世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

ADVというゲーム

「A.B.」さんの『ひぐらし』記事その後で、先日の「ゲームの進化」が取り上げられてビックリ。
長年Web日記を書いてきて、こんなふうに他所様の文章に登場したのは初めてです。
しかも、あんな有名所に・・・いいのかしら?

あのときはまさかこんなことになるとは思わず、けっこう適当に書いてしまいましたので、この機にもういちど自分の思うところをきちんと書いておこうと思います。

かなり長くなりますんで、興味のある方だけどうぞ。


とりあえず今回は、ADVやノベルゲームなど、ストーリー性の高いADV系ゲームに絞って話を進めます。
RPGなんかの場合は、またちょっと話も違ってくるかと思いますので、今回は無視。

ADVは、クリアを目的にプレイするゲームと考えます。
というのも、クリアのないADVというのはまず存在しないだろうし、あってもきっと面白くないだろうから。

では、ADVのクリアとは何か。
マルチシナリオの場合は、トゥルーエンドを見るとか、すべてのシナリオを見るとかありますが、いずれにせよ、「作者が用意したストーリーを最後まで鑑賞した」時点がクリアと言えるでしょう。

正確には、ストーリーの進行を停止させる「障害」を、正しいコマンドあるいは選択肢によって回避しつつストーリーを先に進め、エンディングに到達すればクリアということになるでしょうか。

ADVが、「正しい選択肢で障害を回避する」要素(以下、ゲーム性)と「ストーリーを先に進め、エンディングに到達する」要素(以下、ストーリー性)から成り立っているとするならば、はたしてどちらがよりADVの魅力──プレイの原動力──となっているのでしょうか?

ぼくの考えとしては、ストーリー性だろうと思っています。
ADVは「ストーリーを楽しむことを目的とするゲーム」と言ってもいいくらいです。

なぜなら、ADVからゲーム性だけを抜き出した場合と、ストーリー性だけを抜き出した場合とで比較して、どちらが面白いかと考えれば、たいてい後者でしょうから。

もちろんその前に、ゲーム性とストーリー性がそもそも対立項なのか?というところから考える必要があるでしょう。

たしかに、両者を「対立項だ」と断定するのはちょっと躊躇われます。
「没入感」というのでしょうか、「正しい選択肢で障害を回避する」ことがストーリーをよりよく楽しむことに貢献しているのではないかとも思えます。

しかし、ないと断定は出来ないけれど、あると断言できるほどにその効果は大きくないのではないかと思うのです。

なぜなら、ADVの変遷を見ると、ゲーム性の面での衰退が明らかに見て取れじゃありませんか。
必要なら、発展こそすれ衰退しないでしょうに。

ならばせめて、両者が「独立項」──ストーリー性とゲーム性、それぞれ別々に最大化し得る──と考えることはできないか?

もし両者が有限の何かを取り合う関係にあるなら、ストーリー性を高めればゲーム性は低くならざるを得ないし、逆もまた然りです。
すなわち、「対立項」になります。

この「有限の何か」を、ぼくは「プレイヤーのプレイ時間」であると考えています。

普通に考えれば、1時間のプレイ時間を取り合うのではなく、ストーリー性に1時間、ゲーム性に1時間なら、プレイ時間は2時間と加算していけばいいじゃないかと思いますよね。

でも、ADVの場合、ゲーム性が生じるポイントがストーリーの進行を停止させる「障害」にあるところが問題です。

どういうストーリーが面白いかはともかく、面白いストーリーというのは、「早く先の展開が知りたい」と思うものではないでしょうか。
であるならば、ADVのストーリー性を高めることは、すなわち、プレイヤーを「早く先の展開が知りたい」状態にすることになります。

そこに、ストーリーの進行を停止させる「障害」が発生すれば・・・?

プレイヤーの心理としては、「早く先の展開が知りたい」わけですから、とうぜん「早く障害を回避したい」と思うはずです。
それはつまり、「障害の回避に費やす時間を少しでも短くして、そのぶんストーリーを進めたい」ということではないでしょうか。

これって、ゲーム性とストーリー性がプレイ時間を取り合っていると言えませんか?

