世の中の物事についてあれこれ考えるkudeの日記


by kude104
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信仰と宗教

「救われない魂」を、信仰を持たずに救うことが、どういうことなのか分からない - どんなジレンマ

信仰を持たない人間の魂も救われることはあるのだろうか。
おそらく、「ない」だろうと思います。
なぜなら、「魂」が「救われる」ことを願う時点で、それはある種の「信仰」だろうと思うからです。

「魂」という漠然としたものを救うためには、「魂」を定義する「世界観」が必要になります。
そして、それを「救済してくれるもの」を求める時点で、これはもう立派な信仰でしょう。
もし、そうした信仰を微塵も持たない人間ならば、「魂」というものを「救済してほしい」などと、そもそも考えもしないのではないでしょうか。

もしそれが信仰であるなら、救われるためには「納得すること」が必要になるかと思います。
どんな無茶苦茶なロジックでもいい、「そういうものか」と納得することでひとは救われるのだと思います。
逆に言えば、なぜ救われないかというと、納得できないからでしょう。
なぜだか分からない、どうしてだか分からないから、心のもやもやが収まらず、救われない。
それを誰かに「それは、こうだ!」とすぱっと快刀乱麻を断ってもらえれば、「なるほど、そうだったのか!」と心が晴れて救われる。

宗教というものは、そうした「もやもやした信仰」をロジカルに体系化し説明したものであると考えます。
なので、納得できさえすれば、信仰の対象は宗教でなくても構わない。
科学に救われる人もいれば、愛に救われる人もいるでしょう。
そうした人たちは、科学を信仰し、愛を信仰するのでしょう。

「1+1=2」というルールを「そういうもの」として飲み込んで、世の中のあらゆる数式を理解することと、「神」というルールを飲み込んで、世の中のあらゆる事象を理解することと、信仰のレベルとしては、それほど大きな違いがあるとは思えない。
魂の救済を求めて苦しむことも、解けない数式を前に悩むことも、どちらも「解き方」としては同じなのではないでしょうか。
片や公理から定理を導き計算して答えを出し、片や神から教義を導き信仰して答えを出す。
数式を解くのには数学が適していて宗教が適さないように、魂を救済するには宗教が適していて数学は適さないでしょう。
そうした違いはあるけれど、どちらも「世界の成り立ちを説明するための体系」であるのは同じじゃないでしょうか。

そう考えれば、たぶん、信仰を持った人が強いのではなくて、「式の解き方を知っている」ひとが強いのだろうと思います。
信仰だけあってもダメで、それによって問題が解けないと救われない。
その解き方が正しいか間違っているかはどうあれ、本人が「解けた」と思っているならば、心は晴れやかでいられましょう。

解き方は、何度も言うように、宗教である必要はありません。
ですので、冒頭の問いを「宗教を持たない人間の魂も救われることはあるのだろうか」とするならば、それはYESと言えましょう。
YESはキリスト教だけのものではないですよ、と。
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by kude104 | 2009-05-23 15:54