力を集めているわけですから。
それはまぁ、組織運営のあり方としては正しいと思うんですけど。

ただなぁ、他でもない自分の幸せを左右することなんだから、自分が何を信仰するかという部分はしっかり考えておくべきなんじゃないかなぁ。
信仰するにも自己責任で──みたいな話はなんとも世知辛いですけど、こういう事件があると、幸せになるというのは簡単ではないなぁと思わざるをえません。
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by kude104 | 2005-04-08 20:58 | 時事・社会