ストーリー性を高めることが「早く先を知りたい」という推進力をもたらす行為で、ゲーム性を高めることが「簡単には正解が分からないようにする」という停滞をもたらす行為だとすれば、ゲーム性がストーリーの進行を停止させるポイントで発生する以上、対立項に成らざるを得ないと思うのです。

そして、ADVがストーリーを楽しむゲームで、ゲーム性とストーリー性が対立項なら、ADVの進化方向として、ストーリー性が肥大しゲーム性が衰退するのも頷けます。

その究極の形として──ジャンルの進化の究極形というのではなく、ゲーム性とストーリー性のバランスの究極形として──「読むだけ」に到達する作品が現れても不思議ではありません。

・・・というのが、前回の「ストーリーを味わうゲームが、究極、読むだけのゲームに到達するのは当然のことかも」といったあたりです。


さて、ここからは付け足しですが。
せっかくなので、『ひぐらし』についてももう少し突っ込んで考えてみたいと思います。

『ひぐらし』には「選択肢」がない。
「選択肢」がないなら、ストーリーの進行を停止させる「障害」が必要ないということになります。

でも、『ひぐらし』にもストーリーの進行を停止させる「障害」があるようです。
未プレイなので間違っているかもしれませんが、目にした情報から察するに、おそらく章立てされ、各章の終わりでいったんストーリーの進行が止まる構成になっているんじゃないでしょうか。

通常のADVでは、「障害」ポイントには「選択肢」が現れ、プレイヤーに「正しい選択」を求めます。
一方『ひぐらし』では「選択肢」は現れず、代わりに「推理」する機会が与えられます。

ADVの「選択肢」と『ひぐらし』の「推理」の違いは何か。
『ひぐらし』の「推理」は、正解でも不正解でも、次なるストーリーの進行になんら影響を及ぼさない(たぶん)。

「障害」が解消されるのは、単純に次の章がリリースされたときという「時間待ち」となっています。
(すでにリリースされているぶんについては、プレイヤーが自分で納得したら進むという形になるのかな)

いずれにせよ、ストーリー性の対立要因となる「障害」は、ゲーム性(推理)とはなんら関係のない「次章に続く」という理由で発生します。
また、「推理」の結果とは関係なく、ストーリーは時間が至れば正解に向かって進行するため、ここでも「推理」というゲーム性がストーリー性と対立しません。

よって、ストーリーを楽しむだけなら、『ひぐらし』のゲーム性はあってもなくても構わないように思えます。

しかし、ストーリーを楽しんでいるプレイヤーが「障害」に出会ったとき、当然「早く続きが知りたい」という欲求にかられます。
でも、知りたくても、(作者以外)誰も知りません。

大人しく次のリリースを待つしかないわけですが、それでもやっぱり続きが気になりますよね。
続きを推理ための材料は抱負にあり、また「先の展開を予想すること」を公式にも推奨しています。

そんな状況にあれば、「よーし、じゃあ推理してみるか」と考えるのは、ごく自然なことに思えます。

ストーリー性を高めることで生じる「推進力」を、実に見事に「推理」のエネルギーに変換する仕組みが見て取れます。
しかも、敢えてストーリーを堰き止めることで「推理」のエネルギーに変換する仕掛けなんて、まぁー巧妙です。

この仕掛けをもって、『ひぐらし』をゲームと言ってもいいんじゃないでしょうか。
コンピュータゲームと言えるかどうかは難しいところですけど。

通常のADVのゲーム性が「正しい選択肢で障害を回避する」ことであるのに対して、『ひぐらし』のゲーム性は「推理する」ことそのものにあります。
また、通常のADVのクリアが「作者が用意したストーリーを最後まで鑑賞する」ことであるのに対し、『ひぐらし』のクリアは「真相を見事見破る」ことにあります。

「正しい推理によって障害を回避する」ことでも、「真相を見破ってストーリーを最後まで鑑賞する」ことでもありません。
行為そのものが「本体」なのです。

ですから、ソフトウェアの内側に入れる必要はないし、また入れられない。

もし強引にソフトウェアの内側に入れるとしたら、ソフトウェアにタイマーを仕込んで、そのタイマーによってソフトウェア内部の情報が更新されるという形を採ることになるんじゃないでしょうか。

各章のリリースのタイミングや、掲示板などの周辺情報の更新を、そのタイマーによって擬似的にコントロールすると。
・・・まぁ、それでもネットで検索すると「真相」が分かってしまう状況はどうしようもありませんが。


といったところで。
拙いところや纏まっていないところもありましょうが、ひさびさにがんばって長文書きました。
お付き合い頂き、ありがとうございます。
[PR]
by kude104 | 2005-01-25 23:38 | ゲーム